中国共産党の発展と土地革命戦争

南昌蜂起とソビエト革命

蒋介石の四・一二クーデターを国民党内のブルジョア分子の裏切りととらえた共産党は、これによって「国民党」は逆に浄化され、真の革命政党に生まれ変わったとみなした。そこで自分たちこそ国民党の衣鉢を継ぐ資格があるとみた共産党は、8月1日、国民党革命委員会の名の下で、江西南昌で武装蜂起を敢行。左派の力を結集して国民革命を継続しようとした。

蜂起には周恩来の他、葉挺、賀竜、朱徳ら中共党員率いる国民党軍3万が馳せ参じた。これは、中共が独自の軍隊をはじめて持った記念すべき日でもあったため、中国では現在この日を建軍節として祝っている。

また南昌暴動のさなかの8月7日、武漢では中共中央臨時拡大会議が開かれた。この会議では、四・一二クーデターによる失敗の責任を陳独秀一人になすりつけ、「右翼日和見主義者」のレッテルを貼り、その地位を剥奪した。かわりに最高指導者に選出されたのは、モスクワ帰りの瞿秋白だった。実権を握った瞿秋白は南昌蜂起に呼応して農村地帯でも秋の収穫期にあわせて暴動を敢行、労働者・農民・兵士からなる「ソビエト政府」を各地に樹立する方針を定めた。だが、この決定は情勢をまったく無視した机上の計画にすぎず各所で大きな犠牲を払う結果となった。

まず南昌蜂起軍は広東目指して南下したものの、仙頭付近で敵の攻撃を受けて敗退し、四散。その後、朱徳や彭湃に率いられた一団は農民運動の拠点海陸豊地区に到達し、そこで中国最初のソビエト政権「海陸豊ソビエト」を樹立したものの、わずか三か月ほどで崩壊してしまった。また12月11日には蘇兆徴、葉挺らによって広州に広東コミューンが樹立されたが、わずか3日間で流血のなかに葬り去られた。

一方、農民反乱を起こして長沙を奪取する計画だった秋収暴動のほうも、内部から裏切りが出たこともあり、数日のうちに頓挫してしまった。指揮をとっていた毛沢東はただちに踵を返すと、残軍1000名を率いて湖南・江西両省にまたがる井崗山へと逃れた。翌年4月には、海陸豊ソビエトから逃れてきた朱徳が残軍8000名余を率いて井崗山に合流。その後、二人は両軍を合わせて中国労農紅軍第四軍を誕生させた。

毛沢東は、紅軍に対して「三大規律・八項注意」と呼ばれる厳しい軍律を定め、徹底させた。それまで中国では軍隊といえば、政府軍であろうと土匪軍であろうと略奪、暴行は当たり前で、民衆からは人間のくずとみなされていたからこうした規律正しい軍隊の出現は人々にとってはひとつの驚きであった。そのため、この規律正しさこそが、外観こそ土匪軍とさほど変わらない紅軍が「真の革命軍」として中国民衆に認められ、全国にその勢力を伸ばすひとつの原動力になったといわれている。

ソビエト地区の拡大と李立三路線の失敗

やがて革命の情勢は共産党側に再び有利となった。蒋介石軍による全国統一後、その分け前をめぐって配下の元軍閥が離反。再度、内乱状態となったからである(中原大戦)。そこで生じた政治的軍事的空白をついて共産党は各地にソビエト地区を拡大していった。毛沢東・朱徳らの中央根拠地ばかりでなく、方志敏、賀竜らが湖南・湖北・江西方面に、また鄧小平が広西西南部に、という具合にそれぞれ占領地を拡大していった。その際、共産党は農村から軍閥や地主の私兵を追い出したあと、地主や富農の土地を没収して貧農に分け与える土地革命を積極的に推進した。かれらが多くの農民の支持を得、その支配区域を拡大することができたのはそのせいであった。

そのころ「左翼盲動主義者・一揆主義者」として批判され、モスクワに召喚された瞿秋白にかわって中共中央の実権を握ったのは李立三であった。李立三は、毛沢東の農村根拠地理論を「そんな戦術では革命が勝利する前にわれわれはみな白髪の老人になってしまう」としりぞけ、あくまでマルクス・レーニン主義の教義に固執し、労働者による都市権力奪取をめざしていた。

おりしも中原大戦によって国内には軍事的空白が生じ、その上世界中が大恐慌によって混乱していた時期である。世界資本主義体制の矛盾の焦点となった中国は世界革命の起爆庫であるとみなした李立三は1930年7月、複数の都市で暴動を引き起こし、そこにソビエト革命政権を樹立する方針を打ち出した。農村にあった毛沢東らはこの無謀な計画に反対であったが、こうした声を無視した李立三は全軍に出動命令をくだした。

