満州国

満州事変の背景

「満蒙問題は、私は是は我が国の存亡に係る問題である、我が国民の生命線であると考えておる。国防上にもまた経済的にもさように考えておるのであります…」

1931年1月の衆議院本会議の席上、政友会議員松岡洋祐は、政府の外交政策を批判する中でこのように演説した。

松岡洋祐

満蒙問題とは、日清・日露の両戦役を通して満州南部に確保した日本の権益が中国側によって脅かされているとするもので、なかでも問題視されたのは満鉄並行線であった。当時の満州の実質的な支配者は、張作霖の跡を継いだ息子の張学良だったが、彼は父を日本軍に殺された恨みもあり、当初から反日の立場をとっていた。その張学良が、それまで禁止されていた満鉄線と並行して走る新たな鉄道路線の建設を強行したのである。これによって、満鉄の取扱貨物量は激減。さらに世界恐慌による満州特産の大豆の暴落が加わり、満鉄の経営は大きな打撃を受けたのである。

アジア号の食堂車

だが、それがなぜ日本の「生命線」につながるのか。そのあたりを理解するには、当時の日本に形成されていたふたつの大きな流れー対英米強調路線と対英米強硬路線ーについて知る必要がある。これまで、後発の資本主義国である日本は、その経済発展をもっぱら英米市場への依存という形で進めてきた。もともと資源が少なく、市場も狭隘な日本はある程度英米への依存も避けられないとするのが英米協調派の立場で、これに対し、強硬派は英米依存から脱却しなければならないとする立場をとった。そして、彼らはそのためにはアジアでの自給自足圏を確保しなければならないと主張したのである。

幣原喜重郎外相

20年代は、幣原喜重郎外相に代表される英米協調派が大勢を占めていた。ところが、1929年に始まった世界大恐慌をきっかけに、両者の勢力バランスは逆転する。英米など「持てる国」が互いにブロック経済化を進め、その市場から日本が締め出されるようになると自由貿易を前提としてきたそれまでの英米協調路線が破綻をきたしたのである。

大恐慌で食料配給を受ける人々

そこに松岡洋祐や陸軍などに代表される対英米強硬派が台頭してきた。彼ら強硬派は英米という市場が失われた今、急いで自前の市場を確保しなければ、日本はやがて経済的に立ち行かなくなると危機感をつのらせた。そして、その自前の市場と目されたのが、満蒙地域だったのである。

当時の満洲

その満蒙地域の権益が今、張学良によって脅かされようとしている。しかも、国内は未曾有の不況の真っ只中だ。都市には失業者があふれ、「大学は出たけれど」などという言葉が流行していた時代である。また東北など地方の農村地帯では、貧しさのあまり娘を身売りに出す農家も少なくなかった。こうした中、松岡の生命線論は国民の間に絶大な拍手をもって迎えられたのである。かくして「満蒙の危機」は、ある種の流行語として、当時の日本社会のすみずみにまで広まっていったのである。

娘身売りの相談所

一方、ちょうどそのころ陸軍内部では、満蒙問題解決のための具体的な策謀がひそかに練り上げられていた。その中心人物となったのが、作戦主任参謀の石原莞爾中佐である。石原は、熱心な日蓮宗徒で信仰にもとづく独自の文明史観を持っていた。それによると、近い将来、東洋文明の代表選手、日本と西洋文明の代表選手アメリカによる「世界最終戦争」が勃発する。そこで日本が勝利を得るためには、まず戦争に耐えられるだけの資源を持たねばならない。そして、そのためには、満蒙を日本の後背地とする必要があるというものであった。この考えに沿って、石原は、同僚の板垣征四郎とともに「満蒙領有計画」を立案したのである。

石原莞爾

タイミングは申し分なかった。おりからの世界恐慌で、英米各国は極東の問題にまで口出しする余裕はなかったし、ソ連は、国家の生き残りをかけた五か年計画の真っ最中である。しかも、張学良と東北軍の主力は出払っており、目下満州はがら空きの状態だった。

張学良

柳条湖事件ーー満州事変勃発

星明りの下で幾人かの影が動いた。何かを運び込んでいる様子だったが、周囲は暗く、人影の正体までは分からない。場所は奉天市北郊の柳条湖付近。一時間後、同じ場所に突然火の手が上がった。爆発はそれほど大きなものではなかったが、満鉄線をねらったことはあきらかであった。報告を受けた関東軍参謀板垣征四郎大佐は、これを中国軍の仕業とみなし、ただちに中国軍の本拠地がある北大営への攻撃を命令した。一方不意を突かれた東北軍は、張学良の不抵抗方針の徹底もあって、ほとんど抵抗らしい抵抗もみせず、翌日の昼には北大営と奉天城を明け渡した。1931年9月18日午後10時30分頃から翌日にかけて発生したこの事件は柳条湖事件と呼ばれ、その後の一連の行動とともに満州事変の始まりとされている。

