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関東軍司令部

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日露戦争から満州事変、そして満州国建国と日本の大陸政策の尖兵としての役割をになってきた関東軍。日露戦争以来、その司令部は旅順に置かれてきたが、満州国が建国された後の1934年、ここ新京に移転してきた。ここはその新京時代に新築された関東軍総司令部跡。現在は吉林共産党委員会の建物として使われている。

ヨーロッパ建築と日本の伝統建築をミックスした大陸様式と呼ばれる当時流行したデザインの建物で、戦国時代の城郭を思わせるその形から現地の日本人は親しみと揶揄をこめて「お城」と呼んでいた。

満州国は日本の傀儡国家だったとして批判されることも多いが、その理由のひとつにこの関東軍による政治介入がある。実際、関東軍司令部は「内面指導」という名目で、満州国の政治を裏からコントロールしていたし、満州国建国の立役者であった石原莞爾も日中戦争勃発後、ここに赴任してきた際、この「内面指導」を痛烈に批判したといわれている。

もっとも、そこにはそうしなければならない事情もあった。というのも建国してまもない満州国には、民主的な政治体制に移行するだけの条件が国内的にもまた国際的にもまだ十分整っていなかったからだ。建国したばかりの国家が安定を確保するまでの一定期間、強権体制をしくことは珍しくない。ましてや当時は世界大戦前夜から戦時中という非常に不安定な時期であった。当時実質的な統治能力をもっていた唯一の組織であった関東軍による一定の介入は現実的に考えるならばやむをえない措置であったといえるだろう。

場所は駅前から南へ伸びる斯大林大街沿い。

【綏遠事件】

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1936年11月、関東軍が綏遠省(現在の内蒙古自治区西部)を中国から分離独立させようとして武力蜂起を試み、失敗した事件。

当時、関東軍の板垣征四郎中将と田中隆吉参謀は、ソ連ー外蒙古ー中国共産党政府を結ぶルートを遮断すると同時に満州国の安定をはかる目的で、内蒙古を独立させる構想を抱いていた。いわば第2の「満州国」構想である。

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この構想に沿って関東軍は当時、声望のあった民族主義者の徳王らを抱き込み、蒙軍と漢軍からなる謀略部隊を組織した。これを使って国民党支配下の綏遠省主席傅作義を追い出そうというこころみだ。

ところが、この謀略部隊というのが雑兵の寄せ集めで、ほとんど役に立たない。11月上旬、王英なる人物が率いるこの謀略部隊ー大漢義軍ーが内蒙古独立を掲げて決起したものの、攻撃目標の平地泉まで進攻するにいたらず、その手前の紅格爾図(ホンゴルト)で傅作義軍の迎撃にあい、あっけなく敗走。さらに傅作義軍は余勢を駆って百霊廟を占領、そこを守っていた蒙古軍も何ら抵抗することなく先を争って逃走してしまったのである。さらに関東軍は、金甲山なる人物が率いる部隊を使い、百霊廟奪回作戦を起こしたがこれも失敗。その上、攻めあぐんだあげく部隊ごと敵に寝返ってしまうという始末だった。

その後、西安では、張学良が蒋介石を監禁して抗日を迫るという事件が発生。これによって傅作義追い出し工作は、一時中断を余儀なくされた。だが翌年、支那事変が発生すると今度は日本軍が公然と出動。圧倒的な戦力でもって傅作義軍を駆逐することに成功すると、徳王を主班とする蒙疆自治政府を樹立したのである。

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