中国近現代史の旅 日本人のための中国歴史観光ガイド

トップ >テーマ別コース

支那事変(日中戦争)の背景と展開

大長征→西安事件→盧溝橋→一文字山→ 廊坊事件跡→広安門事件跡→通州事件跡→大山勇夫中尉殺害事件跡→上海陸戦隊司令部→上海戦跡→南京虐殺記念館→台児庄戦跡 →徐州会戦跡→黄河決壊跡

大長征

1934年10月江西省の根拠地を追われた共産党は、新たな根拠地を求めて大西遷を開始した。世に言う大長征である。

遵義
遵義会議旧址

瑞金をあとにした中国紅軍第1方面軍は、追撃する蒋介石軍をふりきり1935年1月、 ここ貴州遵義にたどりついた。毛沢東はここで政治局拡大会議の開催を要求。それまでの指導のありかたを 総括する会議が3日間にわたって開かれた。会議では、周恩来の率直な自己批判もあり、博古や オットーブラウンらの戦術上の誤りが決議され、指導権はふたたび毛沢東の手に移ることになった。ここは、 その遵義会議が開かれた建物で、2階建ての洋風建築。会議室は2階にあり、中には参加者の顔写真とともに 当時採択された「包囲討伐戦に関する総括的決議」書が展示されている。旧市街区紅旗路にある。

【関連史跡】遵義滞在中、中共幹部が利用した建物が、市内に残っている。会議旧址から約1キロ離れた新城にあり、 中共中央負責人遵義寓所の名で呼ばれている。2階建ての洋館で、 2階に毛沢東の部屋がある。遵義は貴陽の北約100キロ。

 

石棉県
大渡河

金沙江を渡った紅軍は1935年5月、大渡河の南側安順場に到達した。向こう岸へ渡ろうとした紅軍は、 まず南岸にもやってあった船に先鋒隊を乗せ、対岸へと送り込んだ。先鋒隊は、激烈な戦闘ののち対岸の渡し場を占領。 早速、船を回して主力部隊の輸送にとりかかったが、困ったことに渡し船は3隻しかない。渡河に手間取っているすきに、 蒋介石の空軍が激しい爆撃を加えてきた。やむをえず紅軍は、すでに向こう岸へ渡った部隊 とともに河岸を並行してさかのぼり、濾定橋まで移動することにした。石棉県西部の安順郷にある。

 

延安関連史跡
延安の毛沢東

大長征を終えた紅軍は最初、保安(現在の志丹)に入った。だが、黄土台地にある保安は侵食が 激しく道も狭かったため、1937年1月延安に進駐し、ここを新たな根拠地とした。以来10年以上にわたって、 中国共産党はここを「赤い首都」として支那事変、解放戦争を戦い抜いた。西安の北方、 約250キロの黄土高原の山中にある。「中国革命の聖地」として多くの史跡が残っている。

西安
張学良

西安事件当時、東北軍の将軍 張学良が、官邸として使っていた建物。1932年に建てられたもので、 3階建ての洋風建築。西楼の3階が張学良とその家族の居室で、中楼が応接室と会議室として使われた。東楼は、 事変直後、延安から調停にやってきた周恩来と葉剣英が宿舎にしたところ。なお事変のさい、張学良、蒋介石、 共産党の三者交渉は、中楼で行われた。西安事件紀念館が併設されている。城内東南の建国路69号。

【関連史跡】城内北部、青年路にある「止園」は、張学良とともに事変の立役者となった西北軍の楊虎城将軍 の別荘跡。現在、楊虎城将軍に関する資料が展示されている。

盧溝橋の中国軍

北京の西南郊外、永定河にかかる石造りの橋。かつてマルコポーロが「世界一美しい橋」と旅行記のなかで紹介 したことから別名マルコポーロブリッジとも呼ばれる。1937年7月7日夜、この付近で発生した謎の発砲事件が その後8年にわたる支那事変の導火線となった。日本軍が演習していたのは、盧溝橋からみて京漢線の 向こう側の永定河の東岸。現在、橋のたもとに「盧溝橋資料陳列館」があり、七・七事変当時の中国側の 宋哲元将軍の指揮刀や日本軍の軍刀や砲弾などの遺品が展示されている。市の西南郊外にある。長椿街から 309路のバスで盧溝橋下車。なお最近の研究では、この最初の発砲は中国共産党の劉少奇によるものとする説が有力になっている。

