辛亥革命

 

革命派と立憲派

清朝末期の体制改革運動には「立憲派」と「革命派」というふたつの大きな流れがある。このうち立憲派というのは清朝皇帝を戴く立憲君主制を主張するグループであり、その中心となったのは戊戌政変で海外に亡命した康有為や梁啓超らである。

彼らは民度の低い中国には共和制は適合せず、革命はかえって列強による中国分割を招くだけだと主張。保皇会という政治結社をつくり、当初は首都北京を中心に、戊戌政変の後は海外を拠点に立憲君主制の導入を目指して運動を展開した。

いっぽう革命派とは、いうまでもなく清朝を打倒した上で共和制を導入しようというグループであり、その中心となったのは広東出身の医師孫文である。ハワイで教育を受けた孫文は中国の近代化を旗印に1894年、ホノルルで革命結社・興中会を結成。清朝打倒と共和制国家建設をめざして中国南部や海外を拠点に活動を展開していた。

また孫文らのグループを革命派の主流とすればその傍流をなしたのが、留学生グループである。日清戦争後の東京には憂国の情に燃える多くの中国人留学生が学んでいたが、当初はその多くが立憲派に期待を寄せており、革命派はむしろ少数派であった。だが、義和団事件や拒俄運動(ロシアを満州から撤兵させようとした学生運動。しかし清朝政府によって逆に弾圧された)のさいに露呈された政治的無能と列強に対する清朝政府の卑屈な態度を目の当たりにした留学生たちはしだいに清朝を見限り、革命派へと接近していく。やがて急進化した一部の留学生たちは帰国し、各地に革命団体を組織し始めた。そのうち黄興、宋教仁らは湖北・湖南出身者を中心に華興会を、蔡元培、秋瑾らは浙江・江蘇出身者を中心に光復会を組織した。さらに湖北武昌にも科学補習所と呼ばれる革命結社がつくられた。

だが、残念ながらこれら各地の革命団体はそれぞれバラバラに活動しており、横の連携はほとんどなかった。こうした状況を憂慮したのが、日本人志士宮崎滔天である。滔天は1905年7月、ヨーロッパ外遊から戻った孫文に黄興を引き合わせた上で大同団結の必要性を説いた。席上、すっかり意気投合した孫文と黄興は、興中会と華興会を母体に他の革命団体をもまじえた統一的な組織、中国同盟会をつくることに同意した。

その後、東京赤坂で挙行された中国同盟会創立大会では、孫文を総理に選出し、革命綱領として「韃虜駆除・中華回復・民国創立・地権平均」の四つを採択した。ここに中国史上初めて統一的な組織と近代的な革命理論を持つブルジョア革命政党が誕生したのである。

辛亥革命前夜の情勢

義和団事件によって西安に蒙塵していた西太后は1901年、改革を断行する新政の詔勅を発した。さしもの清朝も事ここにいたっては重い腰を上げざるをえなかったといえるだろう。だが、科挙の廃止、新式学校の設立、海外留学生の派遣、新式陸軍(新軍)の創設などからなるこの一連の改革は、わずか数年前に流血をもって自ら葬り去った「変法」をそっくりそのまま焼き直したものに過ぎなかった。しかも、新政のための財源を名目にこれまでの数倍にのぼる増税を行ったため、民衆の生活は以前にも増して苦しくなるばかりであった。それでも清朝の元での立憲君主制に希望を寄せる立憲派は、将来の立憲制実現に道を開くものとこれを歓迎した。その一方で、中国同盟会に拠る革命派はこれをたんなる弥縫策であり、政権の延命策であるとして非難し、また無視した。

そうしたなか、1911年5月、立憲派が久しく待ち望んだ新内閣が発足した。だが、その顔ぶれはと見ると首相以下、ほとんどの閣僚が満州人貴族で固められていた。満州族による支配権を手放すまいとするこの清朝側の露骨な姿勢は立憲派の期待を完全に打ち砕いた。なかでも決定的だったのは、この「親貴内閣」が公布した「鉄道国有化令」である。国有化といえば聞こえはいいが、実際はその敷設権を担保に列強から借款を導入しようというのがその目的であった。

この売国政策に怒った四川、湖北、湖南、広東各省の人々は各地で猛烈な反対運動を展開した。なかでも四川では資本金の一部が税金として強制的に徴収されていたこともあって商店主や学生をも巻き込んだ広範な大衆運動へと発展した。やがて成都で清朝側官憲によるデモ隊に対する無差別発砲事件が起こるとそれをきっかけに運動は暴動へと発展。民衆の怒りの炎はまたたくまに四川全域へと燃え広がった。

 

武昌蜂起と辛亥革命の成功

四川暴動に端を発した民衆の反清闘争はさらに湖北省の首都武漢へと飛び火した。1911年10月10日の夜、武漢三鎮のひとつ、武昌に司令部を置く清朝の新軍の一部が反乱を起こしたのである。蜂起を準備したのは同盟会とは別に独自の革命運動を進めていた文学社と共進会というふたつの革命結社。両団体はかねてから新軍の下士官、兵士たちのあいだに工作を続けており、蜂起前夜までには湖北新軍のおよそ三分の一、約5000人を革命派に取り込むことに成功していた。だが爆弾製作中の誤爆事故をきっかけに漢口のロシア租界にあったアジトが露見、計画も清朝側に察知されてしまった。これに対して官憲の捜査が自らの身に及ぶことを恐れた下士官らは指導部不在のまま急きょ計画を繰り上げて決起したのである。