柳条湖事件現場

この満鉄線爆破だが、これは中国軍側の仕業ではなく日本側の自作自演であった。後日判明したところによれば、奉天に駐屯していた独立守備隊の河本末盛中尉ら7人の日本兵が自ら爆薬を運び、点火したものだという。

これを裏づける後日談もある。満州事変は、たしかに関東軍によって計画され、実行に移されたのは事実だが、日本陸軍の中央部は必ずしもこれに全面的に賛成していたわけではない。そのため関東軍の間に不穏な動きを察知した陸軍の上層部は、参謀本部第一部長建川美次を説得のため満州へ派遣した。ところが、その建川もまた同じ穴のむじなであった。奉天に到着した建川は、板垣らに「君らのことが半分ばれた。中央は中止せよといっている。自分の意見はうまくやるならやれ、だめならやめた方がよかろう」といって料亭で酒を飲んで寝てしまった。そこで板垣らが、急きょ予定を早め、その夜ただちに実行に移したというのである。

甘粕正彦

関東軍は、このまま満州全域を占領しようという腹づもりであった。だが、関東軍の兵力は、わずか1万あまり。これではどうにもならない。そこで、板垣は甘粕正彦(大杉栄殺害犯人)ら特務機関員を使い、吉林に不穏な情勢をつくり出した。その上で、居留民保護を名目に主力軍を吉林へ出兵させた。当然、満鉄沿線はガラ空きになる。この軍事的空白を理由に、朝鮮軍の援兵を乞おうというわけだ。関東軍の依頼を受けた林銑十郎朝鮮軍司令官は、新義州に待機させていた混成旅団を独断で越境させ、満鉄線西側にある新民屯東方の遼河鉄橋の守備についた。林司令官は、このためのちに「越境将軍」というあだ名を贈られることになる。

鴨緑江を越える朝鮮軍

一方、事変発生を知った日本政府は、ただちに不拡大方針を決定した。だが、関東軍はこれを無視、10月8日には、張学良が仮政府を置いて満州回復の姿勢を見せていた錦州への空爆を敢行した。これは、錦州がイギリスが権益を持つ北寧線(京奉線)沿線にあったことと第一次世界大戦以来、はじめての都市爆撃であったことから世界に大きなショックを与えた。

錦州

さらにこうした関東軍の独断専行に追い風となったのが、陸軍急進派によるクーデター計画、十月事件であった。この事件は、陸軍将校、橋本欣五郎中佐を柱とする青年将校と大川周明ら民間右翼が共謀して計画したもので、結局、未遂に終わったものの、それでもその衝撃は不拡大派の政府官僚や重臣たちを震え上がらすのに十分だった。この十月事件をきっかけに、日本政府部内の空気はしだいに関東軍の暴走を容認する方向へと変わっていく。

橋本欣五郎

 

チチハル進攻と馬占山軍との戦い

事実上、不拡大方針という「たが」がはずれた関東軍は、南満州ばかりでなく北満州をも奪取しようとした。だが北満州に権益をもつソ連がどうでるかまだわからない。そこで関東軍は満州の地方軍閥張海鵬を抱き込み、現地の中国人部隊を使って日本軍の代わりに北満州のチチハルを攻撃させる作戦に出た。

満州の中国兵

これを迎え撃ったのが馬賊あがりの馬占山である。勢いに押された馬占山軍は一時苦戦をしいられたものの嫩江にかかる鉄橋を爆破することで、張海鵬軍の北上をかろうじて食い止めることに成功した。だが、これに対し、浜本大佐率いる日本軍部隊が鉄橋修理援護の名目で出兵。張軍と合流した日・満連合軍は、大興付近でついに馬占山軍と衝突した。しかし馬占山軍は思いのほか頑強で、一時は日本側が絶滅寸前にまで陥り、かけつけた増援部隊によってようやく危機を脱したほどだった。この大興の戦闘で、日本軍は戦死者四六名という事変始まって以来の犠牲を出した。一方、馬占山はこの戦闘によって一躍中国中の英雄となった。

馬占山

その後、ようやく馬占山軍を追い払った関東軍は、馬占山に対しチチハル以北まで撤退するよう要求。だが、昂昂渓付近に堅固な陣地を築いて抵抗していた馬占山はこれを拒絶する。そこで、関東軍は第二師団の主力を投入し、再度馬軍と交戦。激戦の末、後の11月19日にようやくチチハルを占領した。しかし、ここでも日本軍は苦戦を強いられる。11月の北満は言語に絶する寒さで、戦死した者58名に加え、凍傷にかかった者は百人近くにのぼったのである。その後、馬占山は海倫まで後退し、ここに黒龍江省政府を置いた。いっぽう、やはり馬賊あがりで親日派の張景恵は、日本軍の後押しを受け、チチハルに新たな黒龍江省政府を樹立し、その主席におさまった。

