日中戦争(支那事変)

盧溝橋事件勃発

「パン、パン、パーン!」

北京郊外、永定河にかかる盧溝橋付近で夜間演習を行っていた日本軍の頭上に突然、数発の銃声が響いた。「すわ、敵の攻撃か!?」 緊張した日本軍は、いったん演習を中止、点呼を行ったところ兵が一人見あたらない。その後、しばらくして行方不明の兵はひょっこり戻ってくるのだが、時すでに遅し。一連の事件を中国側による挑発とみなした日本軍は翌日ただちに近くの龍王廟付近に拠っていた中国軍に対する攻撃を開始した。1937年7月7日夜から8日未明にかけてのことである。

一時は全面衝突も危惧された事件だったが、日本政府は不拡大方針を堅持。現地でも両軍首脳による停戦協定が結ばれ、事件は小競り合いのまま終結したーー。かに思われたがさにあらず。事態はそのままでは終わらなかった。

その後、どういうわけか中国側による挑発事件が頻発したのである。まず13日に北京の大紅門で日本軍のトラックが狙撃され、日本兵4人が死亡するという事件が発生した。続いて25日には北京近郊の廊坊で日本軍に対する襲撃事件が発生。また翌26日にはやはり北京の広安門で中国軍による挑発事件が発生し、日本側に19名の死傷者が出た。

さらにきわめつけとなったのが、29日に発生した通州事件である。北京近郊の通州で在留日本人200人以上が現地の中国人によって無惨に殺害されたのである。犠牲者の数もさることながら、なにより日本人を憤激させたのはその猟奇的ともいえるきわめて残虐な殺害方法であった。事件の全容を知った国内の日本人は激昂。その非道ぶりを非難する中から沸き起こった「支那撃つべし」の声はまたたくまに全国を包み込んだ。

一方、前年に発生した西安事件を受けて中国の世論も和平より「抗日」ーすなわち日本との全面対決に傾いていた。当時、平和より戦争を求める声はむしろ日本よりも中国で、それも国民党政府内よりむしろ共産党内部や市民の間で高まっていたのである。

第二次上海事変と南京陥落

こうした両国間に漂う一触触発の空気に最終的に火を点けたのも中国側だった。8月13日、上海近郊に集結していた蒋介石軍が突然、日本人が多く住む共同租界に攻撃を仕掛けてきたのである。中国領内とはいえ租界は事実上、外国領土である。そこに何の通告もなしに武力侵攻してきたのだから、これはもう事実上日本への侵略戦争といってもいいあきらかな不法行為であった。

しかも周辺住民を虐殺し、略奪して回る中国軍の素行の悪さはすでに誰もが知るところである。このままでは済南事件や通州事件の二の舞になるーーそう判断した日本政府はただちに松井石根大将を司令官とする二個師団の上海派遣を決定、同時に「支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省を促す」という声明を発し、事実上の宣戦布告を行った。

一方、蒋介石側も14日に「抗日自衛宣言」を発表、日本に対し全面対決の姿勢をあらためて鮮明にした。さらに同月22日には、紅軍の一部を国民革命軍第八路軍に改編することを公布。ここに2年前の「八・一宣言」以来、中国共産党および中国国民の宿願であった統一戦線の結成ーー第二次国共合作は実を結んだのである。

当初、松井大将を司令官とする上海派遣軍の目的は「上海付近ノ敵ヲ掃滅」することとされ、その作戦地域もせいぜい蘇州、嘉興あたりまでと限定されていた。しかし、日本軍は「首都南京を陥さない限り、問題は解決しない」と判断、敗走する中国軍を追撃しながら中華民国の首都南京へと向かった。

南京への総攻撃が開始されたのは、冬も押し迫った12月10日のことだった。これに対し、首都防衛の任にあたったのは、唐生智将軍率いる約10万の中国兵。かれらは、城外の雨花台や紫禁山に堅固な陣地を築き、日本軍を迎え撃とうとした。だが、日本軍にとってもこれは二千年におよぶ日本の歴史上はじめての中国の首都攻略である。「南京一番乗り」を争う日本軍の士気は高く、中国軍はしだいに守勢一方に立たされる。やがて12日の朝、雨花台と紫禁山が陥落、さらに同日の午後には日本軍の一部隊が中華門西方の城壁を越えて城内へと乱入すると中国軍はたちまち算を乱して壊走し、なだれを打つように背後の揚子江へと逃れた。

