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彭湃生家

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海豊紅宮中国共産党初期の農民運動指導者、彭湃の生家。1896年に生まれた彭湃は広州の学校を卒業した あと21歳で日本へ留学、早稲田大学で政治経済をまなんだ。留学中に社会主義思想にふれ、帰国後は、 故郷の海豊で農民の組織化に尽力。1922年、広東初の農民協会、赤山約農会を設立した。その後、 中国共産党に加入し、要職を歴任。1927年の南昌蜂起にも参加したが、敗退。蜂起部隊をひきいてそのまま南下し、 故郷の海豊に中国初のソビエト政権を樹立した。だが、29年には国民党軍にとらえられ、33歳の若さで刑死した。 広東の東南部、海豊県海城鎮の東方、竜舌埔にある。

 

海豊紅宮

彭湃にひきいられ、南下した南昌蜂起軍の一部隊は、1927年10月、当地の農民とともに海豊県の政権を奪取。 ここに中国初のソビエト政権・海豊県ソビエト政府を樹立した。もとは、孔子をまつった寺廟だったが、大会当時、 外壁が赤く塗られ、会場内の壁もすべて赤い布で覆われたため紅宮と呼ばれるようになった。また 隣の広場は紅場(赤の広場)」と呼ばれ、ソビエト政府成立慶祝大会が開かれた場所で、壇上にあがった彭湃が、 会場につめかけた数万人を前に演説したところである。海豊県海城鎮にある。

当時「小モスクワ」と呼ばれた広東省にある中国共産党の革命根拠地・海陸豊。ユン・チアン『マオ』によると1928年、この静かな村が血に飢えた指揮官彭湃の下で二ヶ月にわたって血なまぐさい修羅場と化したという。彭湃は民衆に対して、「腹をかっさばけ、首を切り落とせ…躊躇せず即断でぶち殺せ。一辺の感情も不要」「殺せ、自由に殺せ。殺人は暴動において最高に重要な仕事である」と呼びかけた。そうして一万人以上の村人が虐殺され、「反動的村落はひとまとめに破壊」されたという。またその際、殺人を犯した子供たちは「反動分子を殺した」ことをほめられたという。

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赤山約農会旧址

1922年夏、早稲田大学留学から郷里に戻った彭湃は、農民の教育と組織化に乗り出した。共鳴したのは、 当初わずか6人ほどにすぎなかったが、その後、組織は急速に発展、やがて広東初の農民協会、 赤山約農会が結成された。ここは、その本部が置かれたところで、旧址の前にある榕樹は、 当時その下で彭湃が夜ごと農民たちに革命思想を説いた場所といわれる。海豊県海城鎮の東方、 竜山の麓にある。

 

得趣書室

農民運動を指導していたころの彭湃の書斎跡。彭湃は、ここで農民運動の研究に没頭していた といわれる。軍閥陳炯明に対する国民革命軍の第1次東征が勝利した1925年には中国共産党海陸豊地区委員会が 置かれた。海豊県海城鎮にある。

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