共産党の成立と発展

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中国共産党の成立と発展

北京大学紅楼→陶然亭公園→ 湖南第一師範陳列館→中国共産党第一次全国代表大会会址→嘉興中共一大会址→安源労働運動記念館→国民党一大会址→広州農民運動講習所旧址→ 三山会館→八一南昌起義総指揮部旧址→八七会議会址→井崗山革命博物館→中華ソビエト臨時政府大会堂→遵義会議旧址→大雪山→延安革命紀念館

 

 

北京大学紅楼
北京大学を出発する五四運動のデモ隊

北京大学の旧校舎のひとつ。赤レンガ造りのため通称紅楼とも呼ばれる。辛亥革命後、中国共産党の創設者・李大釗が ここで図書館主任をつとめていた。また同じころ毛沢東も李大釗の下で働いていたことがあり、現在「毛主席在校工作処」 および「李大釗記念堂」として一般公開されている。ちなみに1919年の五四運動の際、天安門へむかう学生たちが デモ行進を開始したのはここの北側広場で、現在、民主広場と称されている。天安門の東北、中国美術館の近く。 市内東城区五四大街29号。

 

 

陶然亭公園
パリ在住の中国人留学生が
発行した政治改革を訴えるパンフレット

永定門西街にある陶然亭公園は1920年、周恩来と李大釗の呼びかけによって当時の5つの急進的な政治団体が集まり、 『連合改造の宣言』を発表した場所として知られている。これは、翌年の中国共産党創設を準備する上で大きなステップと なった出来事であった。またこの陶然亭公園は戊戌維新のさい、康有為、梁啓超、譚嗣同らが変法の方策を練った場所でも ある。前門大街を南へ下って、永定門西街を突き当たったところにある。

 

 

湖南第一師範陳列館
長沙

毛沢東の母校・湖南第一師範学校跡に設けられた歴史記念館。17歳で故郷の湘潭から長沙に出てきた毛沢東は、 いくつかの学校を転々とした後、20歳の春この湖南第一師範学校に入学した。毛沢東はここで、終生の師となる 楊昌斎や最初の同志である蔡和森と出会い、革命家としての第一歩を踏み出した。のちに毛沢東は「わたしは大学 に行ったことがないし、外国で学んだこともない。わたしの知識と学問の基礎は、第一師範学校できずかれました」 と回想しているようにその思想を培い、その生涯を決定づけたのはまさにこの学校であった。館内にはかつて毛沢東が 学んだといわれる教室や自習室、さらに寄宿舎や新聞閲覧室などが残っている。なかでも興味深いのは、 自習室に展示されている「倫理学研究」という本。中は毛沢東の自筆による書き込みでびっしり埋められており、 若き日の毛沢東の勉強ぶりがしのばれる。市内五一広場の南、橘子洲を臨む湘江沿岸。【関連史跡】長沙時代の毛沢東が蔡和森らと創設した革新的な学生団体、新民学会の旧址が、 湘江の対岸、岳麓山の麓、新民路にある。

 

中国共産党第一次全国代表大会会址
中国共産党第一次全国代表大会会址

五四運動後、各地に誕生した中国の共産主義者グループは、1921年7月、その代表を上海に送り込み、全国的な統一組織 である中国共産党を正式に発足させた。ここはその代表大会が開かれた場所で、当時のフランス租界にある。出席したのは コミンテルンのマーリンはじめ張国熹、董必武、李漢俊、周仏海中国内外の共産主義者12名。そのなかには湖南代表 として若き日の毛沢東の姿もあった。会議では、まず各地の活動状況をそれぞれ報告した後、全会一致で中国共産党の 設立を決議。さらに今後の活動方針について話し合った。だが、4日目に密偵に探知されたため討議を一時中断、 メンバーはただちに裏口から逃走した。その後、会議は浙江嘉興県に移され、再び討議が続けられた。旧址内は、 のみかけの茶碗がそのままテーブルの上に置かれており、当時の様子が生々しく再現されている。また中国共産党誕生の 歴史的背景などに関する資料も数多く展示されている。興業路76号。淮海公園と復興公園のちょうど真ん中に位置し、 興業路と黄陂南路の公差点にある。

 

 

嘉興中共一大会址
嘉興

中国共産党第1次全国代表大会が開催された場所。1921年7月、上海で開かれた中国共産党第1次全国代表大会は途中、 密偵にかぎつけられため中断。議場をここ嘉興の南湖に浮かぶ船上に移して再開された。現在、南湖の湖心島に模造の 革命記念船が浮かべられ、船内も当時の様子がそのまま再現されている。また南湖の東北湖畔、児童公園のとなりに 南湖革命記念館があり、中国共産党創立大会に関する多くの文物資料が展示されている。南湖は、嘉興駅の裏側にある。

 

 