馬占山軍を追う日本軍

その年の12月13日、タカ派の犬養内閣が成立した。これをチャンス到来とみた関東軍は、28日、先にいったん断念させられていた錦州への進撃を再開した。おりから中国では、激化する抗日運動の前に不抵抗方針をとる蒋介石が下野し、その後がまに汪兆銘らの広東派が座った。こうした政治の不安定さに加え、蒋介石という後ろ盾を失った張学良は、日本軍との全面戦争になることをおそれ、錦州からの撤退を決意。このため日本軍は、翌1月3日、満州南部最大の拠点・錦州をやすやすと無血占領することができたのである。

錦州を占領した日本軍

上海事変と満州国成立

こうして熱河省をのぞく全満州を手中にした関東軍は、次のステップである新国家樹立工作を急いだ。すでに国際連盟は前年のうちにリットン調査団の派遣を決定していた。調査団を乗せた船が、ヨーロッパを出港し、アメリカ、太平洋を経て満州へ到着する前になんとしても満州国建国という既成事実をつくりあげておきたい。

リットン調査団

そのためには、まず列国の関心を満州から引き離す必要がある。そこで板垣参謀は、上海公使館付武官・田中隆吉少佐に上海で事を起こすよう指示。田中は、女スパイ川島芳子と共謀し、1月18日、布教活動中の日本人僧侶を中国人暴徒に殺害させた。この事件をきっかけに上海での緊張が高まり、1月28日、ついに日中間の大規模な戦闘が引き起こされた。これが第一次上海事変である。

第一次上海事変

この混乱にまぎれて、関東軍は、2月5日、北方の中心都市ハルピンを占領。その2日後には、馬占山を帰順させることに成功した。ついで2月16日、関東軍は、臧式毅、煕洽、張景恵および馬占山の「四巨頭」を奉天のヤマトホテルに集め、新国家建設会議を開催。ここで、新国家の政体などを協議し、翌17日には張景恵を委員長とする東北行政委員会がつくられた。そして、満を持した3月1日、奉天の張景恵邸で「満州国」の樹立が宣言されたのである。

四巨頭会談

元首には、すでに特務機関の手で隠遁先の天津から満州へ移されていた元大清国皇帝溥儀を迎えることにした。溥儀は、執政という地位に不満を抱いたが、1年後には、皇帝の座を与えるという約束で申し出を受けた。

溥儀

熱河侵攻と華北分離工作

1932年6月、熱河省内の列車に乗っていた関東軍の連絡員・石本権四郎が抗日義勇軍に拉致され、殺害されるという事件が起こった。従来から熱河省を拠点にした抗日運動の高まりに手を焼いていた関東軍は、これをきっかけに熱河省併合を決断する。翌年2月、天皇が「関内(長城以南)に進出せざるべし、関内に爆撃せざるべし」の二条件を付して裁可すると、同23日、ついに熱河進攻作戦が開始された。

熱河省主席湯玉麟

だが、この動きを知った国民党熱河省主席湯玉麟は、いちはやく逃亡。日本軍はほとんど抵抗らしい抵抗も受けず、朝陽、赤峰、そして熱河省の省都承徳をまたたくまに占領した。さらに日本軍は、長城に達し、古北口や喜峰口といった五つの重要関門をおさえた。日本軍は、そこでいったん進撃を止めたが、長城の南側から国民党軍の反撃にあい、4月10日、長城線を越えて関内へと侵攻。北京まであとわずかという距離にまで迫った。

万里の長城を占領した日本軍

この情勢にあわてた国民党政府は、5月31日、ついに日本側と塘沽停戦協定を結んだ。これは、河北東部から国民党軍を撤退させ、ここを非武装地帯にするというもので、この結果、日本は手を焼いていた抗日運動をいったんは沈静化させることに成功した。

承徳のラマ廟

ところが、中国側はそうした協定などどこ吹く風とばかり、しばらくするとまたぞろ抗日運動が激しさを増してきた。こうした情勢のなか、現地の日本軍はかくなるうえはと華北五省(河北・察 爾・綏遠・山西・山東)を国民政府の支配から切り離す計画ーいわゆる華北分離工作に着手する。まず、この年の6月、東北抗日義勇軍が河北東部の非武装地帯に入ったことを塘沽協定違反だとして、河北全域からの国民党軍の撤退とその非武装地帯化を要求した(梅津・何応欽協定)。また察爾省で特務機関員が中国軍に一時監禁された事件をきっかけに、察爾省の非武装地帯化を求めた土肥原・秦徳純協定が締結された。

冀東防共自治政府

そして仕上げとなったのが、華北五省の自治運動である。1935年、官憲の搾取と横暴に怒った現地中国人が国民政府に対して「自治」を要求。これに乗じた日本側は、河北東部の通州に親日派の殷汝耕を主班とする冀東防共自治政府を樹立した。また国民政府側は住民の「自治化」要求に応えつつ、同時にそれをけんせいするため宋哲元を委員長とする冀察政務委員会を北平に設置した。さらにその2年後には徳王を主班とする蒙疆自治政府が日本軍の後押しによって内蒙古に成立することになった。

ここに日本側は事実上、華北の広大な地域を国民政府の支配から切り離し、「特殊化」することに成功したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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