洋務運動/日清戦争/戊戌政変/清朝末期関連史跡

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洋務運動関連史跡
北京

保衛和平石牌坊

ケトレル

義和団事件の際、殺害されたドイツ公使フォン・ケトレルを追悼するため建てられ た記念碑。1900年6月、ドイツ公使ケトレルは談判のため馬車で 総理衙門に赴く 途中、東単付近で清国兵に狙撃されて死亡した。義和団事件後、ドイツ政府は、殺害現場に石造りの記念碑を建立したが、第1次世界大戦後、 戦勝国であるフランス軍によって破壊された。その後、中国政府はこれを「公理戦勝牌坊」と名を改め、当所に移築。さらに1952年 にアジア太平洋地域平和会議が北京で開催されたのを機に、現在の名称に変更された。中山公園の南門の近くにある。

東交民巷

東交民巷

清朝末期から中華民国時代にかけて各国の大使館が置かれていた地区。1900年、義和団が北京に入城した際、公使館員家族と中国人 キリスト教徒約4000名が籠城したのはこの一画である。おもな歴史的スポットとしては義和団事件の際、籠城側の拠点となったイギリス大使館、 1917年、復辟をはかった張勲が逃げ込んだオランダ大使館、1924年、紫禁城を追われた溥儀が匿われた日本大使館、1927年に李大釗 が逮捕されたソ連大使館などがある。現在の長安街と前面東大街にはさまれた区域で、天安門広場の東側。

西什庫教堂

西什庫教堂の前で記念撮影する八カ国連合軍兵士

清代初期にフランス人宣教師フォンタネーによってつくられたカトリック教会で、北京四大聖堂のひとつ。1900年の義和団事件の際、東交民巷 とともに大勢のキリスト教徒が籠城した場所としても知られる。西城区、西安門内西什庫大街33号。北海公園の西、西安門付近。【関連史跡】 前門西大街にやはり北京四大聖堂のひとつで、明代にイエズス会の宣教師マテオリッチによってたてられた北京最古の教会、南堂がある。ただし、 こちらは義和団によって完全に破壊されてしまい、現在の建物は1904年に新しく立て直されたもの。

西太后と頤和園

西太后と女官

北京の西北郊外に広がる庭園で、中国を代表する名園のひとつ。万寿山という小高い丘とそのほとりに造られた人工の昆明湖からなり、 広さは約300ヘクタールにおよぶ。第2次アヘン戦争(アロー号事件)の際、英仏連合軍によって円明園とともに徹底的な破壊を受けたが、 その後、西太后が自らの別荘とするため再建した。なおその際、軍艦建造費に当てられるはずの銀3000両を流用したため日清戦争に敗れた というエピソードは有名。おもな見どころは次のとおり。

仁寿殿

入口の東宮門を入った正面にある。ここは西太后と光緒帝が政務をとり、臣下や外国使節を謁見する場所であった。室内中央には立派な 玉座が残っているが、これは皇帝のものではなく西太后が座っていた場所で、光緒帝はその隣の質素な場所に座らされていたという。

玉瀾堂

仁寿殿のすぐ西側、昆明湖畔にある玉瀾堂は、戊戌政変に敗れた光緒帝が西太后によって軟禁されたところ。三方に塀が築かれ、外部との連絡は もちろん背後の皇后が住んでいた宜芸館との通路さえ遮断されていたという。

楽寿堂

玉瀾堂の西北、昆明湖の東北岸にある。西太后の居室だったところで、堂内には飾りたてられた西太后の玉座がある。堂の前には彼女が船に 乗る時に使った船着き場がある。また楽寿堂の東にある永寿斎は、西太后の寵をうけた宦官李蓮英の居室で、現在、宦官制度に関する資料館と なっている。

徳和園

仁寿殿の北にある徳和園は、大戯楼と頤楽殿からなる。そのうち大戯楼は西太后が63歳の誕生祝いに銀160万両を費やして建てた京劇の舞台で、 高さ21メートル、3階建の壮麗な建造物。清代三大戯楼のひとつとしても有名である。また頤楽殿は、それを観るために造られた西太后専用の観劇室 で内部には、当時の西太后をかたどった臘人形が置かれている。

石舫(清晏舫)

楽寿堂から長廊を通って昆明湖畔を西へ行くと、ちょうど突き当たりに石づくりの船が浮かんでいる。石舫または清晏舫と呼ばれ、 当時西太后は避暑をかねしばしばここで食事をとったという。