安源労働運動記念館
萍郷

中国共産党が結成された1921年の秋、毛沢東と劉少奇らは江西の安源鉱山にはいって、労働運動の組織化を始めた。 翌年9月、労働者たちは大規模なストライキを引き起こし、賃金の増額や労働組合の承認など多くの要求を勝ち取った。ここは、 その安源における歴史的なストライキ闘争を記念して建てられた記念館で、館内には当時の毛沢東や劉少奇らの足跡を示す文物や ストライキ闘争に参加した労働者たちの遺品などが数多く展示されている。古ぼけた遺品からは、当時の炭鉱労働の悲惨さとともに、 ストライキに立ち上がった労働者たちの高揚感が伝わってくるようだ。南昌の西南省境にある萍郷市の東方、安源鉱区安源山 のふもと。【関連史跡】記念館の向かい側には、当時、労使双方が交渉をおこなった「談判大楼旧址」がある。また 近くの半辺街には「安源労働者クラブ旧址」などがある。

 

 

国民党一大会址
広州
国民党一大会址

1924年1月20日、中国国民党第1次全国代表大会が開催された場所。出席したのは、個人の資格で参加していた 毛沢東や李大釗など共産党のメンバーをふくむ165人。大会では、孫文の「三民主義」とともに「連ソ・容共・扶助工農」 の3大政策が採択され、ここに第1次国共合作が正式に成立した。この際、中央執行委員24人のうち李大釗ら3人が、 また候補委員17人のうち毛沢東ら7人が共産党員として選出された。なお会場となったのは、広州大学の講堂で、 のちに広州大学の文学部主任となった魯迅がその2階に住んでいた関係で、魯迅紀念館が併設されている。文明路と 越州中路の交差点角にある。

 

 

広州農民運動講習所旧址
広州
広州農民運動講習所旧址

第1次国共合作後に創設された農民運動講習所の跡。農民運動講習所は、農民運動の指導者を育成する目的で つくられた共産党系の学校で、1924年7月の発足。全国20省から集まった327人の卒業生はその後、 各地で農民暴動をひきおこしたり、また兵站を受け持つなど北伐戦争の進展に大きな役割をはたした。初代所長は彭湃で、 のちに毛沢東が引き継いだ。市内東部、中山四路にある。1、22路バスで大東門下車。

 

 

三山会館
三山会館

1927年の蒋介石による反革命クーデターの際、労働者側の拠点のひとつとなった場所。同年3月21日、 上海の労働者は周恩来ら中国共産党の指導で一斉に蜂起。それまで上海を牛耳っていた軍閥の孫伝芳を追い払い、 労働者を主体とした上海臨時特別市政府を樹立した。その際、労働者糾察隊滬南総部の拠点となったのがこの建物で、 もとは福建の同業組合会館として使われていた。しかし4月12日、革命を裏切った蒋介石軍によって攻撃され、 たてこもっていた多くの労働者が犠牲となった。南浦大橋の南、中山南路沿いにある。

 

 

八一南昌起義総指揮部旧址
南昌
八一南昌起義総指揮部が置かれた南昌旅社

1927年8月1日、共産党は、蒋介石の反革命クーデターによって中断した国民革命(実は共産革命)をやり直すため、 南昌で独自の武装蜂起をこころみた。ここはそのさい周恩来、朱徳、賀龍らが前線総司令部をおいた建物で、 当時南昌一の規模を誇ったホテル、江西大旅社のなかにある。館内には、総指揮部がおかれた喜慶堂をはじめ 周恩来の執務室や医務室などが復元され、展示コーナーでは八一蜂起の歴史を体系的に紹介している。なお 八一蜂起は、中国共産党がみずからの軍隊を持った記念すべき戦いでもあり、現在中国ではこの日を建軍節 として祝っている。中山路265号。八一公園の西にある。2路のバスで「洗馬池」下車。

 

 

八七会議会址
武漢

蒋介石の反革命クーデターによって第1次国共合作が終わりを告げた1927年8月7日、 中国共産党は臨時拡大会議(八七緊急会議)を開いた。会議では、国共合作失敗の原因は、 総書記である陳独秀の右翼日和見主義路線にあるとして陳独秀を解任。代わりに瞿秋白を総書記 とする新しい指導部を選出した。さらに土地革命と武力闘争を今後の方針として採択。湖南・湖北・江西・ 広東四省で秋収蜂起を行うことを決定した。また、毛沢東が「政権は銃口から生まれる」 と発言したのはこの会議である。武漢市の漢口のバン陽街139号。

 

 

井崗山革命博物館
井崗山

1927年10月、秋収暴動に失敗した毛沢東は、残存部隊とともに井崗山に「農村ゲリラ根拠地」を設営した。 だが、これは毛沢東にとってもひとつの実験であった。というのも、当時の共産党中央の主流は、 教条的マルクス主義にこりかたまっており、かれらにいわせれば、革命軍の中核を都市労働者に求めず、 プチブルジョア階級である農民に求めることは、重大な逸脱とされたからである。だが、 その「農村によって都市を包囲する」という毛沢東の特異な農村根拠地理論こそが、 最終的に中国革命を成功に導いた原動力となったことはその後の歴史が示す通りである。後年、 毛沢東は「星星之火可以燎原」という言葉を好んで使ったが、まさにその言葉の通り、 ここ井崗山に灯された小さな火はやがて中国全土で革命の炎となって燃え上がったのである。現在、 博物館内に保管されている文物資料はおよそ7000点。展示は「秋収蜂起と井崗山への進軍」「井崗山の闘争」 「星火燎原」の3つに大きく分けられ、井崗山での闘争の歴史と中国革命におけるその意義がわかりやすく 解説されている。奥深い山中ながら、興味のある人や研究者にとっては苦労して登るだけの価値はある。 井崗山市内。

