五三〇事件と横光利一の『上海』

「満潮になると河は膨れて逆流した。測候所のシグナルが平和な風速を示して塔の上へ昇っていった。海関の尖塔が夜霧の中で煙り始めた…」
この有名な書き出しで始まる横光利一の代表作『上海』は、一九二五年の五三〇事件に揺れるさなかの上海を舞台にした小説である。物語は、投機買いに疲れた銀行員を中心に、材木の買いつけにやって来た商社マン、風俗店で働く日本女性、白系ロシア人の娼婦、そして労働運動を指導する共産党の美しく若い中国人女性などをからめながら、当時の上海にうずまいていた革命の熱気を、またそれとは対照的に自堕落な日を送る上海在住の日本人たちの生態が虚無的に描かれている。
横光は一九二八年春に実際、一か月ほど上海に滞在しているが、これはそのときの印象を元に創作したものであろう。さらに小説に出てくる芳秋蘭という共産党員はあるいは五三〇事件の中で殺された顧正紅からインスピレーションを得たものでもあっただろうか。もっとも顧正紅は女性ではなく男性であるが、横光はそれを美しい中国人女性に仕立てることで小説としての完成度を高めようとしたのかもしれない。

 

 

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