太平天国の乱

洪秀全に降りた神の啓示

ある日、病床にあった一人の青年が奇妙な夢を見た。いや夢というよりある種の幻覚だったというべきだろう。その幻覚は次のような内容だったーー。

青年の伏せる病室に大勢の人々が龍や虎とともに入ってきた。彼らに天上の宮殿へと案内された青年はそこでみるからに気高い老人と出会った。黄金の髪とひげを持ち、ビロードの黒衣をまとった老人は青年にこう告げた。

「全世界の人間はみな私の子である。なのに人々は私を顧みないどころか、逆に悪魔を崇拝している。 おまえはその悪魔を絶滅しなければならない」。

こういうと老人は青年に一個の金印とひとふりの剣を与えたーー。

一時は生命すら危ぶまれたほどの容態だったが、幻覚を見たあとは不思議なことに波が引くように快方へと向かった。やがてすっかり調子を取り戻したが、この時の奇妙な夢はその後も強烈な印象として青年の心の底に残った。

青年の名は洪秀全。のちに太平天国の指導者として清朝に反旗を翻す人物であるが、当時は科挙の地方試験に落第ばかりしている気の弱い一介の田舎書生であった。病床に臥せったのも3度目の試験に失敗したことからくる心労が原因だったという。

その6年後のことである。洪秀全は広州で不思議な男に出会った。男はなにもいわず一冊の本を手渡すと、いつのまにか消え去っていた。その後、家に戻った洪秀全はなにげなく本をめくって仰天した。そこに書かれている内容が6年前に見たあの夢とそっくりだったからだ。実はその本は『勧世良言』というプロテスタントの伝道書だったのだが、それを読んだ洪秀全はそれまで心にひっかかっていた謎がすっかり氷解したように感じた。そしてこう結論づけた。

ーー「悪魔を絶滅せよ」といった金髪黒衣の老人はキリスト教の神エホバであり、エホバは自分に「エホバを唯一神とする地上天国をうちたてよ」と命じたのだーーと。

使命感にかられた洪秀全は受験勉強をやめ、同郷の書生・馮雲山とともにエホバ、すなわち上帝を宇宙の創造主といただく新宗教・拝上帝会を創始した。さらに翌年、桂平県の紫荊山を根拠地として本格的な布教活動に乗り出した。

拝上帝教が説いたのは、儒教の『礼記』に典拠を持つ「大同世界」とキリスト教の理想社会をミックスしたいわばつぎはぎのような教えであった。だが、父なる神の下に人類は一家族であり、貴賤貧富の差はなく、すべての男女は平等であるというその教義は阿片戦争後の社会不安のなか、しだいに人々の心をひきつけていった。なかでも貧しい農民たちーとりわけ村の土地神の祭りからのけ者にされてきた客家のひとたち(洪秀全も客家出身であった)ーは次々に拝上帝教の信者になった。

その一方で拝上帝教はたんに来世の幸福を願う平和的な宗教団体ではなかった。それは道教や仏教などの神仏の像を「偶像」として破壊してまわる社会的にも危険な団体であったし、同時に清朝政府を神の支配を妨げる「妖魔」とみなす反体制的な革命集団でもあった。そして当然ながらこの過激な反体制集団と支配者側、すなわち地主や官憲との間にはやがて激しい対立関係が生じることとなった。

金田起義、そして太平天国の大反乱へ

1850年7月、洪秀全は信者1万人あまりを紫荊山ふもとの金田村に呼び集めると、これを男軍と女軍に分け、厳しい軍事訓練をほどこした。そして翌年1月11日、洪秀全は信者の前に立ち、新国家「太平天国」の樹立を宣言。自ら天王と称し、ただちに「妖魔」清朝を倒すべく立ち上がるよう命令した。