【関連史跡】北面の丘に革命烈士陵園と記念堂がある。また博物館の近くに毛沢東と朱徳が住んだ旧居がある。

 

 

中華ソビエト臨時政府大会堂
瑞金県
瑞金の中華ソビエト臨時政府大会堂

1931年秋、中国共産党中央は各地のソビエト地区の代表を江西瑞金に集め、 毛沢東を主席とする中華ソビエト臨時共和国を樹立した。広大な中国全土からみれば、 人口わずか数百万たらず、しかも境界線すら流動的な、いわば“おもちゃ”のような共和国であったが、 独自の教育制度や貨幣制度も兼ね備えるなど、一応国家としての基本的な体裁は整っていたという。 ここは、その中華ソビエト共和国の中央政府が置かれた場所で、共和国の樹立を宣言した記念すべき 第1回全国ソビエト代表大会が開催された会議場(その後、中央政府として使われた)跡をはじめ、 毛沢東や朱徳らの旧居など多くの旧址が残されている。中華ソビエト政府はその後、 5回にわたる国民党による包囲攻撃をうけ、1934年10月に陝西をめざし長征に出発するまでの 約3年間存続した。なお葉坪にあった政府機関は、33年4月、近くの沙州覇に移転された。瑞金県県城東北の 葉坪村にある。瑞金は、江西の東南、福建との境にある。

 

 

遵義会議旧址
遵義
遵義会議旧址

瑞金をあとにした中国紅軍第1方面軍は、追撃する蒋介石軍をふりきり1935年1月、 ここ貴州遵義にたどりついた。毛沢東はここで政治局拡大会議の開催を要求。それまでの指導のありかたを 総括する会議が3日間にわたって開かれた。会議では、周恩来の率直な自己批判もあり、博古や オットーブラウンらの戦術上の誤りが決議され、指導権はふたたび毛沢東の手に移ることになった。ここは、 その遵義会議が開かれた建物で、2階建ての洋風建築。会議室は2階にあり、中には参加者の顔写真とともに 当時採択された「包囲討伐戦に関する総括的決議」書が展示されている。旧市街区紅旗路にある。

【関連史跡】遵義滞在中、中共幹部が利用した建物が、市内に残っている。会議旧址から約1キロ離れた新城にあり、 中共中央負責人遵義寓所の名で呼ばれている。2階建ての洋館で、 2階に毛沢東の部屋がある。遵義は貴陽の北約100キロ。

 

 

大雪山
大雪山

1935年6月、万年雪をいただくチェン峡山脈にさしかかった長征軍は、これまで誰も試みたことのない 大雪山越えを行った。最大の難所は、海抜4000メートル級の夾金山。紅軍は、ほとんど防寒装備を持たず、 大勢の兵士が凍死した。「大雪山越えは長征の大きな試練であった。風雨や氷やひょうが耐えず、 紅軍を襲った。数百の同志が倒れて2度と起き上がらなかった。しかし、 紅軍はその屍を越えて前進した!(毛沢東)」。チェン峡山脈は、四川成都の西方に南北に横たわっている。

 

 

延安革命紀念館
延安
延安革命紀念館

延安時代の革命資料を展示した歴史記念館。館内には、支那事変中、日本軍からろ獲した武器をはじめ、 長征中の食料となった野草、大生産運動の際に使われた農具や紡車など、苦難の時代をしのばせる数多くの 遺品が展示されている。また西側ホールには、1947年3月、侵攻してきた国民党軍をかくらんするため、 中国共産党中央が延安を撤収してから翌年4月延安にもどるまでの転戦経過を、ランプと音声で詳しく 説明してくれる戦場模型がある。戦地医療に挺身したカナダ人医師ノーマン・ベチューンや、「中国の赤い星」を 著わしたジャーナリスト、エドガー・スノーら、革命を支援した外国人に関する資料も豊富に展示されている。 市内西北、清涼山の西の王家坪にある。

【関連史跡】記念館の東隣は、中央軍事委員会および八路軍総司令部の旧址。毛沢東や朱徳、彭徳懐の 葉剣英らの旧居も残っている。

 

五四運動

1919年1月、パリのベルサイユ宮殿で第1次世界大戦の講和会議が始まった。会議が始まると中国民衆は当初、その結果に大きな期待を寄せた。 戦勝国の一員である中国は、敗戦国ドイツが山東に持っていた権益を回復し、日本の21か条要求も撤廃できるに違いないーー知識人をはじめ誰もがそう信じ、 人々の間には将来を楽観する空気が満ちあふれていた。

五四運動だが、採択された決議はそうした中国民衆の期待を無残にも打ち砕くものであった。 講和会議は中国の要求を拒否、ドイツの山東における権益は中国へは返還せず、そのまま日本に譲渡することが決定されたのである。

