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盧溝橋事件跡

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北京の西南郊外、永定河にかかる石造りの橋。かつてマルコポーロが「世界一美しい橋」と旅行記のなかで紹介 したことから別名マルコポーロブリッジとも呼ばれる。1937年7月7日夜、この付近で発生した謎の発砲事件が その後8年にわたる支那事変の導火線となった。日本軍が演習していたのは、盧溝橋からみて京漢線の 向こう側の永定河の東岸。現在、橋のたもとに「盧溝橋資料陳列館」があり、七・七事変当時の中国側の 宋哲元将軍の指揮刀や日本軍の軍刀や砲弾などの遺品が展示されている。市の西南郊外にある。長椿街から 309路のバスで盧溝橋下車。なお最近の研究では、この最初の発砲は中国共産党の劉少奇によるものとする説が有力になっている。
 

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【盧溝橋に響いた謎の銃声】

盧溝橋事件を引き起こした最初の発砲の犯人は誰か。これについては現在、中国共産党とその背後にいたコミンテルンであるというのがほぼ確定的とされているが、以前は支那事変史における最大の謎とされていた。これまでに出された犯人説を整理してみると次のようになる。

1.日本の謀略説
行きづまった華北工作を武力で解決しようとした日本が引き起こしたとする説。柳条湖 事件の前例もあるため、一般にはこの説が信じられていたが、そのわりに決定的な証拠はない。
2.偶発説
日本軍の夜間演習を眼前にした第二九軍の兵士が恐怖にかられて発砲したのではないか とする説。だが、これも推量の域を出ない。
3.旧軍閥の策謀説 蒋介石の全国統一の陰で、実権を奪われた西北軍閥の馮玉祥らが華北における地位回復 をめざして糸を引いていたとする説。これも、裏付けとなるたしかな証拠はない。
4.中国共産党陰謀説
国共合作を決定的なものとするため、中国共産党が引き起こしたとする説。戦後、人民解放軍兵士の教育用テキストに当時の中国共産党北方局第一書記劉少奇の指令によるものと断定する記述があったとされる。もっとも、仮にそうだったとしてもそれだけでは事実と断定する根拠にはならないわけだが…。しかし、長征後、一時壊滅寸前にまで陥っていた中国共産党の状況をみれば、日中開戦にもっとも強い動機を持っていたのは、日本軍でも国民党でもなく、共産党であったことはあきらかである。

【支那事変の遠因となった辛丑条約】

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支那事変の発端となったのは、北京郊外の盧溝橋における謎の発砲事件であった。この発砲事件については、中国侵略を企図する日本軍が最初に撃ったとする説が長い間主流だったが、最近の研究によるとこれは中国共産党の策謀であったことがほぼ明らかとなっている。

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しかし、日本軍の濡れ衣はいちおう晴れたものの、それでも他国の領土に軍隊を駐屯させていたことに対して、それ自体あきらかな侵略行為であり、非難は免れないとする声がいまも跡を絶たない。では、なぜ日本軍は当時そんなところにいたのだろうか。実は、その発端は1901年、義和団事件後に締結された辛丑条約にまでさかのぼる。

当時の中国は、義和団の乱が収束した後も治安の悪化に歯止めがかからず、事実上の無政府状態であった。そのため強盗や殺傷事件が各地で頻発していたのだが、それらを取り締まるべき清朝政府は相変わらず政治的混乱が続いており、独力での治安回復は当分期待できそうもない。そこで、事件後にむすばれた辛丑条約では、治安維持と居留民保護のため外国軍隊の主要都市への駐留が認められることになったのである。

これはある意味、いまのソマリアのようなものだ。ソマリアにはいまも国連軍という名の外国軍が駐留しているが、それに対して侵略だなどと非難する人はほとんどいないだろう。同様に、当時の感覚では中国領内に軍隊を駐屯させるということはいまでいう国連平和維持軍のようなものだったのである。

こうして日本は支那駐屯軍を北京に駐留させることになったわけであるが、当然ながら当時軍隊を駐屯させていたのは日本ばかりではない。他の列強も当時同様に各地に軍隊を駐屯させていたのだということはこの際常識として知っておくべきだろう。

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