人民解放戦争

国共内戦から人民解放戦争へ

「報恨報徳」演説

日本が降伏した1945年8月15日、蒋介石は「恨みに報いるに恨みをもってするなかれ」とラジオを通じて国民に呼びかけた。有名な「報恨報徳」演説である。それまでの日本軍の行為を思うとき、その高邁な精神と度量の大きさには誰しも感服の念を禁じ得ないであろう。事実、「満州」を除く中国大陸に駐留していた日本兵のほとんどが無事日本へ帰国できたのは蒋介石のこうした寛大な処置に負うところが多く、そのため強制抑留を行ったソ連などと引き比べ、今でもそのことに感謝している日本人は少なくない。

ラジオで呼びかける蒋介石

しかしである。そこに蒋介石一流の政治的計算が働いていたこともまた否定することはできないのである。政治的計算の背景にあったのは、日本軍の遺産ーーなかでも関東軍の武器と満州の重工業地帯ーーをめぐる国共の争いであった。もしも、中共がこれを独占したら…。蒋介石が怖れたのは、まさにこのことであった。そうした事態を防ぐためには、日本軍の急速な瓦解は避けなければならず、もうしばらく国民党の側に引きつけておく必要があったのだ。

満州に進軍するソ連軍

ところが、日本降伏が報じられた8月10日、中国共産党は早くも東北に向けて進軍を開始した。そして、すでにそこを制圧していたソ連軍とともに日本軍の武装解除にとりかかっていた。蒋介石はこれを命令違反だとして強硬に非難したが、中国共産党側は、「日本軍の69%(東北四省を含めず)、傀儡軍の95%を迎え撃ったのはわれわれである」と具体的に数字をあげて反論、日本軍武装解除の権利を主張して譲らなかった。このため華北では国共両軍の衝突事件が頻発し、内戦の危機が高まった。

アメリカの援助で満州へ移動する国民党軍

 

重慶会談

だが、うち続く戦乱にうみ疲れた国民の間に内戦反対の声が広がるなか、政治的主導権を握ろうとした蒋介石が和平交渉を提案。中国共産党もこれに応じ、8月28日、蒋介石・毛沢東による初めての歴史的な国共首脳会談が重慶で開催された。交渉は難航をきわめたが、42日間にわたる双方の和解への努力と共産党側の「譲歩」の結果、合意点を「紀要」という形にまとめて発表することができた。10月10日に締結されたため、俗に「双十協定」と呼ばれる。協定では「内戦回避」と各党派からなる「政治協商会議」の開催などが一応合意された。だが、これはほとんど「紙の上」の合意に過ぎず、その後、各地で衝突事件が発生し、再び内戦の危機が高まった。

重慶での毛沢東と蒋介石

学生と都市住民が内戦反対に立ち上がり、アメリカもマーシャル前参謀総長を調停のために中国へ派遣した。翌年1月10日、マーシャルの調停によって先の双十協定でうたわれた政治協商会議が開催された。会議に参加したのは、国民党八名、共産党7名、民主同盟9名、青年党5名、無党派9名の合計38名。右派や中立派も多く含まれていたが、国共の比率8対7という数字には中国共産党の政治的台頭が明確に示されていた。実際、ここで取り決められたのは、要は各党派からなる連合政府案であったが、これは以前から共産党が主張していたことでもあった。

重慶から戻った毛沢東

 

再び内戦

開戦当初、国民党の兵力はおよそ430万。これに対し、紅軍(のちに人民解放軍と改称する)は120万程度。さらにそれぞれの武器や支配地の人口を考慮すれば圧倒的に国民党が優勢だった。しかも国民党のうしろにはアメリカが控えており、ソ連すら公式には国民党支持を表明していた。自信満々の蒋介石は「半年以内に中共軍を壊滅させる」と豪語、実際5か月後の47年3月には、解放区の首都延安を占領してしまった。しかし、この表面的な勝利はかつての日本軍が陥ったワナとまったく同じだった。すなわち蒋介石が得たのは「延安の抜け殻」に過ぎず、肝心の共産党首脳および紅軍勢力はあいかわらず無傷だった。さらに他の占領地区についても都市とそれを結ぶ交通線、いわゆる「点と線」は押えたものの、伸び切った補給線を確保するのに精一杯で、そのまわりの広大な農村地域についてはまったく手がつけられなかった。

人民解放軍

毛沢東の理論によれば、こうした戦略的撤退のあと戦略的対峙の段階に入り、さらにその後、戦略的反攻へと進むのだが、今回は対峙段階の主要任務である解放区の建設がすでに支那事変時代、ほぼ完成していたこともあって、それほど長い対峙段階を必要としなかった。そのため、延安が占領されてわずか2か月後の5月には、東北で局地的反攻が開始された。ついで7月には劉伯承、鄧小平らに率いられた人民解放軍の大部隊が黄河を越えて華中へと進撃を開始した。内戦2年目にして早くも全面的な反攻段階へと入ったのである。

空爆を避け、延安から脱出する毛沢東

 

三大戦役

内戦の帰趨を決したのは、48年秋から翌年のはじめにかけて行われた三大戦役であった。48年9月、林彪率いる東北野戦軍は50万の国民党軍を長春と瀋陽で包囲殱滅、大量のアメリカ製武器と弾薬を手に入れた(遼瀋戦役)。また11月には徐州を中心に布陣していた国民党軍の主力80万が60万の人民解放軍によって2か月にわたる激戦の末、殱滅された(淮海戦役)。ついで翌年1月には南下した東北野戦軍が天津を解放、さらに北京を守備していた溥作義将軍を説得して無血開城させた(平津戦役)。