この報を聞くや激昂した北京の大学生たちは5月4日、天安門に集結して抗議集会を開いた。参加したのは、北京大学以下、十余の大学、 専門学校の学生約3000人。かれらは、「条約調印拒否」「売国三官僚の罷免」を口々に叫びながら東交民巷の公使館区域へ向けてデモ行進を始めた。 だが、治外法権を盾に官憲から立ち入りを拒否されると、デモ隊は方向を転じて親日派官僚の曹汝霖邸に乱入した。曹汝霖は、 21ヵ条交渉の責任者で、西原借款の窓口ともなった親日派の官僚である。曹汝霖は、妻のベッドの下に隠れ、危うく難を逃れたが、 デモ隊はたまたま居合わせた同じ売国官僚の駐日公使章宗祥を殴打、曹汝霖邸に火を放って気勢をあげた。この日、32名の学生が逮捕された。

だが、 翌日になると学生らは各学校で次々にストライキを打ち、逮捕学生の釈放を要求、さらに市内へ出て、日本商品ボイコットを呼びかけるなど 抗議行動は逆に活発化した。驚いた北京政府は7日、逮捕学生を釈放したが、運動はおさまる気配を見せず、8日、9日の国恥記念日(中国が、 日本の21ヵ条要求に屈した日)を契機にいっそう拡大する様相すら示した。追いつめられた政府は、再び弾圧の挙に出た。だが、 これが国民の怒りにいっそう火をつけることとなった。学生の大量逮捕に抗議して上海や天津をはじめとする全国主要都市で労働者や 商人が立ち上がったのである。窮地に立たされた政府はついに要求をのみ、8日には逮捕学生を釈放、10日には「売国三官僚」の罷免を発表した。 またパリ講和会議に出席していた中国代表は売国奴といわれるのをおそれ、条約の調印を拒否した。ここに五四運動は勝利のうちに終結したのである。

中国共産党の誕生

中国共産党五四運動が起こった1919年と並んで1921年という年も、中国の歴史にとって忘れられない年となった。この年7月、 記念すべき中国共産党第1次全国代表大会が上海のフランス租界で開かれたのである。出席したのは、コミンテルン代表マーリンはじめ張国燾、 李達、陳公博、董必武など全国各地から集まった初期の共産主義者たち13名。なかには湖南代表として参加した若き日の毛沢東の顔もあった。

だが、会議が始まって5日目。突然、見知らぬ男がドアを開け「失礼、家を間違えました」といって立ち去った。ただならぬ気配を察した マーリンはただちに散会を指示。その直後、フランス人警官の率いる租界警察が踏み込んだ時、現場は飲みかけの茶碗を残しすでにも抜けの殻となっていた。

間一髪で難を逃れた共産主義者たちはその後、会場を浙江嘉興へ移し、南湖に浮かぶ船上で議事を再開した。 この南湖会議では中国共産党の創設を正式に決議、陳独秀を初代総書記に選出した。さらにプロレタリア独裁の基本方針を採択し、 ただちに革命党として労働運動の組織化に乗り出すことを決定した。決議を受けて毛沢東と李立三らは湖南の安源炭坑へ、 また張国燾と鄧中夏らは京漢鉄道へと向かい、それぞれ労働組合づくりに着手することになった。

しかし労働運動工作がようやく軌道に乗り始めた翌年3月、マーリンは陳独秀ら党の指導部を杭州西湖に集め、中共党員が国民党に入って 活動するいわゆる「党内合作」を勧告した。これは先のコミンテルン第2回大会で決議された「統一戦線」路線を受けたものであったが、 労働者の絶対数が少なく党員も全国でせいぜい200名程度という現状を考えた場合、やむをえない措置といえた。

陳独秀ら指導部は当初、これに反対したが、翌年2月に起こった軍閥呉佩孚による京漢鉄道ストの弾圧(二・七惨案)をきっかけに、 労働運動だけで帝国主義や軍閥のむきだしの暴力と闘うことの困難さを悟り、やがて党内合作を受け入れた。

第1次国共合作

そのころ、「統一戦線」路線を掲げるコミンテルンは、国民党の指導者孫文にも国共合作を働きかけていた。おりしも、 五四運動やロシア革命の成果をみて「民衆の力」に目覚めつつあった孫文は23年1月、亡命先の上海でソ連特使ヨッフェと会談。 中ソ両国が革命のため互いに協力しあうことを約束した共同声明を発表した。声明発表の翌月、広州へ戻って大元帥府を成立させた孫文は、 ボロディンらソ連の軍・政顧問を招聘し、共産党との合作を中心とした国民党の改組に取りかかった。翌年1924年1月、 改組なった国民党の第1回全国代表大会が広州で開催された。大会では、「三民主義」とともに「連ソ・容共・扶助工農」の三大政策が掲げられ、 ここに国共合作が正式に成立した。

国民党改組後の国民党がもっとも力を入れたのは、独自の軍隊をつくることであった。 実は意外に思えるかもしれないが、孫文はこれまで一度も自分の軍隊を持たなかった。辛亥革命でははじめ会党(民間秘密結社)に頼り、 のちに新軍に頼った。さらに第2次・第3次革命戦争では、軍閥に頼って別の軍閥を討とうとした。だが、 それらがいずれも失敗に終わった苦い経験から自前の軍隊が必要だと痛感したのである。そこでソ連赤軍のボロディンらのすすめもあり、 黄埔軍官学校を創設。ここにはじめて孫文は組織的に訓練された真の革命軍を持つことになったのである。 ちなみにその校長となったのは蒋介石であり、政治委員長となったのは周恩来であった。

