阿片戦争

中華帝国の落日と近代ヨーロッパの挑戦

17世紀なかば、衰退した明朝にかわって中国全土を支配したのは満州族を祖とする清朝だった。異民族王朝であった清朝ははじめ、民衆からはげしい抵抗をうけたが歴代の君主が英明だったこともあり、しだいに中華帝国の衣鉢を継ぐ正統な王朝としてうけいれられていった。なかでも名君と謳われた乾隆帝の時代には、文化的な保護政策によって学問・芸術がおおいに振興すると同時にその積極的な外征によって西モンゴル、新彊、台湾をふくむ中国史上最大の領土を形成するまでになった。

乾隆帝

いっぽう、そのころヨーロッパでは産業革命が始まり、時代の潮目もそれまでの重商主義から近代資本主義へと大きく移り変わろうとしていた。その先頭に立っていたのがイギリスである。当時、イギリスは綿織物業を基幹産業として急速に発展していた。だが、そこには早くも資本主義に 特有の問題が発生していた。それは国内市場が狭く、次々と生産される商品をさばき切れないという問題であった。そこで、すでにインドを植民地としていたイギリスが目をつけたのが、巨大な中国市場である。

産業革命時代のイギリス

だが、そうしたイギリスの前に立ちはだかったのが、中国の朝貢貿易という独特の貿易システムであった。中国には、伝統的に中国こそ 世界の中心であり、周辺の国々はすべて中国の属領である、とする中華思想がある。この中華思想によれば、外国の国王はみな中国皇帝の臣下 であるから、定期的に贈り物をもって中国皇帝に朝貢しなければならない、これに対して中国皇帝は、見返りとしてそれ以上の品物を「下賜」 するもの、とされている。これがすなわち朝貢貿易である。

とはいえ当時、民間人同士の貿易がまったく行われていなかったわけではない。清朝は原則として海禁政策をとっていたが、広州一港に限り、 外国商人との貿易を認めていた。そのため外国商人は、この広州貿易を通して商取り引きを行うことができたのである。だが、これも清朝政府に いわせれば、朝貢貿易の例外的な一形式に過ぎないものであった。その証拠にこの広州貿易には、ひじょうに多くの制約が設けられていた。

広州湾の貿易船

たとえば、外国商人は、清朝政府が認めた行商とだけしか取引はできない。広州には一年のうち夏から初冬にかけての4ヵ月しか居住する ことはできない。それも広州の一角に設けられた特別居住区から一歩も出てはならない。婦女子を連れてきてはならない、といった制約である。 しかし、これでは外国商人にとって、不便でしようがない。しかも、当時、イギリスが中国から買っていたのは、主に茶と絹であったが、それに対して イギリスが中国に持ち込んだのは、本国産の毛織物の他、時計、玩具、インド産の綿花などであった。

だが、これらの品物だけでは十分に中国製品を買うことができなかったし、それに加えてイギリス本国における茶の消費量はうなぎのぼりに増えるいっぽうだった。そのため茶の支払いに当てる銀が大量に中国に流出し、イギリスは大幅な貿易赤字に悩むこととなった。

ロンドンの喫茶店

イギリスのアヘン貿易

困ったイギリスは現状を打破するため1793年、マカートニーを北京に派遣した。不便な広州貿易を撤廃し、自由貿易を原則とする市場開放要求をもって交渉を試みるためである。ところが、貿易といえば伝統的な朝貢貿易しか認めない清朝政府はイギリスの要求を頭ごなしに拒否。マカートニーの要求は一顧だにされなかった。

「天朝の産物は豊富であり、これといってないものはなく、外国の産物は中国にとって必需品ではない。ただ、天朝に産する茶、陶磁器、絹などは西洋各国の必需品である。だから、特別に広東において貿易をゆるし、天朝の余沢にうるおわしめているのである」
というのが清朝側の言い分であった。

乾隆帝に謁見するマカートニー

その後、一八一六年にはアマーストを団長とする使節を再び北京に派遣したが、今度は謁見すら許されず、追い返されるという始末だった。

だが、貿易赤字という差し迫った問題を抱えるイギリスは、そのまま引き下がるわけにはいかない。そこでイギリスは、ひそかに奸計をめぐらした。それはインド産アヘンを中国に輸出して茶の代金にあてるという方法であった。

阿片窟

アヘンは、ケシの実からとれる麻薬の一種で、吸飲すると陶酔感、至福感にひたれるが、常用すれば中毒症状をおこし、精神や肉体もボロボロに冒され、最後には廃人となってしまう恐ろしい死の商品である。イギリスが大量のアヘンを中国に持ち込むと、アヘン吸飲の風習は、上は高級官僚から下は一兵卒にいたるまで社会の各層に広がるようになった。それとともに、アヘンの輸入量も飛躍的に増大、やがてその支払いには茶や絹の輸出だけでは追いつかなくなった。こうして一八二〇年代には貿易収支はついに逆転、大量の銀が中国からイギリスへと流出することになった。清朝は、何度も禁止令を出してアヘンを取り締まろうとしたが、腐敗し切った官僚たちはこれを見逃し料ーーつまり賄賂のつり上げに利用しただけで何の効果も奏さなかった。

インドの阿片製造工場

林則徐の登場

だが、アヘン問題は貿易問題である以上に深刻な社会問題でもあった。当時の中央政界では、このアヘン問題をめぐってさまざまな論議が 交わされた。大官のなかにはアヘン弛禁論を提議するものもいたが、その一方「密売するもの、吸飲するもの、いずれに対しても厳罰をもって のぞみ、とくに官吏でアヘンに手を染めたものは極刑を与ふべし」という厳禁論も主張された。その代表的な論者が林則徐であった。こうした論争 のなか、厳禁論に傾いた時の皇帝、道光帝は、一八三九年、林則徐を欽差大臣(全権大臣)に任命、アヘン密輸を取り締まるべく 広州へ派遣した。