中国共産党の指導者たち

それにしても、これほど急速な反攻を可能にしたものはなんであろうか。理由として挙げられるのは、まず土地革命により農民を味方につけたことである。地主の土地を没収し貧農や雇農へ分け与える土地革命は、第二次国共合作の成立に伴い、一時中断されていたが、1946年5月から再び実施されていた。この土地革命によって土地を得た農民は必然的に共産党支持、反国民党の側に立った。そして、国民党の支配は地主の復活と報復を意味したため、多くの若者が、革命の成果を守るため人民解放軍へ自ら志願して続々と入隊したのである。

土地改革

また経済政策の失敗も人々の国民党離れを促す要因となった。国民党は、内戦を強行するため紙幣を乱発して軍事費を調達したが、それは必然的に急激なインフレを招くこととなった。さらに先に結ばれた米華通商航海条約によりアメリカ商品が大量に流入してきたため、農業や民族産業はほとんど壊滅状態に陥った。そのため飢えた農民が流民となって都市へ流入し、失業者が街にあふれ出した。しかも、こうした失策の根本にあったのは国民政府役人たちの救いようのない腐敗であったから本来、国民党サイドに立つべき民族ブルジョアジーまでもが国民党を見限るようになったのである。

急激なインフレに悩む外国人

 

天安門に翻る五星紅旗

北京開城に先立つ1月10日、毛沢東は国民党に和平交渉を呼びかけた。追いつめられた国民党側は急きょ北京に飛んで交渉を開始したが、同年4月、アメリカ議会が国民党支援を決議するとこれに力を得、中国共産党側の条件を拒否。ここに和平交渉は最終的に決裂した。これを受けて毛沢東は、翌4月21日、すべての人民解放軍に総攻撃を指令。400万の人民解放軍は一斉に揚子江を渡り、南京への進撃を開始した。雨あられと降り注ぐ砲弾のなか、無数のジャンクに乗船した人民解放軍は、陸続と南京市街へと上陸。迎え撃つ国民党軍と激戦を繰り広げた。勝敗はわずか2日で決した。4月23日、国民党軍が上海方面へと敗走し、首都南京はついに解放されたのである。

長江をわたる人民解放軍

ついで5月27日、上海が解放されると中国共産党の勝利はもはや誰の目にも明らかとなった。そのころになるとアメリカもすでに国民政府を見放してしまい、後ろ盾を失った国民政府はいったん広州へ移った後、重慶、成都と各地を転々としたあげく1949年12月、ついに台湾へと逃れた。

紫禁城の宝物を台湾へ運び出す国民党関係者

</div >1949年10月1日、北京の天安門広場は30万にのぼる大群衆で埋めつくされた。国家主席となった毛沢東が天安門上から中華人民共和国の成立を宣言すると、群衆の間から歓声とともに「義勇軍行進曲」の大合唱が地響きのように沸き起こった。広場のポールには五星紅旗が風を受けて力強くはためいていた。長い間、民衆を塗炭の苦しみに陥れていた封建勢力は姿を消し、不当な搾取をむさぼる外国帝国主義も蒋介石政権とともに国外へと追放された。この日、中国は再び中国人の手に取り戻されたのである。思えばそれは阿片戦争以来、実に100年ぶりのことであった。

天安門上から建国を宣言する毛沢東

 

【訴苦(スウク)】

解放軍に志願した若者のなかには、解放軍とはいったい何なのか訳もわからないまま、ただ食うためだけに応募したたちの悪い人間も少なくなかった。では、共産党はそうした人間をどうやっていっぱしの共産主義者に育て上げたのであろうか。それを可能にしたのが、「訴苦」という独特の教育方法であった。

訴苦

それは、一人ひとりにそれぞれ自分の生涯で一番苦しかったことを皆の前で報告させ、それがなぜ起こったのか、その原因を全員で究明していくという方法である。もちろん最初は皆口が重いが、少しずつ言葉に出しているうちにやがて胸のうちをさらけだすようになってくる。なかには自らの家庭を襲った悲惨な体験を思い出し、感極まって男泣きに泣き出すものも出てくるという。

ここで教官はさらにその原因を徹底的に追求するよう促す。そうすると、こうした苦のほとんどが地主や官僚、軍閥などの搾取、あるいは日本帝国主義に原因があるということがそのうち参加者の頭に反射的に浮かび上がるようになってくる。この段階にいたって初めて共産主義思想による階級教育が施されるのである。このやり方にしたがえば、どんな始末の負えない不良でも数か月のうちに模範的な解放軍兵士に育っていくのだという。

これはいうまでもなくいまでいう洗脳にほかならない。しかし、多くのひとが実際このようにして筋金入りの共産主義者に育っていったことも事実なのであろう。それにしてもかれらはいったいどこからこのような洗脳方法を学んだのであろうか。おそらくソ連から学んだものであろうが、いまのところたしかな情報はない。ただ当時、中国共産党内にはこうした教育方法をさす「洗脳(シーナウ)」という言葉があったことは間違いないようだ。

 

 

 

 

 

 

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