一方、共産党主導の下で進められたのが、労働運動と農民運動の組織化であった。なかでも大きな成果は、 澎湃らによって設置された農民運動講習所である。農民運動講習所は、農民運動の指導者を養成する機関だが、 澎湃らはそこを拠点に農民協会や武装自衛団づくりに努めた。その結果、1926年初頭には広東内だけで 農民協会員62万人、武装自衛団3万人を擁するまでに組織を拡大したという。

北伐戦争と国民革命

1924年11月、第2次奉直戦争を機に孫文は「北上宣言」を発し、北京へと向かった。軍閥抗争をやめ、各団体や政党、 軍などからなる「国民会議」の設立を呼びかけるためである。ところが、途中、病を得た孫文は翌年3月には不帰の客となってしまう。 孫文の死はいったん盛り上がりを見せた「国民革命」運動にとって大きな打撃となった。運動はそのまま退潮に向かうかに見えた。 だが、それを救う事件が翌年5月に持ち上がった。世に言う五・三〇運動である。上海のストライキをめぐる 中国人労働者惨殺事件に端を発したこの運動は、やがて反帝・反軍閥の民衆運動として広東、香港にも飛び火。 国民党政府の所在地である広州でも連日、大規模なデモが繰り広げられた。こうした民衆運動の高まりを背景に 蒋介石率いる国民党軍は、広東に盤居していた軍閥の反乱を平定。民衆の衆望を担って7月1日、 汪兆銘を主席とする広東国民政府を樹立した。そして、五・三〇運動の余波がくすぶる翌年7月、国民政府は「北伐出帥」を宣言。 北方の軍閥を打倒する北伐戦争を開始したのであった。北伐軍は、行く先々で民衆の歓迎を受けた。 それどころか農民や労働者は北伐軍に積極的に協力し、道案内から食料・弾薬の輸送、さらに暴動やストライキによる後方かく乱まで行った。 そのため北伐中国共産党農民運動軍は破竹の勢いで北上し、10月には武漢を、11月には南昌や九江を陥すことができた。 もちろんこうした民衆の支援の裏に共産党の指導があったことはいうまでもない。しかし、 一部には武力によって地主の土地を没収したり、なかには郷村革命政権を樹立するところまであらわれた。 毛沢東は『湖南農民運動視察報告』のなかで、こうした農民たちの革命的エネルギーを手放しで賛辞したが、 中共中央は国共合作路線を破壊するものとしてこれを危険視した。そしてこうした中共中央の危惧は、 やがて現実のものとなるのである。

そのころ国民党内部における左右両派の対立は頂点に達していた。北伐軍が武漢を占領したあと国民政府は武漢への移転を図ろうとしたが、 これを中共による権力奪取の陰謀とみた蒋介石は南昌移転を主張。しかし先に武漢に着いていた ボロディンらは27年3月1日、正式に武漢国民政府の樹立を宣言した。こうして右派蒋介石グループと汪兆銘ら 中共・国民党左派による左派グループの対立は決定的となった。

一方、「赤い武漢」の成立によって、 企業主や銀行家など多くの資本家が逃げ出したため武漢には失業者があふれ、さらに流入してきた大勢の軍隊や難民のせいで、 長江流域全土が急速な物価騰貴と深刻なインフレに悩まされた。今やブルジョア層はもとより小市民層までが混乱の原因を大衆闘争の行き過ぎに帰して、 労働者糾察隊や農民自衛軍の解散を要求するようになっていた。

上海クーデターと国民革命の挫折

蒋介石は、こうした中、巨大な財力を持つ資本家ーなかでも宋子文ら浙江財閥と結び、左派切り捨てを約束した。 一方、蒋介石が武漢政府との対立を深めながらも、着々と北伐を進めていたころ、上海では周恩来らの指導で中国初の議会制権力である 上海臨時特別市政府が樹立されていた。特別市政府は、国民革命の「英雄」蒋介石を迎えるべく準備を整えていた。 ところが、上海に入城した蒋介石軍は4月12日、突如、その矛先を特別市政府へと向けたのである。そして暗黒街を牛耳る青幇と結び、 上海総工会など上海クーデター左派系諸団体の拠点を急襲、5000人の労働者糾察隊を含む大勢の民衆を虐殺した。有名な四・一二反共クーデターである。 その後、南京に国民政府を樹立した蒋介石は全国各省で「赤狩り」を指示。各地の軍閥もそれに乗じ、中国全土で白色テロの嵐が吹き荒れた。 この赤狩りの最中、中国共産党創設者の一人李大釗らも張作霖の弾圧によって北京のソ連大使館に隠れていたところを見つかり処刑された。