最初の蜂起部隊が武器弾薬庫を襲撃すると各地で新軍兵士が呼応、わずか一昼夜のうちに武漢三鎮は革命派によって占領されてしまった。さらに完全な指導機関を持たない革命軍は立憲派の旅団長・黎元洪をむりやり担ぎ出し革命政権の代表にすえた。黎元洪は最初、拒んでいたがやがて形勢が革命派に有利と見るや自ら弁髪を切り落とし、正式に革命政権・湖北軍政府の都督に就任した。

武昌における革命成功の報を聞いた各省政府は立憲派の官僚や郷紳が中心になり清朝からの独立を宣言。まず湖南が、ついで陜西省、江西、雲南、さらに貴州がとなだれをうつように続々と各地に革命政府が樹立された。その年の12月、革命勃発の報を亡命先のアメリカで聞いた孫文はイギリスを経由して急きょ帰国。1月1日、臨時大総統に就任した孫文は、南京で中華民国臨時政府の成立を宣言した。

袁世凱の簒奪と辛亥革命の挫折

一方、事態の進展に驚いた清朝は当時、故郷に陰棲していた袁世凱を革命軍鎮圧のために呼び戻した。各地の新軍が続々と反旗をひるがえす中、清朝政府にとって最後の頼みの綱となったのは袁世凱だけだったからである。事実上、清朝政府の国軍であった北洋軍は満州人の指揮には服さず、ただ一人袁世凱のみが意のままに動かすことができたのだ。11月、かれは内閣総理大臣に任命され軍の全権を与えられた。

ちなみに袁世凱が中央政界に返り咲いたのは、列強、なかでもイギリスの強力な後押しがあったのもひとつの理由である。当初、革命の進展に「中立」の態度を表明していた列強だったが、革命政権、清朝政府いずれも自分たちの利益を代弁させるには力不足とみてとるとひそかに新しい支配秩序の確立を画策。そんなかれらのお眼鏡にかなったのが袁世凱だったのである。

ここに稀代の策士といわれる袁世凱の本領が発揮されることになる。かれは列強の支持を背景に自らの都合のいいように清朝と革命政権を手玉にとった。すなわち、北洋軍を率いる袁は革命軍を圧倒するだけの実力を十分に持ちながら、わざと停戦の方向へ持っていくようしむけたのだ。そして12月、イギリスのあっせんで南北両政府の講話交渉が上海で進められた。

北洋軍の熾烈な追撃を受け、同時に列強に税関を押えられるなど軍事的、財政的に窮迫していた南京政府は妥協もやむなしとして「清帝が退位し、共和制を支持するなら袁世凱に臨時大総統の地位を譲ってもよい」という声明を発表。これを受けて2月12日、宣統帝は退位、ここに清朝250年の歴史の幕がついに下されることとなった。

さらに南京政府は袁の独裁化を防ぐため、民主的な暫定憲法「臨時約法」を急きょ制定、袁世凱にその遵守を要求した。計算づくの上、同意した袁世凱は3月10日、北京で臨時大総統に就任。清帝にかわって中国の新しい支配者となった。

宋教仁暗殺と第二革命

1912年夏、国民党と改称した同盟会は議会における多数派工作によって政治的な主導権を握る議会主義路線へと戦術を転換した。一方、黎元洪や張謇など旧立憲派は共和党を結成し、袁の与党として国民党に対立する形となった。第一回国会総選挙はこれに統一党や民主党など急ごしらえの新党がいくつか加わって争われたが、結果は国民党の圧倒的勝利に終わった。いまや孫文に代わって事実上の党首となった宋教仁が新国会で国務総理に指名されることは確実となった。ところが、1913年3月20日、宋教仁は遊説先の上海駅頭で凶弾を受け、帰らぬ人となる。言うまでもなく袁世凱が放った刺客の仕業であった。

袁世凱はその直後、国会の承認を得ることなく列強と直接契約を結び、2500万ポンドの借款を導入。これによって自らの地盤である北洋軍を増強し、国民党弾圧の道具に使おうという魂胆であった。だが、袁世凱のこうした約法無視の暴挙にかかわらず、対抗する国民党側の足並みはそろわなかった。それにつけこんだ袁世凱はさらに6月、革命派の三都督、李烈鈞、胡漢民、柏文蔚らを罷免。ついで北洋軍を続々と革命派の拠点に向けて南下させた。ここに至るや孫文らはようやく武装蜂起を決定。7月12日、江西・江蘇・安徽・湖南・広東・福建・四川の各省があいついで独立を宣言、ただちに討袁の兵を挙げた。しかし、圧倒的な軍事力の差に革命軍はわずか二か月で鎮圧されてしまい、孫文らは日本へと亡命しなければならなかった。これを第二革命、または約法を護持するという意味で護法戦争と呼んでいる。