盧溝橋

1937年7月7日、夜間演習中に発砲を受けた日本軍は翌日朝ただちに近くの一文字山を占拠した。ところが この後、再び3発の銃弾が宛平県城内から飛んできた。これに対し、北京の牟田口連隊長は「撃たれたら撃ち返せ」と命令。 ここに日中両軍による本格的な衝突が始まった。戦争中、「支那事変発端之碑」が建立されていた。宛平県の東方、 京漢線盧溝橋駅の南側。

北京に入城する日本軍

広安門事件は、1937年7月26日、居留民保護の名目で北京へやってきた日本軍が、城内へ入ろうとしたさい、 城壁の上から中国兵がいきなり機関銃の掃射を加えてきた事件。和平に向けて動き出していた日本側を牽制し、無理矢理戦争に引きずり込もうとした中国側の策謀であったとする見方もあり、前日に発生した廊坊事件とともに日中全面衝突を不可避とした一連の挑発事件のひとつ。北京の西南、広安門駅の付近。

廊坊

廊坊事件は、1937年7月25日、軍用電線の修理のため当地に派遣された日本軍部隊が、中国軍に射撃され、 両軍の衝突を引き起こした事件。和平に向けて動き出していた日本側を牽制し、無理矢理戦争に引きずり込もうとした中国側の策謀であったという見方もあり、翌日に発生した広安門事件とともに日中全面衝突を不可避とした一連の挑発事件のひとつ。廊坊は 北京と天津との間にある。

通県
通州事件を伝える当時の新聞

1937年7月29日、通州の中国人保安隊3000名が、同地に駐屯していた日本軍守備隊および 日本人居留民をいっせいに襲った。日本人200人あまりが犠牲になったこの事件は、その殺害方法があまりにもむごたらしかったこともあり、これをきっかけに「中国討つべし」の声が日本国内に一気に高まることになった。通州は北京東方、 現在の通県。

大山勇夫中尉殺害事件現場

 1937年8月9日夕、海軍特別陸戦隊の大山勇夫中尉と斉藤要蔵一等水兵が上海西部地区を視察中、 中国の保安隊によって射殺された事件。中国側は大山中尉らが制止もきかずに飛行場に入ろうとしたので やむなく射殺したと証言しているが、現場の状況からみて中国側の説明には矛盾した点が多く、むしろ7月の北京における広安門事件や廊坊事件、通州での日本人居留民虐殺事件に続く中国側による挑発事件のひとつと位置づけられる。現場は虹橋飛行場東南部の越界路の路上。

上海陸戦隊司令部跡

旧日本軍の海軍陸戦隊司令部がおかれていた建物。巨大な戦艦を思わせるビルで、 現在は食料品店や銀行、会社などの雑居ビルとなっている。四川北路を北上し、 魯迅公園の前で東江湾路にはいる交差点にある。

市街戦

1937年8月13日夕、反日感情の高まっていた上海でついに日中両軍の衝突が発生した。同日夜、 日本政府は松井石根を司令官とする上海派遣軍の派兵を決定。ここに第2次上海事変が勃発した。戦場は、 蘇州河北岸から徐々に閘北、そして上海北郊へと拡大した。上海北郊は無数のクリーク(小運河)が 走る天然の要塞で、進撃する日本軍を悩ませた。戦闘は2か月あまりも膠着状態に陥ったが、 柳川兵団の杭州湾に上陸すると中国軍は前線から撤退。ついに上海は日本軍の占領下におかれた。 だが、日本軍は撤退する中国軍を追ってそのまま南京へと侵攻した。

南京
南京虐殺記念館

中国共産党政府の主張によれば、1937年12月、 日本軍は国民政府の首都南京を攻略したさい、無防備の市民を含む中国人を大量殺害したという。ここは、その「事件」、いわゆる「南京虐殺」をテーマにした歴史記念館である。 中国側によれば殺害事件は、市内外あわせて10カ所以上で行われたが、なかでも記念館のあるこの一帯での 犠牲者がもっとも多かったという。建物の正面には「300000」という犠牲者の数字を示すレリーフがはめこまれ、館内には当時撮影されたものという写真や生存者の証言、さらに付近から発掘された人骨が土に埋まったままの状態で展示されている。市内西南の江東門にある。7路バスで茶南小区下車。