翌13日、城内に進駐した日本軍は国民政府庁舎に日章旗を掲揚。ここに中華民国の首都南京は、日本軍の占領下に入ったのである。まさに日本史上でも画期的といえる歴史的な瞬間であった。

この際、いわゆる「南京虐殺」が発生したと中国側は主張しているが、虐殺の定義が曖昧であること、また犠牲者数が過大すぎたり、証言のみで物証がほとんどないこと、さらにそのような「虐殺行為」が果たして本当に日本軍によるものなのか、あるいは中国軍伝統の置き土産である暴行略奪によるものなのか判別しがたいことなどから、その存在をめぐっては長い間、議論が続いている。だが、最近の流れでは否定的な意見が優勢となっている。

徐州陥落と武漢・広東攻略作戦

一方、日本軍が南京に入城した時にはすでに重要な政府機関は長江上流へと移された後だった。そのため日本軍は、翌年4月再び戦線を拡大する。次の目標は中国軍主力が集結していた徐州である。それを包囲殱滅させ、華北と華中の占領地域をひとつにつなげようというのが日本軍のねらいであった。これを受けた日本軍は4月下旬、北と南から徐州めざして進軍を開始した。「徐州、徐州と人馬は進む…」と軍歌にもうたわれた有名な麦秋の行軍である。

中国軍の激しい抵抗に遭いながら徐州包囲網をしいたのはすでに5月中旬だった。だが、日本軍はここでも肩すかしを食らう。蒋介石は無駄に兵力が失われるのをおそれ、中国軍に撤退を命じたのである。中国軍が機動退却したあとの5月20日、日本軍は徐州を占領した。だが、南北の占領地をつなげることには成功したものの、中国軍主力を殱滅させることには今回も失敗した。

ここで蒋介石軍の戦い方にも少し触れておきたい。敗走する蒋介石軍は追いすがる日本軍を振り払うため、ありとあらゆる手段を利用した。それは通常の国民国家の正規軍であれば到底なしえないような、民衆の犠牲すらもいとわないきわめて非情かつ卑怯な戦い方であった。

その象徴ともいえるのが38年6月に発生した黄河決壊である。徐州から逃げ延びた蒋介石軍は日本軍の追撃を阻むため、黄河の堤防を意図的に破壊。周辺流域に大規模な氾濫を引き起こした。もちろんこれによって日本軍は一時足止めを余儀なくされたが、同時にそれは周辺住民にも甚大な被害をもたらすことになった。一説によると水死者は100万人、被害者は600万人にも及んだといわれている。これに対し、日本軍が追撃そっちのけで現地農民の救出に当たったのは有名な話である。

また同年11月には長沙大火という事件も起こっている。これは湖南省の省都長沙が国民党軍により市街地ごと焼き払われた事件である。これによって長い歴史を持つ人口50万の長沙は廃墟となり、2万から3万人といわれる焼死者を出した。これは日本軍に戦略物資を与えまいとしたための焦土作戦だったとされているが、中国共産党幹部の周恩来の暗殺が目的だったという説もある。いずれにせよ国民党が民衆の犠牲などはなから意にかけてなかったことはここからもうかがえよう。

一方、台湾沖の澎湖群島を船で出発した広東攻略軍は10月12日深夜、月明かりの中をバイアス湾に上陸。めざす広州へ向けて西進を開始した。広東への上陸は中国側にはまったく予想外のことだった。そのため日本軍はこれといった抵抗を受けることもなく破竹の勢いで進撃。武漢陥落に先立つ10月21日、広州はあっけなく日本軍の手に落ちた。

対外補給ルートの八割近くを占める広東の陥落はさすがに蒋介石にとっても大きな打撃であった。だが、同時にそのとき日本の動員力はすでに限界に達しており、内地には近衛師団を残すのみとなっていた。しかも、日本軍が占領したのは都市とそれを結ぶ交通戦、いわゆる「点と線」だけであり、そのまわりに広がる広大な農村地帯はほとんど手がつけられないままだった。

