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西太后と頤和園

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北京の西北郊外に広がる庭園で、中国を代表する名園のひとつ。万寿山という小高い丘とそのほとりに造られた人工の昆明湖からなり、 広さは約300ヘクタールにおよぶ。第2次アヘン戦争(アロー号事件)の際、英仏連合軍によって円明園とともに徹底的な破壊を受けたが、 その後、西太后が自らの別荘とするため再建した。なおその際、軍艦建造費に当てられるはずの銀3000両を流用したため日清戦争に敗れた というエピソードは有名。おもな見どころは次のとおり。

仁寿殿
入口の東宮門を入った正面にある。ここは西太后と光緒帝が政務をとり、臣下や外国使節を謁見する場所であった。室内中央には立派な 玉座が残っているが、これは皇帝のものではなく西太后が座っていた場所で、光緒帝はその隣の質素な場所に座らされていたという。

玉瀾堂
仁寿殿のすぐ西側、昆明湖畔にある玉瀾堂は、戊戌政変に敗れた光緒帝が西太后によって軟禁されたところ。三方に塀が築かれ、外部との連絡は もちろん背後の皇后が住んでいた宜芸館との通路さえ遮断されていたという。

楽寿堂
玉瀾堂の西北、昆明湖の東北岸にある。西太后の居室だったところで、堂内には飾りたてられた西太后の玉座がある。堂の前には彼女が船に 乗る時に使った船着き場がある。また楽寿堂の東にある永寿斎は、西太后の寵をうけた宦官李蓮英の居室で、現在、宦官制度に関する資料館と なっている。

徳和園
仁寿殿の北にある徳和園は、大戯楼と頤楽殿からなる。そのうち大戯楼は西太后が63歳の誕生祝いに銀160万両を費やして建てた京劇の舞台で、 高さ21メートル、3階建の壮麗な建造物。清代三大戯楼のひとつとしても有名である。また頤楽殿は、それを観るために造られた西太后専用の観劇室 で内部には、当時の西太后をかたどった臘人形が置かれている。

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石舫(清晏舫)
楽寿堂から長廊を通って昆明湖畔を西へ行くと、ちょうど突き当たりに石づくりの船が浮かんでいる。石舫または清晏舫と呼ばれ、 当時西太后は避暑をかねしばしばここで食事をとったという。

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【場所】市内西北、海淀区。円明園の隣にある。330、332、333、346路バスで頤和園下車。

【エピソード 葉赫族の呪いと西太后】
一七世紀の初め、太祖ヌルハチが女真族を統一したさい、最後まで抵抗したのは葉赫(エホ)族という女真族の中の一部族であった。葉赫族が滅びる時、その族長はつぎのような呪いの言葉を残して死んでいったという。「わが子孫はたとえ女ひとりになっても、必ずやヌルハチの王朝を滅ぼすだろう!」。このため、清王朝には葉赫族の女を宮廷に入れてはいけないという先祖代々の言い伝えがあったらしい。ところが、子宝に恵まれない第九代皇帝の咸豊帝は、その禁忌を破って懿貴妃・葉赫那拉氏という葉赫族の女性を妃に迎えた。やがて、懿貴妃葉赫那拉氏は同治帝を生み皇帝の生母、すなわち西太后となる。そして西太后は咸豊帝の正妻東太后を圧する権力者となり宮廷政治を専断、族長の言葉通りついに清朝を滅亡させることとなったのである。

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