徐州
台児庄駅

徐州会戦の前哨戦となった戦い。1938年3月24日、日本軍の瀬谷部隊が台児庄の一角を占領したが、 中国軍は孫連仲部隊を中心にこれを猛攻撃。四面楚歌に陥った瀬谷部隊は4月6日、ついに台児庄から撤退した。 中国軍はこれを「台児庄で大勝利。日本軍敗退」と宣伝。無敵皇軍の神話はここに崩壊した。徐州の東北にある。

徐州
徐州での市街戦

南京攻略後の1938年4月、大本営は蒋介石直系軍の湯恩伯軍をはじめ多くの中国軍が 徐州方面に集結しているのをみて、徐州作戦を発令した。日本軍の編成は、 寺内寿一司令官率いる北支那方面軍と、畑俊六司令官率いる中支那派遣軍(南京虐殺の責任を 問われ解任された松井石根司令官の中支那方面軍に代わり新たに新設された)を主力とし、 それぞれ北支那方面軍は華北方面から徐州をめざし、また中支那派遣軍は南京方面から 北上するというかたちをとった。前哨戦となった台児庄の戦闘では、それまで連戦連勝だった 日本軍が初めて中国軍によって撤退させられるという事態も発生したが、結局、5月19日、 日本軍の手によって徐州は陥落した。ここに華北占領区と華中占領区が結ばれ、 いわゆる南北の打通が実現した。しかし、中国軍は徐州攻略直前、小部隊に分かれて 包囲網をかいくぐり脱出。当初、日本側が企図した包囲殱滅戦には失敗した。

徐州
黄河決壊後の農村

1938年6月、徐州を追われた蒋介石軍は、花園口付近で黄河の堤防を爆破し、日本軍の追撃をかわそうとした。 だが、決壊した部分からあふれ出た水は、奔流となってまたたくまに河南平野全域をのみこみ、 90万人の溺死者を出す惨事となった。その後、解放直前の1947年に決壊部分が修復されるまで、 このあたりは泥土で覆われた不毛の土地となっていたという。現在は灌漑技術がすすみ、 空の青、植樹の緑がコントラストをなす美しい渡し場となっている。鄭州市の北18キロの黄河南岸。

ドキュメント 支那事変

盧溝橋事変勃発

支那事変が起こった盧溝橋

「パン、パン、パーン!」

北京郊外、永定河にかかる盧溝橋付近で夜間演習を行っていた日本軍の頭上に突然、数発の銃声が響いた。「すわ、敵の攻撃か!?」 緊張した日本軍は、いったん演習を中止、点呼を行ったところ兵が一人見あたらない。その後、しばらくして行方不明の兵はひょっこり戻ってくるのだが、時すでに遅し。一連の事件を中国側のしわざとみなした日本軍は翌日ただちに近くの龍王廟付近に拠っていた中国軍に対する攻撃を開始した。1937年7月7日夜から8日未明にかけてのことである。

事件発生の報を受けた日本政府は当初、不拡大派の奔走もあっていったん矛をおさめることに合意。ところが北京で停戦協定が結ばれたその同じ日、戦争拡大派に押しきられた日本政府は突如、強硬姿勢へと転換した。「中国の反省を促す」ためと称して三個師団の派遣を決定したのである。

中国の世論は激昂した。それまで対日妥協を繰り返してきた蒋介石も、盧山での国防会議の席上、有名な「最後の関頭演説」を行い、「万一盧溝橋事件が平和裡に解決されず最後の関頭に立ち至った場合、われわれはいかなる犠牲を払っても国家としての存続を求める」と日本の満州侵略以来、初めて徹底抗戦の構えを示した。

しかしながら、いったん矛をおさめようとした日本が強行姿勢に転じた裏には、中国側のあまり知られていない一連の動きがあったこともここで指摘しておく必要があろう。じつは当時の一触即発の空気に点火したのは、むしろ中国側の方であった。その最初の挑発が、25日から26日にかけて発生した廊坊事件と広安門事件であった。前者は北京と天津の間にある廊坊という駅で起こった両軍の衝突事件であり、後者は居留民保護の名目で入城しようとした日本軍に北京広安門から中国軍が発砲した事件である。日本軍は一連の事件を口実に中国軍の北京からの撤退を要求。それが容れられないと見た28日早朝、日本軍はやむをえず戦端を開いたというのが真相である。