その年の5月、延安にいた毛沢東は『持久戦論』を発表し、日中戦争の現状と見通しを明らかにした。それによれば、日中戦争は中国側からみて戦略的防御、戦略的対峙、戦略的反攻の三つの段階に分けられ、戦局はもうすぐ対峙段階へと移行すると主張した。

この点からみると武漢・広東の陥落はまさに対峙段階に入ったことを示すものであり、事実、その後の戦局は毛沢東の予言通りに推移したのである。

和平工作とその挫折

逃げ惑う蒋介石軍を追って現地軍が戦闘を続けるその一方で、日本政府部内では、和平工作をめぐるあわただしい動きが続いていた。時の近衛内閣はすでに盧溝橋事件の直後から宮崎龍介(孫文の盟友宮崎滔天の息子)や元外交官の船津振一郎らを使って和平交渉を試みたが、いずれも失敗に終わっていた。なかでも注目すべきは交渉当日、大山勇夫海軍中尉が中国側に惨殺され交渉が中断した船津和平工作である。この事件ひとつとってもあの当時、強い開戦の意思を持ち、和平工作を葬り去ろうとしていたのは日本側ではなくむしろ中国側であったことがうかがえる。

しかし、満州国の経営で手いっぱいの日本側はもちろん支那大陸における無益な戦線の拡大はなんとしてでも防ぎたい。そこで、新たな仲介役として登場したのが駐華ドイツ大使トラウトマンである。

1937年11月5日、トラウトマンは日本側の停戦条件を蒋介石に伝達、蒋介石はこれを基本的に了承した。ところが、その後、南京が陥落するや日本政府内には強硬論が続出、それまでの条件が次々と加筆されてしまった。そのため蒋介石もこれを拒否。ここにトラウトマンによる和平交渉も打ち切られてしまった。

和平工作に失敗した日本政府は1938年1月16日、「帝国は爾後国民政府を対手とせず。新興支那政権の成立発展を期待する」という第一次近衛声明を発表。和平交渉の道を閉ざす一方、北京の中華民国臨時政府、南京の維新政府などもっぱら現地軍によって樹立された傀儡政権の強化・育成に力を注いだ。

武漢、広州を占領したものの、これ以上の武力解決は不可能とみた日本政府は11月3日、第二次近衛声明を発表して再び政治解決の道を模索する。この声明では「日本の求めるところは東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設である」とこの戦争の目的を明らかにするとともに「国民政府といえども従来の政策を一掃し、人的構成を改替して更生の実をあげ、新秩序の建設に参加するならこれを拒否しない」と先の「国民政府を対手にせず」とした第一次近衛声明を撤回した。

そのころ、重慶の国民政府部内には抗日政策をめぐってふたつのグループが対立していた。一方は蒋介石を筆頭とする反日強硬派であり、かれらは「焦土抗戦」による戦争継続を主張していた。これに対し、汪兆銘を主班と仰ぐ親日和平派は日本軍の進攻とそれに伴う解放区の拡大に危機感を抱き、「このままでは中国は中国共産党に乗っ取られてしまうか、あるいは日本軍に完全に制圧されてしまう」として反共・対日和平を訴えた。

こうした中、両派の対立が決定的になると汪兆銘は数名の部下とともに重慶からベトナムのハノイに脱出。日本政府の「東亜新秩序」声明に呼応するように重慶政府に対し、日本との和平を呼びかける電報を打った。(俗に「艶電」という)。汪らの当初の計画によれば、雲南や四川、広西などの西南軍閥がこれに応じて蒋介石からの独立を宣言、その地に新たな国民政府を樹立するつもりであった。しかし、この「艶電」に応ずるものはほとんどなく、国民党の大物汪兆銘を担ぎ出した和平工作は結局失敗に終わった。

