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弥栄村跡

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日本人移民による満蒙開拓の先駆けとなった弥栄村跡。満州事変後、日本国民学校校長加藤完治と 元関東軍大尉東宮鉄男らの意見を採用した拓務省は、1932年秋、ジャムス付近の永豊鎮と七虎力 に日本各地の農村から募集した移民団あわせて1000人近くを入植させた。だが、それが「武装移民団」 と呼ばれたようにその生活は農民のというよりはむしろ軍人のそれに近いもので、 1日の労働のうちの半分は、抗日ゲリラの襲撃からの防衛にあてられ、当初は開墾どころの騒ぎでは なかったという。しかも、娯楽のない極寒の地に置き去りにされた移民団の苦労は筆舌に尽くし難く、 団員たちの中には「墾屯病」と呼ばれる一種のノイローゼにかかるものが続出。 腹いせに地元の中国人たちに乱暴狼藉を働くものも出るにおよんで、両者の対立はますます エスカレートする一方だった。しかし日本のジャーナリズムは、のちに弥栄村および千振郷と改称された両村を、 理想的移民村としてさかんに喧伝したため、凶作や不況に苦しむ当時の貧しい農民たちは こぞって移民に応募した。その結果、太平洋戦争敗戦直前の1945年5月までにあわせて 32万人あまりの農民が満州へわたったが、敗戦後、その多くが逃避行のさなか、 悲惨な最期を迎えなければならなかった。

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開拓団の家
開拓団
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