関東軍司令部跡

関東軍司令部跡

日露戦争から満州事変、そして満州国建国と日本の大陸政策の尖兵としての役割をになってきた関東軍。日露戦争以来、その司令部は旅順に置かれてきたが、満州国が建国された後の1934年、ここ新京に移転してきた。

この建物はその新京時代に新築された関東軍総司令部跡である。現在は吉林共産党委員会の建物として使われている。

ヨーロッパ建築と日本の伝統建築をミックスした大陸様式と呼ばれる当時流行したデザインの建物で、戦国時代の城郭を思わせるその形から現地の日本人は親しみと揶揄をこめて「お城」と呼んでいたという。

満州国は日本の傀儡国家だったとして批判されることも多いが、その理由のひとつにこの関東軍による政治介入がある。実際、関東軍司令部は「内面指導」という名目で、満州国の政治を裏からコントロールしていた。満州国建国の立役者であった石原莞爾も日中戦争勃発後、ここに赴任してきた際、この「内面指導」を痛烈に批判したといわれる。

もっとも、そこにはそうしなければならない事情もあった。というのも建国してまもない満州国には、民主的な政治体制に移行するだけの条件が国内的にもまた国際的にもまだ十分整っていなかったからである。

建国したばかりの国家が安定を確保するまでの一定期間、強権体制をしくことは珍しくない。ましてや当時は世界大戦前夜から戦時中という非常に不安定な時期でもあった。

当時実質的な統治能力をもっていた唯一の組織であった関東軍による一定の介入は現実的に考えるならば、やむをえなかったともいえるだろう。

場所は駅前から南へ伸びる斯大林大街沿い。

 

 

 

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