金田を出た太平天国軍は、まず広西中部の町、永安を占領した。天王洪秀全はここで馮雲山、楊秀成、粛朝貴、韋昌輝、石達開の5人を王に封じ、政治面・軍事面の指導体制を整えた。かれらはそれぞれ東王、西王、南王、北王、翼王と呼ばれ、天王洪秀全を補佐することとなった。また私財所有禁止の詔令を発するとともに暴行、略奪を禁止し、住民に対する布教活動に力を入れた。そのせいもあってか半年後、清軍に追われふたたび北上を開始したときには、農民のほとんどが家を焼きはらって太平軍につき従ったという。

永安を脱出した太平軍は北上し、今度は湖南の道州を占領、さらに武漢へと攻め上った。途中、天地会系の秘密結社員数万を加えた太平軍は1953年1月、ついに武漢を占領することに成功した。だが、太平軍はここにも長くとどまろうとせず、二か月後には再び北上を開始した。めざすは南京である。すでに20万を超えていた太平軍は、長江に無数の船を浮かべ、一路東進した。途中、九江、安慶といった長江沿いの都市を次々とおとした太平軍はそのまま怒涛のような勢いで南京城の制圧に成功した。金田起義から数えて2年余りのことであった。

太平天国樹立ー南京建都と北伐・西征

1853年3月、南京へ入城した天王洪秀全はさっそく理想とする太平天国の建設にとりかかった。洪秀全はまず南京を天京と改名、さらに『天朝田畝制度』という小冊子を頒布した。 この『天朝田畝制度』は、太平天国がめざす国家像を具体的に表わしたもので、それは、(一)、上帝を唯一神とする神政政治 (二)、財産をいったん聖庫に納め、 そこからあらためて支給する聖庫制 (三)、神の前における人類の平等および男女の平等 ( 四)、二五家を単位とする隣組制、という四本の柱からなっていた。

要するに「田があればともに耕し、飯があればともに食べ、銭があればともに使い、場所によって不均衡があったり、人によって暖衣飽食できないものがあったりしない」平等な社会を目指したものである。一見、理想的な社会のようだが、これはあくまで机上のプランであり、実際これらの政策がどこまで実現されたかとなると疑問が多い。しかも神の前の平等をうたっていながら「官」と「民」とであきらかな身分差があるなど、その制度ははなはだ矛盾に満ちたものであった。また軍隊内における徹底した男女の隔離政策は、太平天国の禁欲主義を象徴するものとして名高いが、そのいっぽうで天王以下、東王、北王らひとにぎりの首脳部は何人もの妾を囲っていたのも事実であった。

こうして国作りにとりかかる一方、太平天国軍は清朝軍をさらに追いつめるべく北伐と西征の軍をおこした。その年の5月、北京へ進撃した北伐軍は黄河を渡り一時は天津まで迫る勢いを見せた。だが、このあたりは同じ中国といっても北方文化圏に属し、南方人にとっては言葉も違うし食べ物も異なる。そのためこれまでは進軍するほど兵数が増えたのに今度は逆に減る一方となった。当然、士気もふるわない。しかも北方の厳しい冬はもうすぐだった。対する清軍は寒さに慣れた蒙古族を主体とする騎馬軍団である。太平軍と清軍は雪の河北平野を舞台に激戦を繰り広げたが、やがて太平軍は力尽き、飢えと寒さの中、壊滅していった。それに対し、西征軍の方は比較的優勢のうちに進撃を続けていた。かつて占領した安慶、九江、武漢などを再占領し、さらに湖南の岳州をも支配下においた。だが、ここで太平軍は思わぬ強敵と出会った。曽国藩の率いる湘軍である。

当時、清朝の官軍である八旗や緑営は長い太平に慣れ、腐敗しきっており、ほとんど役に立たない状態だった。そこで清朝は、急きょ地方の郷紳に団練や郷勇と呼ばれる半官半民の軍隊を組織することを命令したのだが、そのなかでももっとも勇名をとどろかせたのがこの湘軍であった。

