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第二次上海事変戦跡

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1937年8月13日、上海の日本人居住区域を包囲していた蒋介石国民党軍は何の通告もなく突然、日本軍陣地に攻撃をしかけてきた。これを受けた日本政府は同日夜、 松井石根を司令官とする上海派遣軍の派兵を決定。ここに第2次上海事変が勃発することになった。戦場となったのは当初、蘇州河北岸。そこから徐々に閘北、そして上海北郊へと拡大した。上海北郊は無数のクリーク(小運河)が 走る天然の要塞で、進撃する日本軍を悩ませた。戦闘は2か月あまりも膠着状態に陥ったが、柳川兵団が杭州湾に上陸すると中国軍は前線から撤退。ついに上海は日本軍の占領下におかれた。 その後、日本軍は撤退する中国軍を追ってそのまま南京へと侵攻した。第2次上海事変の主な戦跡は次のとおり。

中国国民党がねつ造した宣伝写真
中国国民党が捏造した宣伝写真

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閘北

閘北は、第2次上海事変で最初の本格的な市街戦が行われたところ。なかでも中国軍がたてこもった商務院書館をめぐっては激しい攻防が繰り広げられた。商務院書館は上海北駅と虹口公園を結ぶ宝山路のなかほどにあった。

大場鎮

大場鎮の戦闘
大場鎮の戦闘

「上海戦線の203高地」といわれた大場鎮は第2次上海事変中、最大の激戦地となった場所。 無数のクリークに守られたこの天然の要塞を陥とすため日本軍はその兵力の8割を失った。上海市の西北、北郊駅から西に下がったところ。

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金山衛

杭州湾に上陸した日本軍
杭州湾に上陸した日本軍

上海戦線の膠着状態を打開するため柳川平助中将率いる第10軍が1937年11月5日払暁、 杭州湾北岸の金山衛に奇襲上陸を敢行した。その翌日、上海の蘇州河北岸に高々とアドバルーンが掲げられた。そこには「日軍百万杭州北岸に上陸」と大書されてあり、それを見た中国軍は一気に士気を失い、敗走をはじめた。上海から伸びる金山支線の終着駅。

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(解説)
支那事変の発端は一般には盧溝橋事件とされています。しかし、本当は第二次上海事変とすべきです。なぜなら盧溝橋事件は現地停戦協定の締結によりすでに収束した事件だからです。しかし戦後、左翼歴史家たちはどういうわけかその発端を上海事変ではなく盧溝橋事件であると言って譲りませんでした。なぜでしょうか? 中国側が開戦の火ぶたを切ったことが明らかな上海事変を日中戦争の発端にした場合、「侵略に対抗して立ち上がった中国」という「神話」が成り立たなくなってしまうからです。そのため、彼らはそのはじまりを意図的に盧溝橋事件にまでさかのぼらせたのです。さらにそこでの発砲事件の背景を謎のままにしておくことで、あたかもその首謀者が日本側だったかのような印象操作を行ってきたのです。

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