日中戦争から太平洋戦争への拡大

日中戦争の当初、アメリカは一方で蒋介石政府に同情を示しながら、もう一方では日本へ大量の軍需物資を輸出するなど両国の共倒れを狙った二面政策をとっていた。ところが、中国大陸における日本のプレゼンスが増大するにしたがい、危機感を抱いたアメリカは欧州における国際情勢の変化もあり、しだいに対日強硬姿勢へと転換していく。

強硬姿勢に転じたアメリカが日本に加えた最初の大きな一撃は、1939年7月の日米通商条約の更新拒否通告であった。当時、日本は軍需物資のかなりの部分をアメリカからの輸入に頼っており、それが禁輸されるとなれば戦争遂行上、大きな支障を来たすことは明らかであった。

日本側はあわてた。しかし、アメリカの姿勢は強硬であり、アメリカからの輸入が期待できないとなると、当然どこか他のところから調達しなければならない。そこで浮上してきたのが南進論である。すなわちインドシナ半島やインドネシアなど、資源の豊富な東南アジアを押さえ、そこを後背地として中国を封鎖すればよいという考え方であった。おりしも欧州ではナチスドイツの電撃的な勝利によってフランスが降伏、オランダなども窮地に立たされており、その植民地である東南アジアはいわば政治的空白の状態となっていた。こうした中、1940年9月、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結ぶとともに北部仏印へと進駐。さらに翌年7月には欧州における独ソ戦開始と歩調を合わせるように南部仏印への進駐を開始した。

これに対し、アメリカはついに最強硬手段に踏み切る。すなわち在米日本資産の凍結と石油を含む対日全面禁輸を発動したのである。同時にアメリカはイギリス・中国・オランダを誘い、いわゆるABCD包囲網を結成。日本の南方進出を阻止しようとした。この間、日本はなおも外交交渉によって局面の打開をはかろうとしたが、米国務長官ハルが「中国を満州事変以前の状態に戻すべし」という最後通告(ハルノート)を突きつけると日本政府は交渉による解決の道を断念。もはや開戦あるのみとして12月8日、ついにアメリカ、イギリスに対する宣戦を布告した。

ハワイの真珠湾を奇襲攻撃した日本軍は、そのまま香港、フィリピン、マレーシア、シンガポール、インドネシアと電撃的に進攻。さらにビルマ(現ミャンマー)とソロモン諸島を陥し、またたくまに太平洋を含む広大な南方諸地域を占領下に置いた。しかし、緒戦の勝利に沸いたのはわずか1年ほどであった。

1942年6月、陣容を建て直したアメリカ太平洋艦隊が、ミッドウェー沖で日本の連合艦隊を駆逐。「真珠湾を忘れるな!」を合言葉に太平洋における制海権と制空権の奪回に成功した。さらに翌年2月には、ガタルカナル島上陸作戦を敢行、激戦のすえ同島に拠る日本軍を撤退させた。以後、日本は太平洋上の拠点を次々と失い、44年7月にはサイパン島が陥落。アメリカ軍はそこを基地に連日のように日本本土への空襲を繰り返した。

南方と本土を結ぶ海上ルートが遮断された日本は、北京からハノイを結ぶ陸上輸送路の確保と中国にある連合軍基地を叩くことを目的に1944年5月、大陸打通作戦と呼ばれる最後の大作戦を展開した。これに対し、正面からの衝突を避ける国民党軍が戦うことなく敗走したため、一応輸送路の南北打通には成功したかに見えた。だが中国大陸における優勢とは裏腹に太平洋戦線における日本側の劣勢は覆うべくもなかった。大勢はすでに決していたのである。

この時期、軍内の一部にはまだ「本土決戦」「一億玉砕」を唱える強硬派もいたが、8月6日と9日、広島と長崎にアメリカ軍によって原爆が投下され、北方からはソ連軍が満州国境を越えて参戦してきた。そうした中、日本政府は8月15日、ついにポツダム宣言を受諾。連合国に対して無条件降伏を表明した。同時に足かけ9年におよんだ支那事変もここに終わりを告げたのであった

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こちらは電子本です。豊富な写真付きです。
第一集<アヘン戦争・太平天国・洋務運動>編
第二集<辛亥革命・国民革命>編
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