武漢政府の運命は風前の灯火となった。政府部内は、あいつぐ反乱事件により混乱状態となり、 その権力はしだいに形骸化していった。こうしたなか、汪兆銘ら国民党左派の指導者たちが反共に転じ、 南京政府への合流を決めると共産党は憤然として武漢政府から委員を引き揚げた。ここに第1次国共合作は終焉を迎えたのである。

国民党による全国統一

南京政府を樹立した蒋介石は、その後も北伐を続行。北京へと軍を進めた。だが、北伐軍が山東半島に迫ると日本政府は、 居留民保護を名目に青島・済南へ軍隊を派遣、北伐軍の北上を阻止した。これに対し、蒋介石は下野を表明、 日本へ外遊しながら情勢の推移を見守った。その間、共産党との絶縁問題をはじめ汪兆銘ら武漢派の政治的無能ぶりが明らかになると、 28年1月蒋介石は朝野から「乞われる」形で国民革命軍総司令に復帰した。政界に復帰した蒋介石は3月末、 北伐の再開を号令した。5月3日、北伐軍の一部が済南に入場すると日本人居留民に対する暴行事件が偶発した。 日本政府はこれを口実に再度山東出兵を行い、済南を占領した(済南事件)。だが、蒋介石は日本軍との衝突を避けるため、 済南を迂回して北上。そのまま破竹の勢いで北京を陥し、北伐を完成させたのである。一方、 北京に居座っていた軍閥張作霖はいちはやく本拠地奉天への脱出をはかったが、途中関東軍の手によって列車もろとも爆殺されてしまった。

ドキュメント 国共分裂と土地革命戦争

南昌蜂起とソビエト革命

蒋介石の四・一二クーデターを国民党内のブルジョア分子の裏切りととらえた共産党は、これによって「国民党」は逆に浄化され、真の革命政党に生まれ変わったとみなした。そこで自分たちこそ国民党の衣鉢を継ぐ資格があるとみた共産党は、8月1日、国民党革命委員会の名の下で、江西南昌で武装蜂起を敢行。左派の力を結集して国民革命を継続しようとした。蜂起には周恩来の他、葉挺、賀竜、朱徳ら中共党員率いる国民党軍3万が馳せ参じた。これは、中共が独自の軍隊をはじめて持った記念すべき日でもあったため、中国では現在この日を建軍節として祝っている。

南昌暴動

南昌暴動のさなかの8月7日、武漢では中共中央臨時拡大会議が開かれた。この会議では、四・一二クーデターによる失敗を「右翼日和見主義者」陳独秀の責任としてなすりつけ、その地位を剥奪した。かわりに実権を握った瞿秋白は、南昌蜂起に呼応して農村地帯でも秋の収穫期に合わせた秋収暴動を敢行、また各地に労働者・農民・兵士からなる「ソビエト政府」を樹立する方針を定めた。だが、この決定は当時の情勢をまったく無視した机上の方針にすぎず、各地で大きな犠牲を払う結果となってしまった。

南昌蜂起軍は広東目指して南下したものの、仙頭付近で敵の攻撃を受けて四散。その後、朱徳や澎湃に率いられた一部は農民運動の拠点海陸豊地区に到達し、そこで中国最初のソビエト政権「海陸豊ソビエト」を樹立したが、わずか三か月ほどで壊滅した。また12月11日には、蘇兆徴、葉挺らによって広州に広東コミューンが樹立されたが、わずか3日間で流血のなかに葬り去られた。

一方、農民反乱を起こして長沙を奪取する計画だった秋収暴動のほうも、内部から裏切りが出たこともあって、数日のうちに挫折してしまった。指揮をとっていた毛沢東は残軍1000名を率いて湖南・江西両省にまたがる井崗山へと逃れた。だが翌年4月には、海陸豊ソビエトから逃れてきた朱徳が残軍8000名余を率いて井崗山に合流。ふたりは両者の部隊を合わせ、ここに中国労農紅軍第四軍を結成した。

井崗山の毛沢東と朱徳

毛沢東は、紅軍に対して「三大規律・八項注意」と呼ばれる厳しい軍律を定め、それを徹底させた。それまで、中国では軍隊といえば、政府軍であろうと土匪軍であろうと、略奪、暴行は当たり前で、民衆からは人間のくずとみなされていたから、こうした規律正しい軍隊の出現は、人々にとってはひとつの驚きであった。そのため、この規律正しさこそが、外観こそ土匪軍とさほど変わらない紅軍が「真の革命軍」として中国民衆に認められ、全国にその勢力を伸ばすひとつの原動力になったともいわれている。

ソビエト地区の拡大と李立三路線の失敗

革命の情勢は共産党側に再び有利となった。蒋介石軍による全国統一後、その「分け前」をめぐって配下の元軍閥が離反。再度、内乱状態となったからである(中原大戦)。そこで生じた政治的軍事的空白をついて共産党は、各地にソビエト地区を拡大していった。毛沢東・朱徳らの中央根拠地をはじめ、方志敏、賀竜らが湖南・湖北・江西方面に、また鄧小平が広西西南部に、という具合にそれぞれ占領地を拡大していった。かれらは農村から軍閥や地主の私兵を追い出したあと、地主や富農の土地を没収して貧農に分け与える土地革命を積極的に推進していった。そのため共産党は多くの民衆の支持を得、その支配区域を拡大することができたのであった。