【場所】市内西北、海淀区。円明園の隣にある。330、332、333、346路バスで頤和園下車。

【エピソード 葉赫族の呪いと西太后】
一七世紀の初め、太祖ヌルハチが女真族を統一したさい、最後まで抵抗したのは葉赫(エホ)族という女真族の中の一部族であった。葉赫族が滅びる時、その族長はつぎのような呪いの言葉を残して死んでいったという。「わが子孫はたとえ女ひとりになっても、必ずやヌルハチの王朝を滅ぼすだろう!」。このため、清王朝には葉赫族の女を宮廷に入れてはいけないという先祖代々の言い伝えがあったらしい。ところが、子宝に恵まれない第九代皇帝の咸豊帝は、その禁忌を破って懿貴妃・葉赫那拉氏という葉赫族の女性を妃に迎えた。やがて、懿貴妃葉赫那拉氏は同治帝を生み皇帝の生母、すなわち西太后となる。そして西太后は咸豊帝の正妻東太后を圧する権力者となり宮廷政治を専断、族長の言葉通りついに清朝を滅亡させることとなったのである。
天津

義和団記念館

天津
義和団記念館

1900年に華北一帯で発生した義和団運動に関する資料を集めた歴史記念館。もとは伝説の仙人、呂洞賓をまつった呂祖堂で、義和団事件当時、 総壇口(本部)が置かれていた。指導者は「乾字団」という一派を率いた曹福田で、有名な女性義和団「紅灯照」の指導者黄蓮聖母(林黒児) もしばしば訪れたという。館内には前殿、後殿、五仙堂などいくつかの建物があり、このうち前殿と後殿には、義和団が使った刀や矛、団旗など 当時の遺物が数多く展示されている。また五仙堂は、黄蓮聖母が拝壇の儀式をとりおこなった場所と伝えられる。市内西北の紅橋区。天津西駅 の近く。呂祖堂胡同16にある。

望海楼教堂

天津
望海楼教堂

「天津教案」の舞台となったフランス系の教会。第2次アヘン戦争(アロー号事件)後、キリスト教の内地布教が認められると、 宣教師と一般民衆との間にはさまざまなトラブルが頻発するようになった。なかでも有名なのが、1870年にこの望海楼教堂で おこった天津教案である。発端となったのは、教会付属の孤児院で幼児が次々と死亡した事件。これに不審を抱いた中国人の間で 「孤児院というのは幼児を殺害して薬を作るところだ」といううわさが広まり、やがて一部が暴徒化、フランス領事をはじめ 教会関係者100人近くが殺害されるという惨事へと発展した。ちなみに現在の建物は、1904年に建て直されたものである。天津駅の西北、 海河にかかる獅子林橋のたもとにある。

山東

劉公島甲午戦争記念館 台湾民主国

威海
威海衛要塞

甲午中日戦争(日清戦争)に関する歴史博物館で、当時の北洋水師(海軍)の提督署跡にある。北洋海軍は1894年9月、 平壌沖で日本の連合艦隊と遭遇、敗走させられた後、ここ威海衛に戻って防戦に努めた。だが、翌年2月、日本軍の猛攻撃に逢い、 威海衛はついに陥落。投降を拒否した水師提督丁汝昌も服毒自殺した。記念館内には、黄海海戦の際の戦場模型や撃沈された 戦艦「済遠」から見つかった遺品など、多くの資料が展示されている。また敷地内には服毒自殺した丁汝昌をまつった丁公祠 をはじめ、丁汝昌の住居「丁公府」、当時の海軍学校である「水師学堂」、北洋海軍の砲台跡などが残っている。山東半島の 突端の威海市の劉公島内。

【エピソード 幻の台湾民主国】
日清戦争後に結ばれた下関講和条約によって、台湾は清国から日本へ割譲されることになった。しかし、一部の台湾人がこれに反発、1985年5月25日、台湾巡撫唐景崧を擁立して台湾民主国を成立させた。だが、日本政府は条約にしたがい台湾を接収すべく軍隊を派遣、6月7日に台北が陥落すると、唐景崧はじめ主だった指導者はいちはやく大陸へと逃亡した。
その後、現地に残ったのはゲリラ化した民衆と台南に拠る劉永福軍のみであった。劉永福は、かつて清仏戦争の際、黒旗軍を率いて戦った名将である。台湾独立派は、彼に最後の望みをつないだものの、いかに往年の軍事天才といえど、日本との間の戦力差はいかんともしがたい。10月19日、台南も陥落すると、劉永福は対岸の厦門へと逃亡した。わずか五か月足らずでついえさってしまった台湾民主国であったが、仮に独立派が勝っていたなら、アジア最初の共和国となっていたはずである。