しかし、もともと彼我の軍事力の差を無視した机上のプランである。結果は惨めな失敗に終わった。蜂起のなかで共産党側は多くの犠牲者を出したばかりか、その根拠地すらも失う始末だった。唯一の成果は彭徳懐の部隊が長沙を占領し、ソビエト政権を樹立したことだが、それもわずか7日間で崩壊してしまった。ただ毛沢東の率いる第一方面軍だけがかろうじて全滅を免れたことはその後の中国革命の継続にとってひとつの救いだった。この第二次極左路線(李立三路線)は三か月で破綻し、李立三はコミンテルンによってモスクワへと召喚された。

その後、中共中央の指導に当たったのはモスクワから送り込まれた陳紹禹(党名・王明)、秦邦憲(党名・博古)といった若手留学生グループであった。実権を握った王明らは、李立三派をトロツキストであるとして粛清するなど、以後、指導部内では熾烈な党内闘争が繰り返された。その結果、党組織は一時壊滅寸前にまで陥ったといわれている。またこうした権力闘争の渦中で、毛沢東も危うく粛清されそうになったこともあるという。

1931年9月18日、満州事変が勃発し、国民党軍の包囲圧力が減じると中共は全国九つのソビエト区の代表を中央革命根拠地の中心江西瑞金に集め、第一回全国ソビエト代表大会を開催した。大会では、中華ソビエト共和国の樹立を宣言し、毛沢東が臨時主席に選出された。

共産党討伐作戦

北伐には成功したもののいつのまにか勢力を盛り返した共産党に恐れを抱いた蒋介石は、本格的な「共産軍討伐」(囲剿)作戦を開始した。1930年12月、蒋介石は10万の兵力を動員して第一次囲剿作戦を行った。これに対し、迎え撃つ中共側は兵力わずか4万。だが、毛沢東や朱徳らの巧妙なゲリラ戦法によって共産軍は国民党軍を撃退した。翌年2月、国民党軍は20万の兵力をもって再び攻撃を開始した。が、それも惨敗に終わると今度は蒋介石自身が30万の兵力を指揮して7月から第三次囲剿作戦に当たった。しかし、結果は同様だった。国民党軍は江西南部の山岳地帯をあちこち引きずりまわされたあげく、結局、撤兵せざるをえなくなってしまったのである。

ちょうどそのころ、東北で新たな事件が発生した。満州事変である。あわてた蒋介石は急きょ、ソビエト区から軍を撤退。共産党討伐作戦はいったん中止となった。1932年5月、日本軍との間に上海停戦協定が結ばれると蒋介石は、盧山で会議を開き「安内攘外」政策を発表。まず内(共産党軍)を安んじてから、しかるのち外(日本軍)を攘うという方針を定めた。この方針にしたがって、国民党は6月から50万の兵力をもって再び囲剿作戦を開始した。

このころ、共産党側の軍事指導権を握っていたのは秦邦憲と周恩来である。それまでの毛沢東のゲリラ戦術に批判的だったかれらは、ソビエト区外に積極的に出兵して戦う陣地戦を採用。その結果、中央根拠地だけはどうにか敵を撃退することができたものの他のソビエト区は持ちこたえられず、ほとんどが壊走した。しかしこの表面的な勝利によって毛沢東の軍事指導権は剥奪され、以後、秦邦憲らが指導権を握ることになった。

翌年1月、日本軍の熱河侵攻によって囲剿作戦は再び中断した。だが、5月に結ばれた塘古停戦協定の成立を待って蒋介石は再度囲剿討伐を開始した。国民党側は、この第五次囲剿作戦に100万の大軍を投入、同時にナチスドイツから招いた軍事顧問フォン・ゼークトの進言にしたがい、ソビエト区の周囲にトーチカを築きその包囲網をじりじり縮めていくという焦土戦術を採用した。これに対して迎え撃ったのはコミンテルンから派遣された元赤軍将校オットー・ブラウンである。オットー・ブラウンもまた毛沢東流の根拠地内に誘い込むゲリラ戦術ではなく、ソビエト地区外で敵を迎え撃つ陣地戦を、それも全線にわたって兵力を分散させる戦術を採用した。だが、重火器をもたない紅軍は国民政府軍が築いた堅固なトーチカの前に歯が立たなかった。しかも平地に築いた紅軍陣地は逆にトーチカの格好の目標となり、紅軍側の犠牲者は増える一方だった。また厳重な経済封鎖により、共産党支配地域では日に日に食料や塩が欠乏するようになっていった。

長征

戦局が悪化の一途をたどると中共指導部はついに根拠地の放棄を決定した。1934年10月、10万の紅軍はいっせいに西進を開始した。だが、これが敵の攻勢に押されての逃避行であることは誰の目にも明らかだった。当然ながら兵士たちの士気はふるわず、しかも追撃する国民党軍は間断なくしかも容赦ない攻撃を加えてくる。そのため最初の三か月だけで兵士の数は三分の一にまで激減した。