林則徐

広州に到着した林則徐は、ただちに外国商人に対し、アヘンの提出を命じた。だが、林則徐を他の腐敗した清国役人と 同様に見ていた外国商人はこの強硬策もワイロのつりあげが目的であろうとタカをくくり、なかなか応じようとしなかった。そこで林則徐は、 提出日の期限切れを待って外国商館のある一三行街を封鎖。水や食糧の供給を絶ってしまった。さすがにこうなってはやむをえない。 外国商人たちはしぶしぶ約二万箱のアヘンを差し出した。

「うまいこといって林則徐は手に入れたアヘンを横流しして儲けるに違いない」。そんな外国商人の声を尻目に、林則徐は、没収した アヘンをすべて虎門海岸へと運び込ませた。そして、あらかじめしつらえた人工池にアヘンを投入、さらに塩と石灰を加えて薬効を消し、 公衆の面前で海へ流してしまったのである。その上で林則徐は外国商人に「二度とアヘンを持ってこない。持ってきたら死刑に処されても 文句は言わない」という誓約書を要求した。

阿片焼却の図

アメリカ人やポルトガル人はすぐに応じたが、イギリス人だけは頑として応じない。それどころか、 対清強硬派の貿易監督官チャールズ・エリオットは、イギリス商人を全員広州からマカオに引きあげさせ、脅しをかけようとした。だが、 イギリス一国が勝手に引きあげたところで、清国にとっては別に痛くもかゆくもない。林則徐は、ついでにマカオからも退去するよう イギリス側に勧告した。

ついにアヘン戦争開戦

こうしたなか、香港で一人の中国人がイギリス人水夫に殴られて死亡するという事件が発生した。林則徐は犯人の引き渡しを求めたが、 エリオットは犯人は不明だとしてこれを拒否。そこで林則徐は、報復措置としてマカオ在住のイギリス人に対する食糧の供給を禁じた。

チャールズ・エリオット

両国間の緊張が高まるなか、ジャーディン、マセソンらの働きかけによって、イギリス本国でも「清国應懲論」を叫ぶものが増えてきた。 やがて應懲論に傾いたイギリス議会は一八四〇年二月、ついに清国に対する武力攻撃を決定した。「これほど恥さらしな戦争はない」 と議会内でも反対の論陣を張るものも少なくなかったが、結局、わずかの差で可決された。

同年六月、ジョージ・エリオットを総司令権全権使節とするイギリス艦隊が広東沖に到着するとただちに広州湾を封鎖、 ここに阿片戦争の火ぶたが切って落とされたのであった。

イギリス艦隊は、清国側の裏をかいて防備の固い広州を迂回し厦門を攻撃、さらに北上し、寧波沖の舟山列島を占領、そのまま大沽にいたり、 白河をさかのぼって北京をうかがう姿勢をみせた。のどもとにあいくちを突きつけられた清朝政府は大恐慌をきたし、事件の責任者である林則徐を罷免、 かわりに対外妥協派の筆頭、直隷総督奇善を欽差大臣に任命し、交渉にあたらせた。

厦門の戦い

奇善は、広州で起こったことは広州で処理するといってイギリス艦隊をいったん南下させたものの、結局イギリスの圧力に押されて、 香港島の割譲を含む川鼻仮条約に調印してしまう。一方、イギリス艦隊が北京を離れたことにホッとした清朝政内部には、再び強硬論が台頭。 香港島の割譲を約束したと知った皇帝は激怒し、奇善を解任した上犯罪人として新疆へ追放してしまった。

かわりに起用されたのが強硬派の奕山である。しかし、武力の裏付けのない奕山の強硬論もイギリスの強大な軍事力の 前にはなんら効を奏さず、逆に広州は攻撃してきたイギリス兵による暴行、略奪の対象となってしまった。たまりかねた付近の農民が立ち上がり、 英軍千名を包囲するという「三元里平英団事件」が起こったのはこのときである。

立ち上がった三元里の農民

一方、川鼻仮条約に不満なのは清朝政府ばかりでなく、イギリスもまた同様だった。そこでイギリス政府はエリオットを罷免し、新たに ヘンリー・ポッティンジャーを全権使節として派遣、イギリス艦隊を再び北上させた。今度の戦いもイギリス軍にとっては、赤子の手を ひねるようなものだった。

厦門、舟山列島、乍浦をおとしたイギリス艦隊は上海を占領後、さらに長江をさかのぼり、南京城内へ向けて ズラリと砲列をしいた。中国の経済的動脈ともいうべき長江を扼されてはもはやどうしようもない。清朝政府は、南京陥落を目前にした 四二年八月、イギリスの要求を全面的に受け入れることに決定した。

鎮江の戦い

調印式は、長江に浮かぶ旗艦コーンウォリス号の甲板上で行われ、 欽差大臣耆英とポッティンジャーとの間で南京条約が結ばれた。そこで取り決められたのは、一,アヘンの賠償を含む二一〇〇万ドルの 賠償金の支払い 二,香港の割譲、広州を含む厦門、福州、寧波、上海の五港の開港 三,広東の特権的中国行商(公行)の廃止 四,対等な 形式による交渉の規定などであった。

さらに翌年の虎門寨追加条約により、中国は関税自主権を喪失し、治外法権と片務的最恵国待遇の承認などを強制的に認めさせられた。 ここに中国をその後、約一世紀にもわたって縛りつけることになる不平等条約体制の基礎が確立されたのである。

南京条約の調印式

 

 

 

 

 

 

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