満州国の歴史を史跡でたどる

満州事変から満州国成立への背景と流れ

義和団記念館旅順日露戦争戦跡武昌起義軍政府旧址満蒙独立運動関連史跡張氏帥府張作霖爆殺現場柳条湖事件跡満州国皇宮関東軍総司令部跡王宮跡満映撮影所跡瀋陽鉄道蒸気機関車陳列館満鉄本社

義和団の乱が発生

1900年、義和団の乱が発生。これに対し、列強は八カ国からなる連合軍を中国に派遣。これを鎮圧した。ところが、鎮圧後もロシアは満州からの撤退を拒否。そのまま居座ることに。

義和団記念館

義和団記念館

1900年に華北一帯で発生した義和団運動に関する資料を集めた歴史記念館。もとは伝説の仙人、呂洞賓をまつった呂祖堂で、義和団事件当時、 総壇口(本部)が置かれていた。指導者は「乾字団」という一派を率いた曹福田で、有名な女性義和団「紅灯照」の指導者黄蓮聖母(林黒児) もしばしば訪れたという。館内には前殿、後殿、五仙堂などいくつかの建物があり、このうち前殿と後殿には、義和団が使った刀や矛、団旗など 当時の遺物が数多く展示されている。また五仙堂は、黄蓮聖母が拝壇の儀式をとりおこなった場所と伝えられる。市内西北の紅橋区。天津西駅 の近く。呂祖堂胡同16にある。

 

日露戦争の勃発

これに危機感を覚えた日本との間で緊張が高まると1904年、日露戦争が勃発。かろうじて日本が勝利する。

旅順日露戦争戦跡

乃木将軍ら日本将兵

ロシア極東艦隊の拠点港であり、多くの要塞に守られていた旅順は、日露戦争の際、最大の激戦地となった場所。1世紀近くたった 現在も多くの戦跡が残されている。なかでも203高地は、旅順攻略のかなめとなった場所で、乃木大将らが大きな犠牲をはらって占領しようとした ところである。また湾をのぞむ周囲の山上には、望台砲台跡や東鶏冠山保塁跡など、当時の要塞跡が今も往時のまま残っている。旅順口地区にある。

 

辛亥革命ーー民族独立運動から満州侵略戦争へ

辛亥革命はもともと漢民族による清朝による満州族支配からの民族独立運動であった。ところが革命に成功した漢人革命家たちはどさくさにまぎれ清朝の故地である満州までも併呑、みずからの領土としてしまった。当初の純粋な民族独立運動がいつのまにか他民族の領土までも奪い取る侵略戦争へと変質したのである。

武昌起義軍政府旧址

武昌臨時政府

武昌蜂起の際、湖北革命軍政府が置かれた建物。1911年10月10日、武昌で蜂起した革命派は、わずか1日のうちに 武昌全域を占領、ここに黎元洪を首班とする湖北革命軍政府を樹立した。ここは以前、湖北諮議局(議会)だった建物で、 赤レンガ造りのため別名武昌紅楼とも呼ばれている。正門前に、帽子とステッキを持った孫文の銅像があり、 中には講堂跡、黎元洪が使用した部屋、黄興が作戦会議を開いた部屋などが残っている。市内黄鶴楼のちょうど裏側、 蛇山のふもとの首義路にある。

 

満蒙独立運動のはじまり

かくして帰る先を失った満州人によ失地回復運動(満蒙独立運動)がはじまった。中心となったのは、旧清朝遺臣からなる宗社党であった。またそれを民間人の立場から支援する日本人志士も多く現れた。

満蒙独立運動関連史跡

川島浪速と粛親王

満蒙地域を独立させようという試みは、満州事変以前にも何度かあり、なかでも有名なのが辛亥革命後二度に わたって起こった満蒙独立運動である。第1次満蒙独立運動は、清朝崩壊直後の1912年に起こったもので、 別名宗社党事件ともいう。中心となったのは元清朝遺臣からなる宗社党と川島浪速をはじめとする 日本人大陸浪人グループ。計画によれば、日本から調達した武器を満鉄線公主嶺から内蒙古のカラチン王府と パーリン王府まで秘密裏に輸送。蒙古人部隊による武装蜂起を促すというものであった。だが、 この計画は武器輸送の段階で中国側に発覚し、未遂に終わった。1916年の第2次満蒙独立運動の首謀者も、 やはり川島浪速ら日本人グループと宗社党の一派であった。ただし、今回は蒙古独立を悲願とする 蒙古人パプチャップが主力部隊として加わっていた。計画では、まずパプチャップが北満州で蜂起し、 それに呼応する反乱部隊とともに奉天を占領。さらに北京を襲って内外蒙古と満州および華北を併せた 「北清帝国」を建設するというものであった。 だが、この計画も袁世凱の急死によって再び頓挫。 中国軍に追われ、敗走したパプチャップも内蒙古の林西で流れ弾に当たって死亡し、 ここに第2次満蒙独立運動も第1次と同様あっけない幕切れを迎えたのであった。なお、 この第2次独立運動には、日本の財閥大倉喜八郎も一枚かんでおり、当時の金で百万円を 資金として差し出したといわれる。一説によれば、間島(満鮮国境地帯)に東洋のスイス ともいうべき中立の独立国を造り、大倉をその王にするという密約が川島らと交わされていたというが定かではない。カラチン、林西ともに内蒙古自治区内にある。