青島 康有為旧居

青島
康有為の著書

戊戌維新で活躍した康有為は1927年3月、青島のこの屋敷で79年にわたる波乱の生涯を閉じた。現在、康有為故居記念館 として公開されており、館内には各種論文や生前の遺品などが展示されている。市内南部、魯迅公園から栄陽路を中山公園方面へ のぼった福山路の近くにあり、海洋大学のとなりにある。なお浮山南麓に康有為の墓がある。

福建

馬江海戦記念館

福州
清仏戦争

1884年8月、清国とフランスとの間で清仏戦争が勃発すると、ベトナム沖から北上したフランス艦隊は、まず台湾を陥落させ、 ついで対岸の福州へと攻撃の矛先をむけた。迎えうったのは、当時馬尾港に停泊していた清朝の南洋艦隊。だが、近代的な装備を ほこるフランス軍の前には手も足も出ず、南洋艦隊はたちまち全滅してしまった。これが、清仏戦争で最大の激戦となった馬江沖の 海戦と呼ばれる戦いである。馬江沖の勝利によって勢いに乗ったフランス軍はその後、沿岸に上陸、さらに北上しようとしたが、 やがて反撃に転じた清朝軍と劉永福ひきいる黒旗軍の陸上部隊によって撃退された。ここは、その馬江沖の海戦を記念して 開設された歴史博物館で、内部には、当時の兵器や兵士の遺品など清仏戦争に関する資料が数多く展示されている。また近くには、 戦死した700名の将兵をまつった中仏海戦死難烈士陵墓がある。福州の東方、ミン江の入口馬尾羅星塔の 近くにある。
【関連史跡】航海術を教授するため左宗棠がつくった船政学堂跡が近くにある。

厳復墓

福州

『天演論』を著した思想家・翻訳家、厳復の墓。『天演論』は、T・ハックスリーの『 進化と倫理』を意訳して評釈を加えたもので、 進化論の立場から国家としての適者生存を 説いたこの本は、列強に蚕食されつつあった当時の中国の知識人に大きな衝撃を 与えた。福州市の郊外、陽岐村にある。

故里山砲台

厦門

清仏戦争後、厦門港を固める要塞として設置された砲台。現存する大砲はドイツ製のもので砲身の長さ14メートル、 重量60トンという巨大なもの。1896年の完成。市内南部の厦門大学の東南海辺にある。

湖北

庚子烈士墓

武漢
唐才常

自立軍蜂起に連座して犠牲になった唐才常ら7人の遺骨を埋葬した墓。唐才常らは、康有為とはかって清朝の改革と外国勢力からの 独立を求める自立会を結成。義和団の反乱に乗じて武装蜂起を計画した。だが事前に発覚し、湖広総督張之洞によって処刑 された。洪山の北麓にある。

湖南

譚嗣同墓

瀏陽県
譚嗣同

変法派の指導者で、戊戌六君子の一人譚嗣同の墓。戊戌維新当時、変法派が西太后ら保守派の圧力に屈しかけると、譚嗣同はひそかに袁世凱を訪問、 その軍事力でもって西太后派を一掃するよう依頼した。だが、袁世凱はこれを裏切り、西太后に密告、逆に保守派によるクーデター(戊戌の変)を ひきおこすきっかけとなった。譚嗣同は逮捕直前、同志の梁啓超から亡命をすすめられたが、「君は西郷たれ、我は月照たらん」といって 従容として死に就いたといわれる。死後、出身地の瀏陽に葬られた。長沙の東方、瀏陽県の郊外牛石郷にある。

広東

湛江人民抗法闘争旧址

湛江
広州湾に上陸したフランス兵

1898年4月、フランスは広州湾租借地問題を口実に湛江に強行上陸。これに怒った 付近の民衆は、同年7月ここを拠点に 抗法(フランス)闘争を開始した。旧址はも ともと清の雍正年間に建立された上林寺と呼ばれる寺院で、98年7月28日、門前 に指導者らが集まり、血をすすりあって決死の戦いを誓ったと伝えられる。東南郊の南柳 村にある。