湘軍は長沙の南の湘潭で太平軍を大破し、岳州を奪回、さらに武漢、九江を奪回し、一時は天京すらうかがう姿勢を見せた。しかし、天京側は急きょ翼王石達開軍を派遣、太平軍は反撃に転じ再び九江、武漢を取り戻した。こうして両軍は湖北と湖南を境に対峙状態へと入った。

太平天国首脳部の内訌

まわりを清軍に取り囲まれながらも政権が一応、安定してくると、天京に陣取る首脳部内には早くも亀裂が生じてきた。原因は東王楊秀清の専横である。楊秀清は紫荊山時代の1848年4月、最初の「天父下凡」(天父エホバの霊が人間の体にのりうつること)を体験し、それを契機に指導部内でしだいに頭角を顕わしてきた。その後、北上する太平天国軍の軍事権を握ったことからますます勢力を拡大し、南王馮雲山が戦死したのちは事実上、天王洪秀全につぐナンバー2の地位を占めるようになった。南京を占領したあとに造営された東王府も天王府にまさるとも劣らない壮大な規模で、「どちらが君でどちらが臣であるか区別できない」ありさまだったという。

やがて東王はこの「天父下凡」を利用して、自ら天王にとってかわろうとした。 天父エホバのお告げと称して天王を鞭で打ちすえ、あまつさえ天王と同じ「万歳」の称号を自分にも認めさせたのである。しかしこうした目に余る所業に他の王たちが反感を抱かないはずがない。そこに立ち上がったのが北王韋昌輝である。北王韋昌輝は1853年9月2日の未明、東王府に兵を差し向け、突如クーデターを敢行した。寝込みを襲われた東王は拉致され、殺害された。さらにその一族二万人あまりも悽惨な虐殺の末、血の海に沈んだ。

だが惨劇は、それだけではおさまらなかった。そのころ安慶にいた翼王石達開は急を聞いて天京に駆けつけた。そしてあまりに残虐なしうちであると北王を非難したところ、北王はこれにも反発、今度は翼王を殺そうとした。間一髪のところで難を逃れた翼王は本拠地の安慶にとってかえすと、北王討伐の軍を率いて天京へと迫った。翼王来るの報に焦った北王は今度は矛先を天王へと向けた。だが、天王の軍隊はさすがに強固で北王軍が攻めあぐんでいるうちに東王の残党が突然、うしろから襲いかかってきた。それに呼応するように正面からは天王の軍隊が突撃してきた。こうなってはたまらない。北王の軍は四散し、北王はそのまま捕えられてしまった。その後、北王は極刑に処され、その首は塩漬けにされて翼王の陣営へ送られた。天王の処置に満足して天京に入った翼王に天王は、今後は自分と二人の兄が政権を握り、軍事は翼王に一任することを約束した。ところがこの二人の兄がまた無能で、ことあるごとに翼王と衝突した。「こうなってはいつまた自分も天王に殺されるかわからない」。愛想をつかした翼王は再び天京を脱出、四川方面で独自の行動を起こすことにした。

悽惨な内訌と石達開の離脱によって太平天国内部にはしだいに自壊のきざしがみえはじめた。のちに清軍に捕えられた李秀成の言葉を借りれば「朝中に将なく、国中に人なく」「軍民の心は散り散りバラバラになってしまった」のである。清軍はこうしたすきに乗じて大攻勢をかけ、江西、安徽の多くの拠点を奪回した。さらに58年はじめには南京に迫った清軍が城壁を三方から取り囲み、太平天国側は長江を残し外部とのルートを絶たれてしまった。

しかし危急存亡の事態に直面した天王は自ら親政に乗り出すとともに、英王陳玉成、忠王李秀成といった若く有能な指揮官を抜擢して防衛の任に当たらせた。かれらは互いに連携し、天京の包囲を解くとともに各地で清軍を撃破した。そして一度は奪われた領土のかなりの部分を再び奪回することに成功した。