帝制復活と第三革命

1915年、日本政府は袁世凱政府に対し二十一か条の要求を提出した。これは基本的に清朝時代に結んだ条約を新政府が履行するよう確認を求めただけであり、一説によればむしろ袁世凱の方が日本側に求めたものだったが、老獪な袁世凱はこれを政治的演出の材料に仕立て上げた。これによって「日本による侵略の危機」を煽り、亡国の淵に立つ中国の統一・富強のためには求心力に劣る共和制よりも君主制の方が望ましいとする世論を人為的につくり上げたのである。もちろん、最終的な目的は自らが新たな王朝の皇帝となることであった。

この帝制復活運動を進めるため袁は旧立憲派・革命派の著名人士六名(洪憲六君子)を使って袁世凱推戴の一大キャンペーンを展開した。これに応じて各界の代表と称する請願団が無数に生まれ、続々と総理府へ押しかけた。もちろん、こうした請願団の裏には袁世凱側のさしがねがあったことは言うまでもない。

その後、国体変更を論議する国民代表大会が開かれ、満場一致で立憲君主制への移行を決議すると袁はこれに応える形式で12月12日、即位を受諾した。そして、翌1916年を洪憲元年とし、元旦に予定された即位式典に向けて準備を開始した。ところが、これに対し雲南省が突如、反旗を翻した。蔡鍔率いる雲南軍が「護国軍」の旗を掲げ、討袁の兵を起こしたのである。これが第三革命、またの名を護国戦争といわれる運動である。

これに貴州、広西までも呼応しあいついで独立を宣言すると、袁世凱麾下の将領たちのなかからも帝制取り消しを求める声が続出した。さらに列強も反帝制の態度をとるにいたり、袁は完全な四面楚歌へと陥った。こうなってはやむをえない。3月下旬、袁世凱はしぶしぶ帝制の取り消しを宣言した。わずか83日間続いただけの「洪憲の夢」であったが、討袁派はなおも戦いの手を緩めない。追いつめられた袁は心労の末、その年の6月、失意のうちに世を去った。

 

【エピソード1 孫文の機転】
赤坂の内田良平宅で行われた同盟会結成準備式には、かなりの数の革命家が集まったと伝えられている。ところが、あまりに大勢の人間が詰めかけたため会の途中、床が突然抜けるというハプニングが起こった。その瞬間、革命家たちの顔色がさっと曇った。いくら進歩的な革命家たちとはいえ、当時の迷信からも完全に自由であったわけではない。「床が抜けるなど不吉な…」誰もがそう思ったからである。だが、そこはさすが孫文。「清朝の屋台骨をぶち抜いたぞ!」ととっさに機転をきかしたため、一同はかえって気勢をあげたという。
【エピソード2 孫文の「大アジア主義演説」】
「北上宣言」を発し、北京へ向かった孫文は途中、神戸に寄港し大勢の日本人を前に講演を行った。有名な「大アジア主義」演説である。そのなかで、孫文は武力を用いて圧迫する西洋文化を覇道文化、それと対称的に徳をもって接する東洋文化を王道文化と称し、日本を含めたアジアの諸民族は団結して「王道」を貫かねばならないと主張した。そして「日本が将来、西洋覇道の手先となるのか、それとも東洋王道の牙城となるのか、それはあなたがた日本国民が慎重に選ぶべきだ」と孫文は結んだ。これは日本が軍国主義に走りつつあることに警告を発したものというのが、これまでの一般的な受け止め方だったが、最近では別の受け止め方も出てきている。落ち目になりつつあった孫文への支援をしぶる日本への嫌みであり、同時に支援を受け始めたソ連へのリップサービスにすぎなかったという見方である。
「滅満興漢」「韃虜駆除」というスローガンが示すように、辛亥革命はもともと満州族が支配する清朝からの漢民族の分離をめざした独立運動だった。ところが革命後に樹立された中華民国は、それらをいつのまにか「五族共和」というスローガンにすりかえた上、満州、内蒙古、チベット、ウイグルなどもその版図に組み込んでしまった。革命のどさくさにまぎれて旧清朝領土までもちゃっかり自分のものにしてしまったのである。→続きを読む

いずれにせよ、この中華民国による満州併合が歴史的にみて大きな誤りであったことは間違いない。なぜなら満州が辛亥革命後、ただちに独立国となっていたならば、その後の歴史がたどる東半球全域を覆う大規模な戦乱へと続く道は避けられたかもしれないからだ。そもそも満州事変から支那事変、そして太平洋戦争へと続く日中の、さらにはアメリカをも巻き込んだ一連の戦争の原因は、つきつめていえばみなこの満州問題に帰着する。すなわち、これらの戦争の背景にはすべて満州問題が関係しているのだ。→続きを読む

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こちらは電子本です。豊富な写真付きです。
第一集<アヘン戦争・太平天国・洋務運動>編
第二集<辛亥革命・国民革命>編
捏造支那近現代史の旅出版部→