そのころ、「左翼盲動主義者・一揆主義者」として批判され、モスクワに召喚された瞿秋白にかわって中共中央の実権を握ったのは李立三であった。李立三は、毛沢東の根拠地理論を「そんな戦術では、革命が勝利する前に、われわれはみな白髪の老人になってしまう」としりぞけ、あくまでマルクス・レーニン主義の教義に固執、都市暴動による権力奪取をめざした。おりしも中原大戦によって国内には軍事的空白が生じ、しかも世界中が大恐慌で混乱していた時期である。世界資本主義体制の矛盾の焦点となった中国は世界革命の起爆庫であるとみなした李立三は、1930年7月、いくつかの都市で暴動を引き起こし、ソビエト革命政権を樹立する方針を打ち出した。農村にあった毛沢東らはこの無謀な計画に反対であったが、李立三はこれを無視し、全軍に出動命令をくだした。

しかし、もともと彼我の軍事力の差を無視した机上のプランである。結果は惨めな失敗に終わった。蜂起のなかで共産党側は多くの犠牲者を出したばかりか、その根拠地すらも失う始末だった。唯一の成果は彭徳懐の部隊が長沙を占領し、ソビエト政権を樹立したことだが、それもわずか7日間で崩壊させられてしまった。ただ毛沢東の率いる第一方面軍だけが、かろうじて全滅を免れたことはその後の中国革命の継続にとってひとつの救いだった。この第二次極左路線(李立三路線)は三か月で破綻し、李立三はコミンテルンによってモスクワへ召喚された。

その後、中共中央の指導に当たったのは、モスクワから送り込まれた陳紹禹(党名・王明)、秦邦憲(党名・博古)といった若手留学生グループであった。実権を握った王明らは、李立三派をトロツキストであるとして粛清するなど、以後、指導部内では熾烈な党内闘争が繰り返され、党組織は一時壊滅寸前にまで陥ったという。またこうした権力闘争の渦中で、毛沢東も危うく粛清されそうになったこともある。

1931年9月18日、満州事変が勃発し、国民党軍の包囲圧力が減じると中共は全国九つのソビエト区の代表を中央革命根拠地の中心江西瑞金に集め、第一回全国ソビエト代表大会を開催した。大会では、中華ソビエト共和国の樹立を宣言し、毛沢東が臨時主席に選出された。

共産党討伐作戦

いつのまにか勢力を盛り返した共産党に恐れを抱いた蒋介石は北伐達成後、本格的な「共産軍討伐」(囲剿)作戦を開始した。1930年12月、蒋介石は10万の兵力を動員して第一次囲剿作戦を行った。これに対し、迎え撃つ中共側は兵力わずか4万。だが、毛沢東や朱徳らの巧妙なゲリラ戦法によって国民党軍はあえなく撃退された。翌年2月、国民党軍は20万の兵力をもって再び攻撃を開始した。が、それも惨敗に終わると、今度は蒋介石自身が30万の兵力を指揮して7月から第三次囲剿作戦に当たった。しかし、結果は同様だった。国民党軍は江西南部の山野をあちこちひっぱりまわされたあげく、結局、撃退されてしまった。ちょうどそのころ、東北で新たな事件が発生した。満州事変である。あわてた蒋介石は、急きょ、ソビエト区から軍を撤退。共産党討伐作戦はいったん中止の運びとなった。1932年5月、日本軍との間に上海停戦協定が結ばれると蒋介石は、盧山で会議を開き「安内攘外」政策を発表。まず内(共産党軍)を安んじてから、しかるのち外(日本軍)を攘うという方針を定めた。この方針にしたがって、6月から50万の兵力をもって再び囲剿作戦を開始した。

瑞金

このころ、共産党側の軍事指導権を握っていたのは秦邦憲と周恩来である。かれらは、それまでの毛沢東のゲリラ戦術を批判、ソビエト区外に積極的に出兵して戦う陣地戦を採用した。その結果、中央根拠地ではどうにか敵を撃退することができたものの他のソビエト区は持ちこたえられずほとんどが壊走した。しかし、この「表面的な勝利」によって毛沢東の軍事指導権は剥奪されることになり、以後、秦邦憲らが指導権を握ることになった。

翌年1月、日本軍の熱河侵攻によって囲剿作戦は再び中断、蒋介石軍は再度撤兵した。だが、5月に結ばれた塘古停戦協定の成立を待って蒋介石は再び囲剿討伐を命令した。国民党側は、この第五次囲剿作戦に100万の大軍を投入、同時にナチスドイツから招いたフォン・ゼークトを顧問に招いた。ゼークト将軍はソビエト区の周囲にトーチカを築いて、その包囲網をじりじりと縮めていくという焦土戦術を採用した。これに対して迎え撃つ紅軍は兵力10万、そして指揮をとったのはコミンテルンから派遣された元赤軍将校オットー・ブラウンであった。オットー・ブラウンもまた毛沢東流の根拠地内に誘い込むゲリラ戦術ではなく、ソビエト地区外で敵を迎え撃つ陣地戦を、それも全線にわたって兵力を分散させる戦術を主張した。だが、重火器をもたない紅軍は国民政府軍が築いた堅固なトーチカに歯が立たなかった。しかも平地に築いた紅軍陣地は逆にトーチカの格好の目標となり、紅軍側の犠牲者の数は増える一方だった。また、厳重な経済封鎖により、日に日に食料や塩が欠乏するようになってきた。