列強の戦線参加と太平天国の落日

英王や忠王の活躍によって一時勢力を盛り返したものの、内訌後の太平軍にはもはや昔日の勢いは残されていなかった。やがて彼我の勢力は逆転し太平軍はしだいに劣勢へと追い込まれていく。なかでも大きな打撃となったのは列強が清国側についたことであった。列強はそれまで中立の立場をとっていたが、アロー号事件で天津・北京条約が結ばれると、そこで得た利権を守るため清朝支持へと政策を転換し、清軍と協力して太平天国にあたることを明らかにした。こうして生まれたのが常勝軍や常捷軍と呼ばれた中外混成の軍隊である。当時、上海には租界を守るためアメリカ人ウォードを指揮官とする外人傭兵部隊が結成されていたが、清朝と列強はこれを改編・強化し、常勝軍と改称して太平軍にあたらせようとした。

また寧波でも常勝軍にならって常捷軍や常安軍などと称される軍隊が編成された。列強の近代兵器で武装したこれらの中外混成軍と曽国藩、李鴻章らの率いる湘軍、淮軍との連合軍によって太平軍は各地で敗退し、劣勢に追い込まれていった。

これに対し天王は敗勢を挽回しようと多くの指揮官に王号を濫発し、士気を鼓舞しようとした。だが、これはかえって指揮系統を混乱させるだけであった。しかもその間にも連合軍はじりじりと包囲網をせばめてくる。敵に囲まれ籠城をよぎなくされた天京城内ではやがて餓死する者が続出し、道には屍体が累々と横たわるありさまとなった。

こうしたなか、自らも栄養失調により病を得た天王洪秀全は死期を悟ったかのように死の二日前、最後の詔勅を下した。

「朕はただちに天国に上り、天父天兄から天兵を借り天京を守る」

こう言い残して死の床に就いた洪秀全だったが、約束した天兵はついにやってこなかった。かわりにやってきたのは曽国藩の弟が率いる湘軍であった。1864年7月20日、太平門を突破した湘軍は城内に殺到、ただちに天王府を占拠した。ここに15年にわたって中国全土を震撼させた太平天国の反乱がようやく鎮圧されたのである。

【エピソード1 太平天国の呪い】
太平天国軍の不穏な動きを知った清朝はこれをまだ芽のうちに弾圧しようとした。そこで白羽の矢が立ったのはかつてのアヘン戦争の英雄、林則徐である。ところが反乱軍鎮圧のため赴任する途中で林則徐は突然、病を得て死んでしまった。さらにその後釜に指名されたのは両江総督の経験を持つ大物官僚、李星阮であった。だが、これもまた現地に赴任する途中、偶然にもぽっくり病死してしまう。太平軍鎮圧に向かった将軍が立て続けに死んでしまったことは両人とも高齢であったとはいえたしかに奇妙なことであった。当時の人々が、これを「太平軍のたたりだ」と噂したかどうかはわからない。しかし太平軍側がこれによって大いに勢いづいたことは間違いないだろう。
【エピソード2 洪秀全の後裔を名乗る日本人】

1930年代のはじめのこと、洪秀全の故郷、広州花県の官禄坿に一人の日本人がひょっこり現れた。
男は最初、広州の日本領事館に勤務する矢野某と名乗ったのだが、驚いたのはその後である。なんとその男は「自分は日本に逃げのびた洪秀全一族の後裔だ」と主張したのである。もちろん、最初のうち村人はそのうさんくさい男の話を誰一人信じようとはしなかった。

ところが「父の話によると村の塾の前に一対の獅子の石像を埋めておいたそうだ」と男がいうので、半信半疑ながらためしに掘ってみたところ、なんと実際にみつかったらしく、以来村人はその男を信じるようになったのだという。

