日中戦争の背景と展開

日中戦争(支那事変)の背景と展開

大長征西安事件盧溝橋一文字山廊坊事件跡広安門事件跡通州事件跡大山勇夫中尉殺害事件跡上海陸戦隊司令部上海戦跡南京虐殺記念館台児庄戦跡徐州会戦跡黄河決壊跡

大長征

1934年10月江西省の根拠地を追われた共産党は、新たな根拠地を求めて大西遷を開始した。世に言う大長征である。

遵義会議会旧址

瑞金をあとにした中国紅軍第1方面軍は、追撃する蒋介石軍をふりきり1935年1月、 ここ貴州遵義にたどりついた。毛沢東はここで政治局拡大会議の開催を要求。それまでの指導のありかたを 総括する会議が3日間にわたって開かれた。会議では、周恩来の率直な自己批判もあり、博古や オットーブラウンらの戦術上の誤りが決議され、指導権はふたたび毛沢東の手に移ることになった。ここは、 その遵義会議が開かれた建物で、2階建ての洋風建築。会議室は2階にあり、中には参加者の顔写真とともに 当時採択された「包囲討伐戦に関する総括的決議」書が展示されている。旧市街区紅旗路にある。

【関連史跡】遵義滞在中、中共幹部が利用した建物が、市内に残っている。会議旧址から約1キロ離れた新城にあり、 中共中央負責人遵義寓所の名で呼ばれている。2階建ての洋館で、 2階に毛沢東の部屋がある。遵義は貴陽の北約100キロ。

紅軍強渡大渡河遺址

大渡河を渡る紅軍

金沙江を渡った紅軍は1935年5月、大渡河の南側安順場に到達した。向こう岸へ渡ろうとした紅軍は、 まず南岸にもやってあった船に先鋒隊を乗せ、対岸へと送り込んだ。先鋒隊は、激烈な戦闘ののち対岸の渡し場を占領。 早速、船を回して主力部隊の輸送にとりかかったが、困ったことに渡し船は3隻しかない。渡河に手間取っているすきに、 蒋介石の空軍が激しい爆撃を加えてきた。やむをえず紅軍は、すでに向こう岸へ渡った部隊 とともに河岸を並行してさかのぼり、濾定橋まで移動することにした。石棉県西部の安順郷にある。

延安関連史跡

延安の毛沢東

大長征を終えた紅軍は最初、保安(現在の志丹)に入った。だが、黄土台地にある保安は侵食が 激しく道も狭かったため、1937年1月延安に進駐し、ここを新たな根拠地とした。以来10年以上にわたって、 中国共産党はここを「赤い首都」として支那事変、解放戦争を戦い抜いた。西安の北方、 約250キロの黄土高原の山中にある。「中国革命の聖地」として多くの史跡が残っている。

張学良公館

張学良

西安事件当時、東北軍の将軍 張学良が、官邸として使っていた建物。1932年に建てられたもので、 3階建ての洋風建築。西楼の3階が張学良とその家族の居室で、中楼が応接室と会議室として使われた。東楼は、 事変直後、延安から調停にやってきた周恩来と葉剣英が宿舎にしたところ。なお事変のさい、張学良、蒋介石、 共産党の三者交渉は、中楼で行われた。西安事件紀念館が併設されている。城内東南の建国路69号。

【関連史跡】城内北部、青年路にある「止園」は、張学良とともに事変の立役者となった西北軍の楊虎城将軍 の別荘跡。現在、楊虎城将軍に関する資料が展示されている。

盧溝橋

盧溝橋の中国兵

北京の西南郊外、永定河にかかる石造りの橋。かつてマルコポーロが「世界一美しい橋」と旅行記のなかで紹介 したことから別名マルコポーロブリッジとも呼ばれる。1937年7月7日夜、この付近で発生した謎の発砲事件が その後8年にわたる支那事変の導火線となった。日本軍が演習していたのは、盧溝橋からみて京漢線の 向こう側の永定河の東岸。現在、橋のたもとに「盧溝橋資料陳列館」があり、七・七事変当時の中国側の 宋哲元将軍の指揮刀や日本軍の軍刀や砲弾などの遺品が展示されている。市の西南郊外にある。長椿街から 309路のバスで盧溝橋下車。なお最近の研究では、この最初の発砲は中国共産党の劉少奇によるものとする説が有力になっている。

一文字山

盧溝橋

1937年7月7日、夜間演習中に発砲を受けた日本軍は翌日朝ただちに近くの一文字山を占拠した。ところが この後、再び3発の銃弾が宛平県城内から飛んできた。これに対し、北京の牟田口連隊長は「撃たれたら撃ち返せ」と命令。 ここに日中両軍による本格的な衝突が始まった。戦争中、「支那事変発端之碑」が建立されていた。宛平県の東方、 京漢線盧溝橋駅の南側。

廊坊事件跡

廊坊駅

廊坊事件は、1937年7月25日、軍用電線の修理のため当地に派遣された日本軍部隊が、中国軍に射撃され、 両軍の衝突を引き起こした事件。和平に向けて動き出していた日本側を牽制し、無理矢理戦争に引きずり込もうとした中国側の策謀であったという見方もあり、翌日に発生した広安門事件とともに日中全面衝突を不可避とした一連の挑発事件のひとつ。廊坊は 北京と天津との間にある。

