中国共産党の歴史

中国共産党のあゆみを史跡でたどる

北京大学紅楼陶然亭公園湖南第一師範陳列館中国共産党第一次全国代表大会会址嘉興中共一大会址安源労働運動記念館国民党一大会址広州農民運動講習所旧址三山会館八一南昌起義総指揮部旧址八七会議会址井崗山革命博物館中華ソビエト臨時政府大会堂遵義会議旧址大雪山延安革命紀念館

北京大学紅楼

五四運動 北京大学を出発するデモ隊 1919年 北京

北京大学の旧校舎のひとつ。赤レンガ造りのため通称紅楼とも呼ばれる。辛亥革命後、中国共産党の創設者・李大釗が ここで図書館主任をつとめていた。また同じころ毛沢東も李大釗の下で働いていたことがあり、現在「毛主席在校工作処」 および「李大釗記念堂」として一般公開されている。ちなみに1919年の五四運動の際、天安門へむかう学生たちが デモ行進を開始したのはここの北側広場で、現在、民主広場と称されている。天安門の東北、中国美術館の近く。 市内東城区五四大街29号。

陶然亭公園

パリ在住の中国人留学生が発行した政治改革を訴えるパンフレット

永定門西街にある陶然亭公園は1920年、周恩来と李大釗の呼びかけによって当時の5つの急進的な政治団体が集まり、 『連合改造の宣言』を発表した場所として知られている。これは、翌年の中国共産党創設を準備する上で大きなステップと なった出来事であった。またこの陶然亭公園は戊戌維新のさい、康有為、梁啓超、譚嗣同らが変法の方策を練った場所でも ある。前門大街を南へ下って、永定門西街を突き当たったところにある。

湖南第一師範陳列館

湖南第一師範陳列館(出典:WIKI)

毛沢東の母校・湖南第一師範学校跡に設けられた歴史記念館。17歳で故郷の湘潭から長沙に出てきた毛沢東は、 いくつかの学校を転々とした後、20歳の春この湖南第一師範学校に入学した。毛沢東はここで、終生の師となる 楊昌斎や最初の同志である蔡和森と出会い、革命家としての第一歩を踏み出した。のちに毛沢東は「わたしは大学 に行ったことがないし、外国で学んだこともない。わたしの知識と学問の基礎は、第一師範学校できずかれました」 と回想しているようにその思想を培い、その生涯を決定づけたのはまさにこの学校であった。館内にはかつて毛沢東が 学んだといわれる教室や自習室、さらに寄宿舎や新聞閲覧室などが残っている。なかでも興味深いのは、 自習室に展示されている「倫理学研究」という本。中は毛沢東の自筆による書き込みでびっしり埋められており、 若き日の毛沢東の勉強ぶりがしのばれる。市内五一広場の南、橘子洲を臨む湘江沿岸。長沙北駅と南駅を結ぶ鉄道沿線にある。 1路バスで書院路下車。【関連史跡】長沙時代の毛沢東が蔡和森らと創設した革新的な学生団体、新民学会の旧址が、 湘江の対岸、岳麓山の麓、新民路にある。

中国共産党第一次全国代表大会会址

中国共産党第一次全国代表大会会址

五四運動後、各地に誕生した中国の共産主義者グループは、1921年7月、その代表を上海に送り込み、全国的な統一組織 である中国共産党を正式に発足させた。ここはその代表大会が開かれた場所で、当時のフランス租界にある。出席したのは コミンテルンのマーリンはじめ張国熹、董必武、李漢俊、周仏海中国内外の共産主義者12名。そのなかには湖南代表 として若き日の毛沢東の姿もあった。会議では、まず各地の活動状況をそれぞれ報告した後、全会一致で中国共産党の 設立を決議。さらに今後の活動方針について話し合った。だが、4日目に密偵に探知されたため討議を一時中断、 メンバーはただちに裏口から逃走した。その後、会議は浙江嘉興県に移され、再び討議が続けられた。旧址内は、 のみかけの茶碗がそのままテーブルの上に置かれており、当時の様子が生々しく再現されている。また中国共産党誕生の 歴史的背景などに関する資料も数多く展示されている。興業路76号。淮海公園と復興公園のちょうど真ん中に位置し、 興業路と黄陂南路の公差点にある。

嘉興中共一大会址

嘉興中共一大会址

中国共産党第1次全国代表大会が開催された場所。1921年7月、上海で開かれた中国共産党第1次全国代表大会は途中、 密偵にかぎつけられため中断。議場をここ嘉興の南湖に浮かぶ船上に移して再開された。現在、南湖の湖心島に模造の 革命記念船が浮かべられ、船内も当時の様子がそのまま再現されている。また南湖の東北湖畔、児童公園のとなりに 南湖革命記念館があり、中国共産党創立大会に関する多くの文物資料が展示されている。南湖は、嘉興駅の裏側にある。