ここで毛沢東は指導権奪回に動いた。途中、貴州遵義で拡大政治局会議の開催を要求した毛沢東は、オットー・ブラウンや秦邦憲らのそれまでの軍事路線の誤りを徹底的に糾弾したのである。会議は激しい論戦の末、結局オットー・ブラウンらの軍事路線に対する非難決議を採択して終わった。毛沢東の勝利であった。

これによって再び指導権を握った毛沢東は、「北上抗日」というスローガンを掲げ、目的もわからずただ逃げ回るだけの兵士たちの志気を高めることに成功した。また行軍部隊を遊撃戦向けに再編成、よけいな荷物を一切捨て去り身軽にした上で再び行軍を開始した。

だが、厳しい自然環境と執拗な国民党軍の攻撃にさらされながらの行軍は依然として楽ではなかった。その後、貴州から四川、甘粛と西南の辺境地帯を大きく迂回し、最終的に陜西省の根拠地保安に到着したときは、途中指導層の内部分裂もあり、主力部隊は当初に比べると10分の1以下のわずか8000人にまで減っていた。

瑞金を後にしてからおよそ一年。その間踏破した道のりは、18の山脈と11の省にまたがる全行程1万2000キロにのぼった。「ハンニバルのアルプス越えもこれに比べれば休日の遠足に過ぎない」と、その翌年延安に入ったアメリカ人ジャーナリストエドガー・スノーが賛嘆したこの史上まれにみる大行軍は、のちに「大長征」と命名され、中国革命史上における一大叙事詩としていまもなお人々の間に語り継がれている。

西安事件と第2次国共合作

1935年12月9日。寒風の吹きすさぶなか、大勢の学生たちがシュプレヒコールをあげながら北京市内を行進していた。日本による華北分離工作に抗議するデモ隊であった。学生らは口々に「華北自治運動反対」を叫び、内戦の停止と言論の自由などを要求した。これに対し、当局は消防車から冷水を浴びせ、弾圧しようとしたが、運動はまたたくまに全国主要都市に広がった(一二・九運動)。

反日機運が全国的な高まりをみせた翌年6月、政治的中間派による全国救国連合会(全救連)が上海で結成された。翌月、全救連は声明を発表し、国民党には内戦の停止と抗日活動の自由を、中共には「階級闘争」の緩和をそれぞれ求めた。これに応えて、中共は一致抗日のため従来のソビエト革命路線を転換してもよいという内容の書簡を国民党側に送った。だが、国民党は中共や全救連のこうした要求を黙殺したばかりか全救連の幹部7名を「非法団体を組織して赤匪と結んだ」として逮捕した。

こうして世論を逆なでした蒋介石は、さらに陜西省北部の紅軍根拠地に対する「討伐」(第六次囲剿)の再開を指令した。しかし当時、西安にあって紅軍討伐の任に当たっていたのは日本軍によって故郷を追われた張学良の東北軍と、これまた抗日意欲の高い西北軍(馮玉祥系)の楊虎城であった。両軍は紅軍討伐よりむしろ中国共産党の主張する「一致抗日」に傾いていた。

当然ながら両軍による共産党への討伐作戦はいっこうに実があがらない。業をにやした蒋介石は、自ら督戦のため西安へと赴いた。叱責する蒋介石ーー。しかし張学良はこれに対して逆に諌言でもって対応した。「連共抗日」、すなわち共産党と組み、日本に対して共に対抗すべきであると進言したのである。しかし、蒋介石は聞き入れない。思いあまった張学良は楊虎城とともに12月12日の早朝、部隊をもって宿舎のある華清池を取り囲んだ。その上で蒋を監禁し、内戦停止と一致抗日を迫ったのである。

最初、蒋はそれでも頑として首を縦にふらなかったが、西安に駆けつけた周恩来の説得もあり、ようやく蒋は張学良らの要求に基本的に同意した。ここに9年前の破綻以来、対立を続けてきた国共両党が再び手を結ぶ道筋が敷かれたのである。これが中国近現代史上、重要な転換点となった有名な西安事件である。ちなみに張学良はその後、自らの誠意を示すため「罪人」として蒋介石に投降、後半生を幽閉のうちに送ることになる。

翌年2月、中国共産党は「暴動政策および土地没収政策の停止」並びに「ソビエト政府の中華民国特区政府」への改称という譲歩を行い、再び一致抗日を求めた。これに対し国民党は、中共が階級闘争を放棄し、軍隊と政権を国民党の下に統一するなどの条件を守るなら「博愛を旨」とする国民党の主義に照らして、その存在を認めると中共側の提案に同意した。しかし注意しなければならないのは、これによって正式に両党の合作がなったわけではないことだ。第二次国共合作が正式に成立するのは、盧溝橋事件や通州事件などの小規模な衝突事件を経た後に発生した第二次上海事変以後のことである。

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第一集<アヘン戦争・太平天国・洋務運動>編
第二集<辛亥革命・国民革命>編
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