広安門事件跡

広安門

広安門事件は、1937年7月26日、居留民保護の名目で北京へやってきた日本軍が、城内へ入ろうとしたさい、 城壁の上から中国兵がいきなり機関銃の掃射を加えてきた事件。和平に向けて動き出していた日本側を牽制し、無理矢理戦争に引きずり込もうとした中国側の策謀であったとする見方もあり、前日に発生した廊坊事件とともに日中全面衝突を不可避とした一連の挑発事件のひとつ。北京の西南、広安門駅の付近。

通州事件跡

通州事件を伝える当時の新聞

1937年7月29日、通州の中国人保安隊3000名が、同地に駐屯していた日本軍守備隊および 日本人居留民をいっせいに襲った。日本人200人あまりが犠牲になったこの事件は、その殺害方法があまりにもむごたらしかったこともあり、これをきっかけに「中国討つべし」の声が日本国内に一気に高まることになった。通州は北京東方、 現在の通県。

大山勇夫中尉殺害事件跡

大山勇夫中尉殺害事件現場

1937年8月9日夕、海軍特別陸戦隊の大山勇夫中尉と斉藤要蔵一等水兵が上海西部地区を視察中、 中国の保安隊によって射殺された事件。中国側は大山中尉らが制止もきかずに飛行場に入ろうとしたので やむなく射殺したと証言しているが、現場の状況からみて中国側の説明には矛盾した点が多く、むしろ7月の北京における広安門事件や廊坊事件、通州での日本人居留民虐殺事件に続く中国側による挑発事件のひとつと位置づけられる。現場は虹橋飛行場東南部の越界路の路上。

上海陸戦隊司令部

上海陸戦隊司令部

旧日本軍の海軍陸戦隊司令部がおかれていた建物。現在は食料品店や銀行、会社などの雑居ビルとなっている。四川北路を北上し、 魯迅公園の前で東江湾路にはいる交差点にある。

上海戦跡

廃墟となった上海

1937年8月13日夕、反日感情の高まっていた上海でついに日中両軍の衝突が発生した。同日夜、 日本政府は松井石根を司令官とする上海派遣軍の派兵を決定。ここに第2次上海事変が勃発した。戦場は、 蘇州河北岸から徐々に閘北、そして上海北郊へと拡大した。上海北郊は無数のクリーク(小運河)が 走る天然の要塞で、進撃する日本軍を悩ませた。戦闘は2か月あまりも膠着状態に陥ったが、 柳川兵団の杭州湾に上陸すると中国軍は前線から撤退。ついに上海は日本軍の占領下におかれた。 だが、日本軍は撤退する中国軍を追ってそのまま南京へと侵攻した。

南京虐殺記念館

南京虐殺記念館

中国共産党政府の主張によれば、1937年12月、 日本軍は国民政府の首都南京を攻略したさい、無防備の市民を含む中国人を大量殺害したという。ここは、その「事件」、いわゆる「南京虐殺」をテーマにした歴史記念館である。 中国側によれば殺害事件は、市内外あわせて10カ所以上で行われたが、なかでも記念館のあるこの一帯での 犠牲者がもっとも多かったという。建物の正面には「300000」という犠牲者の数字を示すレリーフがはめこまれ、館内には当時撮影されたものという写真や生存者の証言、さらに付近から発掘された人骨が土に埋まったままの状態で展示されている。市内西南の江東門にある。7路バスで茶南小区下車。

台児庄戦跡

台児庄駅

徐州会戦の前哨戦となった戦い。1938年3月24日、日本軍の瀬谷部隊が台児庄の一角を占領したが、 中国軍は孫連仲部隊を中心にこれを猛攻撃。四面楚歌に陥った瀬谷部隊は4月6日、ついに台児庄から撤退した。 中国軍はこれを「台児庄で大勝利。日本軍敗退」と宣伝。無敵皇軍の神話を崩壊させようとした。徐州の東北にある。

徐州会戦跡

徐州での市街戦

南京攻略後の1938年4月、大本営は蒋介石直系軍の湯恩伯軍をはじめ多くの中国軍が 徐州方面に集結しているのをみて、徐州作戦を発令した。日本軍の編成は、 寺内寿一司令官率いる北支那方面軍と、畑俊六司令官率いる中支那派遣軍(南京虐殺の責任を 問われ解任された松井石根司令官の中支那方面軍に代わり新たに新設された)を主力とし、 それぞれ北支那方面軍は華北方面から徐州をめざし、また中支那派遣軍は南京方面から 北上するというかたちをとった。前哨戦となった台児庄の戦闘では、それまで連戦連勝だった 日本軍が初めて中国軍によって撤退させられるという事態も発生したが、結局、5月19日、 日本軍の手によって徐州は陥落した。ここに華北占領区と華中占領区が結ばれ、 いわゆる南北の打通が実現した。しかし、中国軍は徐州攻略直前、小部隊に分かれて 包囲網をかいくぐり脱出。当初、日本側が企図した包囲殱滅戦には失敗した。

黄河決壊跡

黄河決壊後の農村

1938年6月、徐州を追われた蒋介石軍は、花園口付近で黄河の堤防を爆破し、日本軍の追撃をかわそうとした。 だが、決壊した部分からあふれ出た水は、奔流となってまたたくまに河南平野全域をのみこみ、 90万人の溺死者を出す惨事となった。その後、解放直前の1947年に決壊部分が修復されるまで、 このあたりは泥土で覆われた不毛の土地となっていたという。現在は灌漑技術がすすみ、 空の青、植樹の緑がコントラストをなす美しい渡し場となっている。鄭州市の北18キロの黄河南岸。

 

 

 

 

 

 

 

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