安源労働運動記念館

共産党が設置した安源炭鉱の消費者協同組合

共産党が設置した安源炭鉱の消費者協同組合

中国共産党が結成された1921年の秋、毛沢東と劉少奇らは江西の安源鉱山にはいって、労働運動の組織化を始めた。 翌年9月、労働者たちは大規模なストライキを引き起こし、賃金の増額や労働組合の承認など多くの要求を勝ち取った。ここは、 その安源における歴史的なストライキ闘争を記念して建てられた記念館で、館内には当時の毛沢東や劉少奇らの足跡を示す文物や ストライキ闘争に参加した労働者たちの遺品などが数多く展示されている。古ぼけた遺品からは、当時の炭鉱労働の悲惨さとともに、 ストライキに立ち上がった労働者たちの高揚感が伝わってくるようだ。南昌の西南省境にある萍郷市の東方、安源鉱区安源山 のふもと。【関連史跡】記念館の向かい側には、当時、労使双方が交渉をおこなった「談判大楼旧址」がある。また 近くの半辺街には「安源労働者クラブ旧址」などがある。

国民党一大会址

国民党一大会址

1924年1月20日、中国国民党第1次全国代表大会が開催された場所。出席したのは、個人の資格で参加していた 毛沢東や李大釗など共産党のメンバーをふくむ165人。大会では、孫文の「三民主義」とともに「連ソ・容共・扶助工農」 の3大政策が採択され、ここに第1次国共合作が正式に成立した。この際、中央執行委員24人のうち李大釗ら3人が、 また候補委員17人のうち毛沢東ら7人が共産党員として選出された。なお会場となったのは、広州大学の講堂で、 のちに広州大学の文学部主任となった魯迅がその2階に住んでいた関係で、魯迅紀念館が併設されている。文明路と 越州中路の交差点角にある。

広州農民運動講習所旧址

広州農民運動講習所旧址

第1次国共合作後に創設された農民運動講習所の跡。農民運動講習所は、農民運動の指導者を育成する目的で つくられた共産党系の学校で、1924年7月の発足。全国20省から集まった327人の卒業生はその後、 各地で農民暴動をひきおこしたり、また兵站を受け持つなど北伐戦争の進展に大きな役割をはたした。初代所長は彭湃で、 のちに毛沢東が引き継いだ。市内東部、中山四路にある。1、22路バスで大東門下車。

三山会館

三山会館

1927年の蒋介石による反革命クーデターの際、労働者側の拠点のひとつとなった場所。同年3月21日、 上海の労働者は周恩来ら中国共産党の指導で一斉に蜂起。それまで上海を牛耳っていた軍閥の孫伝芳を追い払い、 労働者を主体とした上海臨時特別市政府を樹立した。その際、労働者糾察隊滬南総部の拠点となったのがこの建物で、 もとは福建の同業組合会館として使われていた。しかし4月12日、革命を裏切った蒋介石軍によって攻撃され、 たてこもっていた多くの労働者が犠牲となった。南浦大橋の南、中山南路沿いにある。


八一南昌起義総指揮部旧址

八一南昌起義総指揮部が置かれた南昌旅社

1927年8月1日、共産党は、蒋介石の反革命クーデターによって中断した国民革命をやり直すため、 南昌で独自の武装蜂起をこころみた。ここはそのさい周恩来、朱徳、賀龍らが前線総司令部をおいた建物で、 当時南昌一の規模を誇ったホテル、江西大旅社のなかにある。館内には、総指揮部がおかれた喜慶堂をはじめ 周恩来の執務室や医務室などが復元され、展示コーナーでは八一蜂起の歴史を体系的に紹介している。なお 八一蜂起は、中国共産党がみずからの軍隊を持った記念すべき戦いでもあり、現在中国ではこの日を建軍節 として祝っている。中山路265号。八一公園の西にある。2路のバスで「洗馬池」下車。

八七会議会址

瞿秋白

蒋介石の反革命クーデターによって第1次国共合作が終わりを告げた1927年8月7日、 中国共産党は臨時拡大会議(八七緊急会議)を開いた。会議では、国共合作失敗の原因は、 総書記である陳独秀の右翼日和見主義路線にあるとして陳独秀を解任。代わりに瞿秋白を総書記 とする新しい指導部を選出した。さらに土地革命と武力闘争を今後の方針として採択。湖南・湖北・江西・ 広東四省で秋収蜂起を行うことを決定した。また、毛沢東が「政権は銃口から生まれる」 と発言したのはこの会議である。武漢市の漢口のバン陽街139号。