第二次上海事変と南京陥落

華北で燃え上がった戦火は、やがて中国最大の都市上海へと飛び火した。きっかけとなったのは、海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が8月9日、中国保安隊によって射殺された事件である。当初、日本側はこれを外交交渉で解決しようとしたが、今度は大前憲兵軍曹が中国保安隊に拉致される事件が発生するにおよんで日本政府は、松井石根大将を司令官とする二個師団の上海派遣を決定。続く15日には「支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省を促す」という声明を発表、事実上の宣戦布告を行った。

一方、蒋介石側も14日に「抗日自衛宣言」を発表、日本に対し全面対決の姿勢をあらためて鮮明にした。さらに同月22日には、紅軍の一部を国民革命軍第八路軍に改編することを公布。ここに2年前の「八・一宣言」以来、中国共産党および中国国民の宿願であった統一戦線の結成ーー第二次国共合作は実を結んだのであった。

当初、松井大将を司令官とする上海派遣軍の目的は「上海付近ノ敵ヲ掃滅」することとされ、その作戦地域もせいぜい蘇州、嘉興あたりまでと限定されていた。ところが、日本軍はこの中央命令を無視し、敗走する中国軍を追って北上、中華民国の首都南京へと向かった。満州事変以来、日本軍の「伝統」となった「現地軍の暴走」である。

南京への総攻撃が開始されたのは、冬も押し迫った12月10日のことだった。これに対し、首都防衛の任にあたったのは、唐生智将軍率いる約10万の中国兵。かれらは、城外の雨花台や紫禁山に堅固な陣地を築き、果敢に日本軍を迎え撃った。だが、「南京一番乗り」を争う日本軍の士気は高く、中国軍はしだいに守勢一方に立たされる。やがて12日の朝、雨花台と紫禁山が陥落、さらに同日の午後には日本軍の一部隊が中華門西方の城壁を越えて城内へと乱入すると中国軍はたちまち算を乱して壊走。なだれを打つように背後の揚子江へと逃れた。

翌13日、城内に進駐した日本軍は国民政府庁舎に日章旗を掲揚。ここに中華民国の首都南京は、日本軍の占領下に入ったのである。

この際、いわゆる「南京虐殺」が発生したと中国側は主張しているが、虐殺の定義が曖昧であること、また犠牲者数が過大すぎたり、証言のみで物証がほとんどないこと、さらにそのような「虐殺行為」が果たして本当に日本軍によるものなのか、あるいは中国軍伝統の置き土産である暴行略奪によるものなのか判別しがたいことなどから、その存在をめぐってはいまも議論が続いている。

徐州陥落と武漢・広東攻略作戦

だが、日本軍が入城した時にはすでに重要な政府機関は長江上流へ移された後だった。そのため日本軍は、翌年4月再び戦線を拡大する。今度の目標は中国軍主力が集結していた徐州である。それを包囲殱滅させ、華北と華中の占領地域をひとつにつなげようというのが日本軍のねらいであった。4月下旬、日本軍は、北と南から徐州めざして進軍を開始した。「徐州、徐州と人馬は進む…」と軍歌にもうたわれた有名な麦秋の行軍である。中国軍の激しい抵抗に遭いながら徐州包囲網をしいたのはすでに5月中旬だった。だが、日本軍はここでも見事に肩すかしを食らう。蒋介石は無駄に兵力が失われるのをおそれ、中国軍に撤退を命じたのである。中国軍が機動退却したあとの5月20日、日本軍は徐州を占領した。だが、南北の占領地をつなげることには成功したものの、中国軍主力を殱滅させることは今度もできなかった。

徐州における中国軍の戦略的撤退を「戦意喪失によるもの」とみなした日本軍は、性懲りもなく再び戦線を拡大する。今度の目標は、新たな首都と目されていた中原の要衝、武漢とその対外補給ルートとみられた広東であった。

8月22日、大本営が「武漢攻略」の大命を下すと総勢30万にのぼる攻略軍は、いよいよ進撃を開始。攻略軍は第11軍と第2軍とに分かれていたが、このうち第11軍はさらにふたつに分かれ、揚子江の南北岸を遡行しつつ、上流の武漢へと迫った。また第2軍は大別山の北側をぐるりと迂回する形で北方から武漢をうかがう姿勢を示した。途中、中国側の激しい抵抗とマラリアという思わぬ伏兵に悩まされ、日本軍は予想以上に大きな損害を被った。だが、9月下旬、第11軍の主力が馬頭鎮、田家鎮といった要衝を制圧すると戦局はしだいに日本側優位に傾いてくる。その後、10月25日、第11軍の一部隊が武漢に到着すると、中国軍は早々と撤退を開始。ここに武漢は事実上、陥落したのである。しかし、占領した武漢は、またもやも抜けのからであった。すでに蒋介石は、武漢陥落直前、さらに奥地の重慶に拠点を移し長期戦の構えを整えていたのだ。

