洪秀全生家

太平天国の指導者洪秀全が幼少時代を過ごした旧居。洪秀全は1814年、この近くの福源水村で生まれ、まもなく当所 に移ってきたという。故居は泥づくりの小さな建物で、なかには木製のベッドと机がひとつ置かれているだけの粗末なつくり。洪秀全は少年時代、ここで科挙の勉強にはげんでいたが、病床で見た幻想をきっかけにキリスト教に 入信。29歳の時、拝上帝会を結成し、同郷の馮雲山らとともに広西方面へ布教に出た。そのさい、布教の テキストとした「原道救世歌」「原道覚世訓」などはここで書かれたといわれる。またとなりの建物は 洪一族の祖廟だったところで、現在、洪秀全故居紀念館となっている。広州市の北方、花県官禄坿村の入口にある。 【関連史跡】近くに干王洪仁干の故居がある。

洪秀全教学私塾旧址
洪秀全が村の子弟に学問を教えていた私塾跡。キリスト教信者となった洪秀全は、塾に祀ってあった孔子の位牌を片づけた ことをとがめられ、塾を追放されたと伝えられている。現在は小学校の 校舎となっている。花県新華郷蓮華塘村にある。

太平天国の指導者・洪秀全の子孫と称する日本人の話

1930年代はじめのこと、洪秀全の故郷である広州花県の官禄坿にある日、一人の日本人がひょっこり現れた。

 男は最初、広州の日本領事館に勤務する矢野某と名乗ったのだが、驚いたのはその後だ。「自分は日本に逃げのびた洪秀全一族の後裔だ」と主張したのである。もちろん、村人はそのうさんくさい男の話を誰一人信じようとはしなかった。

ところが、「父の話によると村の塾の前に一対の獅子の石像を埋めておいたそうだ」と男がいうので、半信半疑ながら、ためしに掘ってみたところ、なんと実際にみつかったらしい。そのため、村人はその男を信じるようになったという。

また日中戦争勃発後の1938年、日本軍が広州を占領した際も「洪秀全の後裔」をかたる将校がやってきたことがある。

 男は矢野と一字違いの矢崎と名乗り、「先に皇軍の一部隊が洪秀全一族の宗祠を破壊したことに対して陳謝する。今後、皇軍がこの村に立ち入ることを禁止し、一切の労役や食料の提供を免除する」と村人を集めて布告した後、洪姓の長老たちを広州に招いて酒をふるまい、千元の軍票を与えたという。

これらはおそらく特務工作の一環として日本軍が打った芝居だったのだろう。とくに矢崎のほうは広州を占領した日本軍の宣撫工作のひとつとみてまず間違いあるまい。

 しかし 、もしもだが、本当に洪秀全が生きのびて日本へ渡っていたとしたら…。まずありえない話ではあるが、歴史のロマンを誘うエピソードであることだけはたしかである。

Monacoinを投げる
モナゲ(tipmona)ってなに?
そもそもMonacoinってなに?
中国捏造近現代史観光史跡をつぶやいてます!

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Leave a Comment

Optionally add an image (JPEG only)