 

旅順 粛親王王府跡

旅順の粛親王府

辛亥革命後の1912年、清朝復興を悲願とする旧筆頭皇族・粛親王善耆が日本人大陸浪人川島浪速の手引きで北京を脱出。日本軍の管理下にあった旅順に亡命してきた。ここはその粛親王がその一族と暮らした邸宅跡。

粛親王家は満州鑲白旗に属する名門で、清朝の八大世襲王家の筆頭に数えられている。初代粛親王ホーゲは清朝建国時に活躍した武将で、善耆はその10代目にあたる。

粛親王善耆は、清朝末期の早い時期から日本の明治維新に習うべしとして、立憲君主制のもとでの体制変革を主張していた。とくに義和団事件後は、政府の要職についてさまざまな改革を押し進め、開明皇族として知られていた。摂政王醇親王暗殺未遂事件の際、犯人である汪兆銘の人物を見込み、その助命嘆願をしたのもこの粛親王とされる。

 

張軍閥による満州支配

主人を失った満州の支配権を握ったのは張作霖・張学良父子であった。その暴虐な軍閥支配により満州の民は途端の苦しみに喘いだ。またその影では、地政学的な要地である満州を狙ってソ連とアメリカが魔の手を伸ばしていた。

張氏帥府

張氏帥府

奉天軍閥張作霖、張学良父子の邸宅。3階建てのロマネスク風建築で、その豪勢な外観からは、当時の権勢の大きさと一族の贅沢な生活ぶりがしのばれる。張作霖死後は息子の張学良の所有となり、その名をとって通称「少帥楼」と呼ばれていた。1931年、満州事変によって張学良軍が関内へおわれると、関東軍が接収、満州国時代は国立奉天図書館として使われていた。現在は、張学良旧居陳列館として観光客に一般公開されている。場所は、旧城内、瀋陽故宮の南側。

 

満州の簒奪者が暗殺される

張作霖爆殺現場

張作霖爆殺現場

蒋介石の北伐軍に追われ、北京から奉天(現在の瀋陽)へひきあげる張作霖が、列車ごと爆殺された場所。 1928年6月に起こった事件で、日本側は当初これを中国軍のしわざとしたが、のちに関東軍参謀の河本大作大佐が計画し、 実行したことが明らかとなった。重傷を負った張作霖は、治療のため病院へ運ばれたが、 途中で死亡した。張作霖のあとをついだ息子の張学良は、この事件をきっかけによりいっそう反日姿勢を強めた。場所は、京哈線が立体交差しているところで、 瀋陽北駅と皇姑屯駅の間。近くに記念碑が建っている。5路バスで皇寺広場下車。その後、 撫順路を線路に沿って徒歩15分ほど。

 

ついに満州事変勃発!

機は熟した。関東軍がついに動いた。

柳条湖事件跡

柳条湖事件現場

満州事変の直接のきっかけとなった柳条湖事件の発生現場。1931年9月18日夜、瀋陽駐屯の 独立守備隊の河本末守中尉らは、ここで満鉄線をねらって爆薬に点火。これを中国軍のしわざとし「満州」武力占領の 口実をつくりだした。「満州国」時代、日本側によって記念碑が建てられていたが、戦後、 中国側によって倒された。現在、その碑は「九・一八残暦碑」となっており、近くの望花街に 「九・一八事変陳列館」が設けられている。現在、現場付近には中国側による「九・一八残暦碑」と 記念館が新しく建立され、一般に公開している。市の北郊、于洪区の柳条湖にある。崇山東路と 望花街の立体交差の北側。北陵公園から213路のバスで「化工廠」下車。

 