また日中戦争勃発後の1938年、日本軍が広州を占領した際もやはり「洪秀全の後裔」をかたる将校がやってきた。

男は矢野と一字違いの矢崎と名乗り、「先に皇軍の一部隊が洪秀全一族の宗祠を破壊したことに対して陳謝する。今後、皇軍がこの村に立ち入ることを禁止し、一切の労役や食料の提供を免除する」と村人を集めて布告した後、洪姓の長老たちを広州に招いて酒をふるまい、千元の軍票を与えたという。

これらはおそらく特務工作の一環として日本軍が打った芝居だったのだろう。とくに矢崎のほうは広州を占領した日本軍の宣撫工作のひとつとみてまず間違いあるまい。

【エピソード3 「天父下凡」】

太平天国の神秘的性格を象徴しているのが、東王・楊秀清への天父下凡である。これは、天父エホバが楊秀清に乗り移って託宣するというもので一種のシャーマニズムーーいわゆる神憑りーーであった。神仏や死者が人間に乗り移ることを中国南部では降僮(タンキー)というが、こうした現象はこのあたりではそれほど珍しいものではなかったようだ。

だが、当の洪秀全は悪魔のわざであるとして信者にはこれを固く禁止していた。にもかかわらず、よりによって第一の側近である東王の身体を借りて発生したこの突然の降僮、しかも畏れ多くも天父ご自身の出現というのだから洪秀全もかなり面食らったであろう。やむなく洪秀全はこれを「天父下凡」と称し、正真正銘天父ご自身の降臨であると正式に公認したのだった。

もっとも楊秀清のそれが本当に脱魂状態でなされたものかどうかについてはかなり怪しいといわざるをえない。というのも楊秀清はのちに神の命令だとして洪秀全にとってかわろうとしたからだ。もちろん、最初の天父下凡が正真正銘、無意識のなかでなされた奪魂現象だった可能性もないわけではない。だが、計画的ともいえるその巧みなやり口から見て、すくなくとも後半のそれは王位を狙うための意図的な演技であった可能性が高いとみていいだろう。

【エピソード4 恭親王奕訢の暴言】

太平軍は弁髪を切り、長髪にしていたため清朝側はこれを長髪賊とも呼んでいた。皇族の恭親王奕 は「ロシアは肘腋の憂いであり、イギリスは手足の患にすぎない。髪および捻(当時、華中地方で蜂起した白蓮華教系の秘密結社捻軍)こそが心腹の病である」と評し、その「心腹の病」を除くためにはむしろ列強の軍事力を積極的に導入すべきだと主張した。

その結果、たしかに太平軍は鎮圧できたのだが、そのことがまた列強による中国侵略に格好の足場を与える結果となったことはその後の歴史が示す通りである。

なお後年、日本との戦争のさい、蒋介石は「日本軍は皮膚の病。共産党こそが心腹の病」と似たような表現を使っている。

【エピソード5 高杉晋作の見た上海】

維新の立役者高杉晋作が、貿易船『千歳丸』に乗船して上海を訪れたのは1862年6月のことである。ちょうど、そのころ太平軍と清・英仏軍による熾烈な戦いが上海周辺で繰り広げられていた。しかし、高杉がそこで見たものは太平軍との戦乱ばかりではなかったようだ。

「支那人、外国人に使役されている、憐れ。わが国もついにはこうなるのだろうか、そうならぬことを祈るばかり」。太平天国の乱以上に西洋人に虐げられている中国人の姿に衝撃を受けたことが、当時の日記に記されている。その後、帰国した高杉は騎兵隊を創設し、文字通り命をかけて維新回天の事業に奔走したわけだが、高杉をそうした決死の行動に駆り立てた原動力となったのはおそらくこの上海での体験だったのだろう。

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こちらは電子本です。豊富な写真付きです。
第一集<アヘン戦争・太平天国・洋務運動>編
第二集<辛亥革命・国民革命>編
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