井崗山革命博物館

瑞金の中華ソビエト臨時政府庁舎

1927年10月、秋収暴動に失敗した毛沢東は、残存部隊とともに井崗山に「農村ゲリラ根拠地」を設営した。 あとから振り返ればこれはある意味、自然な流れのようにみえるが、しかし、これは毛沢東にとってもいちかばちかの賭けであった。というのも、当時の共産党中央の主流は、 教条的マルクス主義にこりかたまっており、かれらにいわせれば、革命軍の中核を都市労働者に求めず、 プチブルジョア階級である農民に求めることは、重大な逸脱とされたからである。だが、 その「農村によって都市を包囲する」という毛沢東の特異な農村根拠地理論こそが、 最終的に中国革命を成功に導いた原動力となったことはその後の歴史が示す通りである。後年、 毛沢東は「星星之火可以燎原」という言葉を好んで使ったが、まさにその言葉の通り、 ここ井崗山に灯された小さな火はやがて中国全土で革命の炎となって燃え上がったのである。現在、 博物館内に保管されている文物資料はおよそ7000点。展示は「秋収蜂起と井崗山への進軍」「井崗山の闘争」 「星火燎原」の3つに大きく分けられ、井崗山での闘争の歴史と中国革命におけるその意義がわかりやすく 解説されている。奥深い山中ながら、興味のある人や研究者にとっては苦労して登るだけの価値はある。 井崗山市内。

【関連史跡】北面の丘に革命烈士陵園と記念堂がある。また博物館の近くに毛沢東と朱徳が住んだ旧居がある。

中華ソビエト臨時政府大会堂

瑞金の中華ソビエト臨時政府大会堂

1931年秋、中国共産党中央は各地のソビエト地区の代表を江西瑞金に集め、 毛沢東を主席とする中華ソビエト臨時共和国を樹立した。広大な中国全土からみれば、 人口わずか数百万たらず、しかも境界線すら流動的な、いわば“おもちゃ”のような共和国であったが、 独自の教育制度や貨幣制度も兼ね備えるなど、一応国家としての基本的な体裁は整っていたという。 ここは、その中華ソビエト共和国の中央政府が置かれた場所で、共和国の樹立を宣言した記念すべき 第1回全国ソビエト代表大会が開催された会議場(その後、中央政府として使われた)跡をはじめ、 毛沢東や朱徳らの旧居など多くの旧址が残されている。中華ソビエト政府はその後、 5回にわたる国民党による包囲攻撃をうけ、1934年10月に陝西をめざし長征に出発するまでの 約3年間存続した。なお葉坪にあった政府機関は、33年4月、近くの沙州覇に移転された。瑞金県県城東北の 葉坪村にある。瑞金は、江西の東南、福建との境にある。

遵義会議旧址

遵義会議会旧址

瑞金をあとにした中国紅軍第1方面軍は、追撃する蒋介石軍をふりきり1935年1月、 ここ貴州遵義にたどりついた。毛沢東はここで政治局拡大会議の開催を要求。それまでの指導のありかたを 総括する会議が3日間にわたって開かれた。会議では、周恩来の率直な自己批判もあり、博古や オットーブラウンらの戦術上の誤りが決議され、指導権はふたたび毛沢東の手に移ることになった。ここは、 その遵義会議が開かれた建物で、2階建ての洋風建築。会議室は2階にあり、中には参加者の顔写真とともに 当時採択された「包囲討伐戦に関する総括的決議」書が展示されている。旧市街区紅旗路にある。

【関連史跡】遵義滞在中、中共幹部が利用した建物が、市内に残っている。会議旧址から約1キロ離れた新城にあり、 中共中央負責人遵義寓所の名で呼ばれている。2階建ての洋館で、 2階に毛沢東の部屋がある。遵義は貴陽の北約100キロ。

大雪山

大雪山を越える紅軍

1935年6月、万年雪をいただくチェン峡山脈にさしかかった長征軍は、これまで誰も試みたことのない 大雪山越えを行った。最大の難所は、海抜4000メートル級の夾金山。紅軍は、ほとんど防寒装備を持たず、 大勢の兵士が凍死した。「大雪山越えは長征の大きな試練であった。風雨や氷やひょうが耐えず、 紅軍を襲った。数百の同志が倒れて2度と起き上がらなかった。しかし、 紅軍はその屍を越えて前進した!(毛沢東)」。チェン峡山脈は、四川成都の西方に南北に横たわっている。

延安革命紀念館

延安革命紀念館

延安時代の革命資料を展示した歴史記念館。館内には、支那事変中、日本軍からろ獲した武器をはじめ、 長征中の食料となった野草、大生産運動の際に使われた農具や紡車など、苦難の時代をしのばせる数多くの 遺品が展示されている。また西側ホールには、1947年3月、侵攻してきた国民党軍をかくらんするため、 中国共産党中央が延安を撤収してから翌年4月延安にもどるまでの転戦経過を、ランプと音声で詳しく 説明してくれる戦場模型がある。戦地医療に挺身したカナダ人医師ノーマン・ベチューンや、「中国の赤い星」を 著わしたジャーナリスト、エドガー・スノーら、革命を支援した外国人に関する資料も豊富に展示されている。 市内西北、清涼山の西の王家坪にある。

【関連史跡】記念館の東隣は、中央軍事委員会および八路軍総司令部の旧址。毛沢東や朱徳、彭徳懐、葉剣英らの旧居も残っている。

 

 

 

 

 

 

 

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