康有為生家

仏山
康有為

康有為は1858年、広東南海県の生まれ。37歳で科挙に合格した後、時の皇帝光緒帝の知遇を得て1898年に急進的な政治改革 (戊戌維新)に乗り出した。だが、これをよろこばない西太后ら保守派の弾圧によって失脚、わずか100日ほどで亡命をよぎなくされた。 亡命後も弟子の梁啓超らと立憲君主制を主張する保皇会を結成、孫文らの革命党と激しい論戦を展開した。辛亥革命 成功後も清朝の復辟を熱心に主張し、1917年の張勲による復辟事件にも裏で画策したといわれる。晩年は儒教の国教化をはかり、 孔子教を創設したが、1927年3月、病気のため青島で死去した。南海県仏山にある。

広西荘族自治区

劉永福故居

欽州
劉永福

黒旗軍の指導者として清仏戦争などに活躍した劉永福の旧居。太平天国の影響を受けた天地会の蜂起軍に参加した劉永福は、太平天国が崩壊した 1864年には靖西県の安徳で残 党を率いて黒旗軍を組織。清軍の圧迫を逃れ、200人あまりの兵を率いてベトナム領内 へと進入した。劉永福はそこでフランス軍を撃退し、ベトナム王から三宣副提督に任じら れるなど、その後の中国およびベトナムの反仏侵略闘争 に大きな戦功を立てた。また、のちに台湾に移り、日清戦争後に取り決められた日本の台湾領有にも独立軍を率いて 抵抗した。広西壮族自治区欽州市内南部、四馬路の北にある。

鎮南関(友誼関)

憑祥
清仏戦争

ベトナムとの国境にあって、以前は鎮南関と呼ばれた。1885年2月、清朝の将軍 馮子材が、中国の国境を侵犯したフランス軍を撃退した戦い、 いわゆる「鎮南関の大勝」の舞台となった場所。清仏戦争と支那事変の時、2度にわたって焼かれたが、新中国成立後に再建され、 現在の名称に改められた 。背後に抗仏の烈士を葬った万人墳がある。広西壮族自治区憑祥市の西南、ベトナムとの国境にある。

馮子材墓

欽州
清仏戦争

「鎮南関の戦い」で活躍した馮子材の生家。馮子材は清朝末期の将軍で、欽州の出身。一兵卒から身を起こし、太平天国鎮圧の功に よって広西提督にまで昇進した。64歳で退官し、郷里へ戻ったが、清仏戦争が始まると地元の団練(自衛軍)を率いて鎮南関でフ ランス軍を 撃退した。広西壮族自治区欽州市内。欽州の近く。

遼寧

万忠墓 旅順虐殺

旅順
旅順虐殺時のものとされる写真

日清戦争で、日本軍に虐殺されたとされる市民や兵士が眠っている。1894年11月、旅順を占領した日本軍は、一般市民、婦女子に対する虐殺事件を ひきおこしたといわれている。事件は現場にいた外国人記者によって世界中へ報道され、国際問題となった。犠牲者の数は「ニューヨークワールド誌」 によれば、約6万人といわれる。旅順口の白玉山の東麓にある。

旅順日露監獄旧址

旅順
安重根

かつて満州を支配したロシアが、そしてのちには日本が監獄として使っていた建物。伊藤博文を暗殺した朝鮮人義士安重根も ここに収監されていた。現在、抗日烈士記念館となっており、なかには外国人烈士としてただひとり安重根の資料が展示されている。また 安が収監されていた監房の壁には、安がみずから刻んだという「朝鮮愛国之使安重根」の文字が残されている。旅順口地区にある。

黒竜江

伊藤博文暗殺現場跡

ハルピン
ハルピンの伊藤博文

1909年10月、「満州」を訪れた初代統監伊藤博文が朝鮮人独立運動家安重根によって暗殺された。ここはその現場で、 ハルピン駅構内にある。なお、暗殺犯人安重根は日本ではテロリスト扱いだが、韓国、北朝鮮では、独立運動の英雄とされている。現場は ハルピン駅構内の1番ホーム。戦前は伊藤が撃たれた場所に記念プレートが埋め込まれていたが、新中国成立後、撤去され、 現在はプレートを覆った円形のコンクリート跡だけが残っている。2014年、ハルピン駅構内に安重根記念館が設立された。