満州国が建国される

満州国皇宮

満州国皇宮跡

「満州国」皇帝溥儀の宮殿跡。宮殿というにはかなりこじんまりした造りで、かつて大清国皇帝として北京の紫禁城に 君臨した溥儀を思うと一抹の哀れさが漂う。本格的な宮殿が完成するまでの仮住まいということだったらしいのだが、 結局、「満州国」崩壊直前まで使われた。宮殿内は、内廷と外廷にわかれており、かつて皇族たちが生活を営んだ内廷には、 緝煕楼や同徳殿などがあり、溥儀の書斎や寝室、皇后の婉容の部屋などが残っている。外廷にある勤民楼は、 政務や公式な会見につかったところで、1934年3月1日、溥儀が「満州国」皇帝として3度目の 「登極の儀」をおこなった玉座やそのときの会食ホールなどが残っている。また勤民楼には帝室御用掛、 吉岡安直の控室もあり、溥儀が吉岡らによって強制的に日満義定書に調印させられたのも、この建物である。 各建物内に陳列館が併設されており、当時の写真や遺品など、多くの文物資料が展示されている。 なお内廷の同徳殿は吉林博物館となっている。駅の東側。

関東軍司令部

関東軍司令部跡

「満州国」の事実上の支配者であった関東軍総司令部の建物。ヨーロッパ建築と日本の城郭建築を ミックスした「大陸様式」と呼ばれる独特の建物で、当時の日本人からはその特徴的なかたちから 「お城」と呼ばれていた。現在は吉林共産党委員会の建物になっている。場所は駅前から まっすぐ伸びる斯大林大街沿い。現在は吉林共産党委員会の建物として使われている。

満州国王宮跡

満州国王宮跡

本来、満州国の皇居となる建物だったが、建築の途中で敗戦を迎え、未完成に終わった。現在の建物は 新中国が元の設計図を参照して完成させたもの。建物の前は広大な広場になっているが、 ここは皇居前広場になる予定だった。現在は地質学院として使われている。 斯大林大街から解放大路を西に約2キロの地点にある。

満映撮影所

満映撮影所

1937年に発足した満州映画協会(満映)の撮影所跡。満映は、大杉栄殺害犯として悪名高い元軍人の甘粕正彦を 理事長に迎え、もっぱら満州国を内外に宣伝する国策映画を制作していた。もっとも国策映画とはいえ、 娯楽の少ない当時のこと、そこで生み出される作品は次々とヒットを飛ばし、なかには国際的にみても けっこう鑑賞に耐えるものも少なくなかったという。「満州国」時代を風靡した大スター李香蘭も ここから誕生した。だが、1945年8月、日本が無条件降伏すると理事長の甘粕は、青酸カリをあおいで自殺。 ここに満映の短い歴史は終りを告げた。なお自殺をはかった理事長室の黒板にはこんな辞世の句が書いてあったという。 「大ばくち、もともこもなく、すってんてん」。現在は、長春電影制片廠となっている。市の東南、南湖公園の北。

瀋陽鉄道蒸気機関車陳列館

瀋陽鉄道蒸気機関車陳列館

人民中国成立以前、中国大陸を走っていた蒸気機関車を集めたユニークな鉄道博物館。展示品のなかには、満州国時代に活躍した特急「あじあ号」(機種名パシナ)の姿も見える。あじあ号は、最高速度110キロという当時世界でも最高クラスの速度を誇る蒸気機関車で、その流線型のスマートなデザインとともに新生「満州国」のシンボルとされていた。瀋陽の南郊、蘇家屯。

満鉄鉄路総局

満鉄が誇るあじあ号

満鉄が所有する鉄道路線は、満州国建国後、満州国政府の所有となり、満鉄はその委託を受けて経営するという形になった。それにともない1933年、奉天に鉄路総局が設置され、鉄道経営の中心は大連から奉天へと移った。街の中心地、中山広場にある。現在の中国鉄路瀋陽鉄路局。

新京旧日本人街

吉野町

現在の地質学院から斯大林大街にかけての一帯はかつての日本人街だった。東朝陽路や東中華路などは 「満州国」政府の官僚が住んだ高級住宅街だったが、今でも市政府の役人用住居として使われている。 また解放大路の南側は一般の日本人が多く住んだところ。現在でも2階建ての長屋風の家並みが残り、 当時の面影を伝えている。

新京大和ホテル

現在の春誼賓館。駅前の斯大林大街沿い。
吉野町

駅前の長江路あたりは、かつて「吉野町」と呼ばれた繁華街。>

旧城内

主に中国人が居住していた。現在の人民広場の東側区域。

新京神社跡

現在、長春第1幼稚園となっている。以前、北参道だったところに鳥居の跡が残っている。 場所は西広場と斯大林大街の間。

児玉公園

児玉公園は、日露戦役で活躍した児玉源太郎大将にちなんだ公園として当時の日本人に親しまれていた。 現在は勝利公園とその呼び名も変わり、かつてあった児玉大将の馬上像も毛沢東像に変わっている。現在の勝利公園。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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