一方、台湾沖の澎湖群島を船で出発した広東攻略軍は、10月12日深夜、月明かりの中をバイアス湾に上陸。めざす広州へ向けて西進を開始した。広東への上陸は中国側にはまったく予想外のことだったらしく、日本軍はこれといった抵抗を受けることもなく破竹の勢いで進撃。武漢陥落に先立つ10月21日に、広州はあっけなく陥落してしまったのである。

対外補給ルートの八割近くを占める広東の陥落は、さすがに蒋介石にとっても大きな打撃であった。だが、同時にそのとき日本の動員力はすでに限界に達しており、内地には近衛師団を残すのみとなっていた。しかも、日本軍が占領したのは、都市とそれを結ぶ交通戦、いわゆる「点と線」だけで、そのまわりに広がる広大な農村地帯はほとんど手がつけられないままだった。

その年の5月、延安にいた毛沢東は、『持久戦論』を発表し、支那事変の現状と見通しを明らかにした。それによれば、支那事変は、中国側からみて戦略的防御、戦略的対峙、戦略的反攻の三つの段階に分けられ、戦局はもうすぐ対峙段階へと移行すると主張した。

武漢・広東の陥落は、まさに対峙段階に入ったことを示すものであり、事実、その後の戦局は毛沢東の予言通りに推移したのである。

和平工作とその挫折

現地軍が戦線を拡大するかたわら日本政府部内では、和平工作をめぐってあわただしい動きが続いていた。時の近衛内閣はすでに盧溝橋事件の直後から、右翼浪人宮崎龍介(孫文の盟友宮崎滔天の息子)らを使って和平交渉を試みたが、いずれも失敗に終わっていた。その後、新たな仲介役として和平派の期待を担って登場してきたのが駐華ドイツ大使トラウトマンである。

1937年11月5日、トラウトマンは日本側の停戦条件を蒋介石に伝達、蒋介石はこれを基本的に了承した。ところが、その後、南京が陥落するや日本政府部内には強硬論が続出、それまでの条件は次々と加筆され、最終的には中国をほとんど日本の植民地とみなす内容となってしまった。当然ながら蒋介石はこれを拒否。ここにトラウトマンによる和平交渉も打ち切られてしまった。

和平工作に失敗した日本政府は1938年1月16日、「帝国は爾後国民政府を対手とせず。新興支那政権の成立発展を期待する」という第一次近衛声明を発表。和平交渉の道を閉ざす一方、北京の中華民国臨時政府、南京の維新政府などもっぱら現地軍によって樹立された傀儡政権の強化・育成に力を注いだ。

だが、その年の秋、武漢、広州を占領したものの、これ以上の武力解決は不可能とみた日本政府は11月3日、第二次近衛声明を発表して、再び政治解決の道を求める。この声明では、「日本の求めるところは東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設である」と初めて戦争目的を明らかにするとともに「国民政府といえども従来の政策を一掃し、人的構成を改替して更生の実をあげ、新秩序の建設に参加するならこれを拒否しない」と先の「国民政府を対手にせず」とした第一次近衛声明を撤回した。 そのころ、重慶の国民政府部内には抗日政策をめぐってふたつのグループが対立していた。一方は、蒋介石を筆頭とするグループであり、かれらは「焦土抗戦」による戦争継続を主張していた。これに対し、汪兆銘を主班と仰ぐグループは日本軍の進攻とそれに伴う解放区の拡大に危機感を抱き、「このままでは中国は中国共産党に乗っ取られてしまうか、あるいは日本軍に完全に制圧されてしまう」として反共・対日和平を訴えた。

両派の対立が決定的となった12月8日、汪兆銘は数名の部下とともに重慶からベトナムのハノイに脱出。日本政府の「東亜新秩序」声明に呼応するように重慶政府に対し、日本との和平を呼びかける電報を打った。汪らの当初の計画によれば、雲南や四川、広西などの西南軍閥がこれに応じて蒋介石からの独立を宣言、その地に汪兆銘を主班といただく新たな国民政府を樹立するつもりであった。しかし、この汪兆銘の「艶電」に応ずるものはほとんどなく、国民党の大物汪兆銘を担ぎ出した和平工作は失敗に終わった。