長征

戦局が悪化の一途をたどると中共指導部はついに根拠地の放棄を決定した。1934年10月、10万の紅軍はいっせいに西進を開始した。だが、これが敵の攻勢に押されての逃避行であることは誰の目にも明らかであった。当然ながら兵士たちの士気はふるわず、しかも追撃する国民党軍は間断なくしかも容赦ない攻撃を加えてくる。そのため最初の三か月だけで兵士の数は三分の一にまで激減した。

遵義会議

ここで毛沢東は指導権奪回に動いた。途中、貴州遵義で拡大政治局会議の開催を要求、オットー・ブラウンや秦邦憲らの軍事路線の誤りを徹底的に糾弾した。会議は激しい論戦の末、周恩来の自己批判もあって結局オットー・ブラウンらの軍事路線に対する非難決議を採択して終わった。

再び指導権を握った毛沢東は、この行軍に「北上抗日」という積極的な目標を掲げ、兵士たちの志気を高めることに成功した。また行軍部隊を遊撃戦向けに再編成、よけいな荷物を一切捨て去り身軽にした上で再び行軍を開始した。

だが、厳しい自然環境と執拗な国民党軍の攻撃にさらされながらの行軍は依然として楽ではなかった。その後、貴州から四川、甘粛と西南の辺境地帯を大きく迂回し、最終的に陜西省の根拠地保安に到着したときは、途中指導層の内部分裂もあって、毛沢東の率いる紅軍主力部隊は当初に比べると10分の1以下のわずか8000人にまで減っていた。

瑞金を後にしてからおよそ一年。その間踏破した道のりは、18の山脈と11の省にまたがる全行程1万2000キロにのぼった。「ハンニバルのアルプス越えもこれに比べれば休日の遠足に過ぎない」と、その翌年延安に入ったアメリカ人ジャーナリストエドガー・スノーがいみじくも形容したこの史上まれにみる大行軍は、のちに「大長征」と命名され、中国革命史上における一遍の叙事詩としていまもなお語り継がれている。

西安事件と第2次国共合作

1935年12月9日。寒風の吹きすさぶなか、大勢の学生たちがシュプレヒコールをあげながら北京市内を行進していた。日本による華北分離工作に抗議するデモ隊であった。学生らは、口々に「華北自治運動反対」を叫び、一切の内戦反対、言論の自由などを要求した。これに対し、当局は消防車から冷水を浴びせ、弾圧しようとしたが、運動はまたたくまに全国主要都市に広がった。一二・九運動である。

反日機運が全国的な高まりをみせた翌年六月、政治的中間派による全国救国連合会(全救連)が上海で結成された。翌月、全救連は声明を発表し、国民党には「安内」の放棄と抗日活動の自由を、中共には「階級闘争」の緩和をそれぞれ求めた。これに応えて、中共は一致抗日のため従来のソビエト革命路線を転換してもよいという内容の書簡を国民党側に送った。だが、国民党は中共や全救連のこうした要求を黙殺。のみならず全救連の幹部7名を「非法団体を組織して赤匪と結んだ」として逆に逮捕した。

こうして世論を逆なでした蒋介石は、さらに陜西省北部の紅軍根拠地に対する「討伐」(第六次囲剿)の再開を指令した。しかし当時、西安にあって紅軍討伐の任に当たっていたのは、日本軍によって故郷を追われ、張学良とともに望郷の念をかこつ東北軍と、これまた抗日意欲の高い西北軍(馮玉祥系)の楊虎城であった。両軍は紅軍討伐よりむしろ中国共産党の主張する「一致抗日」に傾いていた。

いっこう討伐の実があがらぬことに業をにやした蒋介石は、督戦のため自ら西安に赴いた。叱責する蒋に対し、張学良は何度か「連共抗日」を進言したが、聞き入れられない。思いあまった張学良は12月12日の早朝、部隊をもって宿舎のある華清池を取り囲み、蒋を監禁、楊虎城とともに内戦停止、一致抗日を全国に訴えた。いわゆる西安事件である。最初、蒋はそれでも頑として首を縦にふらなかったが、西安に駆けつけた周恩来の説得もあり、ようやく蒋は張学良らの要求に基本的な同意を与えた。その後、張学良は自らの誠意を示すため「罪人」として蒋介石に投降、後半生を幽閉のうちに送ることになる。

翌年2月、中国共産党は「暴動政策および土地没収政策の停止」並びに「ソビエト政府の中華民国特区政府」への改称という譲歩を行い、再び一致抗日を求めた。これに対し国民党は、中共が階級闘争を放棄し、軍隊と政権を国民党の下に統一するなどの条件を守るなら「博愛を旨」とする国民党の主義に照らして、その存在を認めると中共側の提案に最終的に同意した。


日中戦争は誰が引き起こしたのか?
南京大虐殺はホント、ウソ?
ホント
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