日中戦争(支那事変)の遠因となった辛丑条約

日中戦争(支那事変)の発端となったのは、北京郊外の盧溝橋における謎の発砲事件であった。この発砲事件については、中国侵略を企図する日本軍が最初に撃ったとする説が長い間主流だったが、最近の研究によると中国共産党の策謀であったことがほぼ明らかとなっている。

しかし、日本軍の濡れ衣はいちおう晴れたものの、それでも他国の領土に軍隊を駐屯させていたことに対して、それ自体あきらかな侵略行為であり、非難は免れないとする声がいまも後を絶たない。では、なぜ日本軍は当時そんなところにいたのだろうか。実は、その発端は1901年、義和団事件後に締結された辛丑条約にまでさかのぼる。

当時の中国は、義和団の乱が収束した後も治安の悪化に歯止めがかからず、事実上の無政府状態であった。そのため強盗や殺傷事件が各地で頻発していたのだが、それらを取り締まるべき清朝政府は相変わらず政治的混乱が続いており、独力での治安回復は当分期待できそうもない。そこで、事件後にむすばれた辛丑条約では、治安維持と居留民保護のため外国軍隊の主要都市への駐留が認められることになったのである。

これはある意味、いまのソマリアのようなものだ。ソマリアにはいまも国連軍という名の外国軍が駐留しているが、それに対して侵略だなどと非難する人はほとんどいないだろう。同様に、当時の感覚では中国領内に軍隊を駐屯させるということはいまでいう国連平和維持軍のようなものだったのである。

こうして日本は支那駐屯軍を北京に駐留させることになったわけであるが、当然ながら当時軍隊を駐屯させていたのは日本ばかりではない。他の列強も当時同様に各地に軍隊を駐屯させていたのだということはこの際常識として知っておくべきだろう。

 

 

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