志士の碑跡

ハルピン
志士の碑

日露戦争直前、破壊工作に従事した日本人軍事探偵の記念碑が建っていた場所。1904年、横川省三、沖禎介ら特別任務班の2人は、 チチハル西方、嫩江にかかるフラルジ鉄橋を爆破するため満州に潜入、目的地点まであと一歩というところでロシア軍のパトロール隊に 発見され、ハルピン郊外で銃殺された。満州事変後、銃殺場所に「志士の碑」が建立され、日本の敗戦前までは大勢の日本人観光客で にぎわったという。ハルピンの中心から東北へ約1キロほ ど行った郊外の小高い丘の上にあった。

【エピソード1 特別任務班の悲劇】
日露戦争の裏面史を彩ったのは多くの謀略工作であった。なかでも有名なのが、横川省三、沖禎介ら特別任務班によるそれである。その密命はチチハル南方の嫩江にかかるフラルジ鉄橋の爆破であった。 一行は一九〇四年二月二一日未明、北京を出発。最初の目的地であるカラチンを過ぎ、赤峰、そして烏丹と内蒙古雪原を猛吹雪に悩まされながらひたすら北上を続けた。ところが、約五〇日後の四月一二日夕、大興安嶺山脈のふもとで天幕を張っていたところを不運にも巡回中のロシア兵とばったり遭遇。捕らえられた一行はハルピンへ護送され、そこで銃殺刑に処されたのであった。
なお、このとき、二人は所持していた一千両をロシア赤十字社に寄付したいと申し出たという。これに対し、ロシア軍司令官は「この金は君らの家族へ送ったほうがよいのではないか」と日本への送金を勧めたものの、二人はがんとして譲らず、司令官を感動させたと伝えられている。

フラルジ鉄橋

チチハル
横川省三

日露戦争前夜の1904年、ロシア軍の後方かく乱の任務を帯びた特別任務班の1グル ープ横川省三、沖禎介らが爆破目標とした 鉄橋。東清鉄道(現在の浜州線)が、嫩江と合流する地点にかかっている。チチハル南方。

寿山将軍祠

チチハル
義和団事件後も満州に居座るロシア軍

義和団事件のさいロシア軍と戦った清朝の将軍寿山をまつった祠。1900年7月、義 和団の排外運動が東北にまで広がると、 ロシアは10万の兵力を送って弾圧に乗り出した 。これに対し、寿山は対露投降を主張する東北三省の将軍たちのなかでただ1人、 徹底抗戦を主張。清軍を率いて義和団とともに孤軍奮闘した。だが、チチハルがロシア軍に占領されると自死したという。なお寿山は、 明代末期の有名な武将袁嵩煥の後裔で、当時は愛琿副都統を経て黒竜江将軍の地位にあった。龍沙公園にある。

愛琿歴史陳列館

愛琿
アルバジン教会

ロシアと国境を接するこの町は、アヘン戦争以来、常に帝国主義による侵略の脅威にさらされてきた。なかでも1858年、 ロシアとの間に結ばれた愛琿条約は、この辺境の小さな町の名をいちやく世界的なものとした。この愛琿歴史陳列館には、そうした帝国主義による 侵略とそれに対する中国民衆の抵抗の歴史が数多くの資料とともに展示されている。なかでも興味深いのは、1900年の義和団に乗じてロシア兵がこの地に侵入した際、発生した中国人虐殺事件を描いた絵画である。これは、アムール事件と呼ばれ、中国人25000名が虐殺されたといわれる。なお陳列館のある場所は、 1600年代末期に設置された黒龍江副都統の駐在所跡で、愛琿条約もここで結ばれた。黒河の東の愛琿にある。

内蒙古

カラチン王府跡

カラチン
カラチン王府跡

親日派の蒙古王族カラチン王の王宮跡。日露戦争前夜の1903年、日本人女教師・河原操子がロシア軍の動向を探る目的で赴任した場所。 親日派の王族とはいえ、臣下のなかには親露派も多く、万が一を覚悟した彼女は、常時、短刀を肌身から離さなかったと伝えられる。また、 横川省三、沖禎 介、脇光三ら特別任務班の一行が、破壊工作ため北上する途中、ここに立ち寄りひそかに情報交換を行った場所としても知られる。満州国時代は、横川、沖ら6烈士を祀った記念碑がここの北山に建てられていた。王宮跡は、現在のカラチンの南東、 車でおよそ20分のところにある。


日中戦争は誰が引き起こしたのか?

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