支那事変から太平洋戦争への拡大

支那事変の当初、アメリカは一方で蒋介石政府に同情を示しながら、もう一方では日本へ大量の軍需物資を輸出するなど両国の共倒れを狙った二面政策をとっていた。ところが、中国大陸における日本のプレゼンスが増大するにしたがい、危機感を抱いたアメリカは欧州における国際情勢の変化もあって、しだいに対日強硬姿勢へと転換していく。

強硬姿勢に転じたアメリカが日本に加えた最初の大きな一撃は、1939年7月の日米通商条約の更新拒否通告であった。当時、日本は軍需物資のかなりの部分をアメリカからの輸入に頼っており、それが禁輸されるとなれば戦争遂行上、大きな支障を来たすことは明らかであった。

日本側はあわてた。しかし、アメリカの姿勢は強硬であり、アメリカからの輸入が期待できないとなると、当然どこか他のところから調達しなければならない。そこで浮上してきたのが南進論である。すなわちインドシナ半島やインドネシアなど、資源の豊富な東南アジアを押さえ、そこを後背地として中国を封鎖すればよいという考え方であった。おりしも欧州では、ナチスドイツの電撃的な勝利によってフランスが降伏、オランダなども窮地に立たされ、その植民地である東南アジアはいわば空白の状態となっていた。こうした中、1940年9月、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結ぶとともに北部仏印へと進駐。さらに翌年7月には欧州における独ソ戦開始と歩調を合わせるように南部仏印への進駐を開始した。

これに対し、アメリカはついに最強硬手段に踏み切る。すなわち在米日本資産の凍結と石油を含む対日全面禁輸を発動したのである。同時にアメリカはイギリス・中国・オランダを誘い、いわゆるABCD包囲陣を結成。日本の南方進出を阻止しようとした。この間、日本はなおも外交交渉によって局面の打開をはかろうとしたが、米国務長官ハルが「中国を満州事変以前の状態に戻すべし」という最後通告(ハルノート)を突きつけると日本政府は交渉による解決の途を断念。もはや開戦あるのみとして12月8日、ついにアメリカ、イギリスに対する宣戦を布告した。

ハワイの真珠湾を奇襲攻撃した日本軍は、そのまま香港、フィリピン、マレーシア、シンガポール、インドネシアと電撃的に進攻。さらにビルマ(現ミャンマー)とソロモン諸島を陥し、またたくまに太平洋を含む広大な南方諸地域を占領下に置いた。しかし、緒戦の勝利に沸いたのはわずか1年ほどだった。

1942年6月、陣容を建て直したアメリカ太平洋艦隊が、ミッドウェー沖で日本の連合艦隊を駆逐。「真珠湾を忘れるな!」を合言葉に太平洋における制海権と制空権の奪回に成功した。さらに翌年2月には、ガタルカナル島上陸作戦を敢行、激戦のすえ同島に拠る日本軍を撤退させた。以後、日本は太平洋上の拠点を次々と失い、44年7月にはサイパン島が陥落。アメリカ軍はそこを基地に連日のように日本本土への空襲を繰り返した。

南方と本土を結ぶ海上ルートが遮断された日本は、北京からハノイを結ぶ陸上輸送路の確保と中国にある連合軍基地を叩くことを目的に1944年5月、大陸打通作戦と呼ばれる最後の大作戦を展開した。これに対し、正面からの衝突を避ける国民党軍が戦うことなく敗走したため、一応輸送路の南北打通には成功したかに見えた。だが太平洋戦線における日本側の劣勢は覆うべくもなかった。大勢はすでに決していたのである。

この時期、軍内の一部にはまだ「本土決戦」「一億玉砕」を唱える強硬派もいたが、8月6日と9日、広島と長崎にアメリカ軍によって原爆が投下され、北方からはソ連軍が満州国境を越えて参戦してきた。そうした中、日本政府は8月15日、ついにポツダム宣言を受諾。連合国に対して無条件降伏を表明した。同時に足かけ9年におよんだ支那事変もここに終わりを告げたのであった


中国ホテルをもっと安く!日本語予約OK!
日中戦争は誰が引き起こしたのか?

中国歴史(近現代史)観光ガイドPAGE TOP