中国共産党・長征関連史跡

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土地革命関連史跡
江西

八一南昌起義総指揮部旧址

南昌
八一南昌起義総指揮部が置かれた南昌旅社

1927年8月1日、共産党は、蒋介石の反革命クーデターによって中断した国民革命をやり直すため、 南昌で独自の武装蜂起をこころみた。ここはそのさい周恩来、朱徳、賀龍らが前線総司令部をおいた建物で、 当時南昌一の規模を誇ったホテル、江西大旅社のなかにある。館内には、総指揮部がおかれた喜慶堂をはじめ 周恩来の執務室や医務室などが復元され、展示コーナーでは八一蜂起の歴史を体系的に紹介している。なお 八一蜂起は、中国共産党がみずからの軍隊を持った記念すべき戦いでもあり、現在中国ではこの日を建軍節 として祝っている。中山路265号。八一公園の西にある。2路のバスで「洗馬池」下車。

【関連史跡】人民広場の南端には八一起義記念塔がたっている。

八一南昌起義賀龍指揮部旧址

南昌

八一南昌蜂起のさい賀龍率いる国民革命軍第20軍の指揮部が置かれた場所。もともとキリスト教会 とその付属中学校の建物だったが、ちょうど夏休みで教師も学生も不在のため、参謀部と一部の部隊が ここに駐屯した。蜂起のとき、剛胆で鳴る賀龍は、中庭の石段に立ち、現場から200メートルと離れていない場所で戦闘の指揮をとったと伝えられる。

朱徳同志旧居

南昌

蜂起した紅軍

八一蜂起当時、朱徳が住んでいた建物。八一蜂起の前夜、周恩来がここに投宿し、朱徳と蜂起計画を練った。 1階の北側が朱徳の部屋で、周恩来が泊まったのは庁堂と呼ばれる部屋。また2階には郭沫若が滞在した部屋 もある。八一大道のつきあたりの手前を西へ入った花園角2号。八一公園と軍官教育団旧址の中間にある。


朱徳

八一南昌起義関連史跡

南昌

江西革命烈士紀念堂

暴動の指揮をとる周恩来

土地革命期(1927~37年)に革命に殉じた江西出身の兵士300人あまりを中心にその闘争歴や 遺品などを展示している。三階建て、高さ22メートルの建物で、1953年の落成。正面ホールには 「共産主義是不可抗拒的!星星之火可以燎原!死難烈士万歳」という毛沢東の題詞を掲げている。八一大道の なかほどにある。

軍官教育団旧址

南昌蜂起の母体となった革命軍将校を養成した士官学校跡。国民党のもとで南昌公安局局長に任ぜられた 朱徳によって創設されたもので、正式には、国民革命軍第3軍軍官教育団と呼ばれた。名目上は国民党軍の 幹部を養成するための士官学校であったが、実際には中国共産党の指導下にあり、南昌蜂起のさいは、蜂起軍 の中核として大きな活躍をした。場所は、八一大道のつきあたりの手前を西へ入ったところ。八一公園の近く。 朱徳同志故居も近い。

南昌起義紀念塔

八一南昌起義を記念して建てられた塔。方形で高さ45.5メートル。1977年の建造。八一広場の南端にある。

八一公園

もとの湖浜公園。南昌蜂起のさい激戦地となった場所であるため、新中国成立後、これを八一公園と改称した。 長征路のなかほどにある。

葉挺指揮部旧址

南昌蜂起のさい、葉挺の率いる第11軍の指揮部が設けられた場所。当時の心遠中学の校舎だったところで、 階上に執務室・会議室・電話交換室などが置かれ、階下が護衛部隊の詰所として使われていた。百花洲の 東湖のそば、第2中学の構内にある。

中華ソビエト共和国 井崗山革命博物館

井崗山
瑞金の中華ソビエト臨時政府大会堂

1927年10月、秋収暴動に失敗した毛沢東は、残存部隊とともに井崗山にはいりそこを拠点に「農村ゲリラ根拠地」をつくった。 いまでこそこの井崗山は革命を育んだ揺籃の地として中国共産党内でも高く評価されているが、その当時ここでの活動は毛沢東にとっては一か八かのおおきな賭けであった。というのも、当時の共産党中央の主流は、 教条的マルクス主義にこりかたまっており、かれらにいわせれば、革命軍の中核を都市労働者に求めず、 プチブルジョア階級である農民に求めることは、重大な逸脱とされたからである。だが、 その「農村によって都市を包囲する」という毛沢東の特異な農村根拠地理論こそが、 最終的に中国革命を成功に導いた原動力となったことはその後の歴史が示す通りである。後年、 毛沢東は「星星之火可以燎原」という言葉を好んで使ったが、まさにその言葉の通り、 ここ井崗山に灯された小さな火はやがて中国全土で革命の炎となって燃え上がったのである。現在、 博物館内に保管されている文物資料はおよそ7000点。展示は「秋収蜂起と井崗山への進軍」「井崗山の闘争」 「星火燎原」の3つに大きく分けられ、井崗山での闘争の歴史と中国革命におけるその意義がわかりやすく 解説されている。奥深い山中ながら、興味のある人や研究者にとっては苦労して登るだけの価値はある。 井崗山市内。

【関連史跡】北面の丘に革命烈士陵園と記念堂がある。また博物館の近くに毛沢東と朱徳が住んだ旧居がある。

井崗山

井崗山
井崗山

江西と湖南の境界を南北に走る羅霄山脈のなかほどにそびえる山。平均海抜千mとさほど高くはないが、 ほぼ東京都に匹敵する広大な面積を持ち、きわめて険しい山岳地帯となっている。1927年10月、秋収蜂起 に失敗した毛沢東が、残存部隊を率いて入山し、革命根拠地を築いたところとして有名。翌年には、 朱徳や陳毅に率いられた約1万人の部隊が合流し、中国工農紅軍第四軍が創設された。各地に当時に ちなんだ旧跡が残る。南昌からバスで10時間。

中国工農紅軍第四軍軍部旧址

中国工農紅軍第四軍の司令部が置かれたところ。もとは漢方薬店で、毛沢東らは ここで起居・執務した。寧岡県の県城の竜江河畔の後街にある。

茅坪旧址群

井崗山時代最初の政府機関が置かれた場所。1927年、井崗山にはいった毛沢東は、 最初この村に行政機関を置き、根拠地の中心とした。当所には地区工農政府跡や紅四軍軍部跡など 多くの旧跡が残っているが、なかでも有名なのが八角楼である。ここは当時、毛沢東が住居として 使っていた建物で、「中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか」という有名な論文を 執筆した場所。また八角楼の前にある慎公祠は1928年5月、湖南・江西境地区第1回代表大会が 開かれた場所である。さらに攀龍書院の1階と2階は紅軍病院として使われており、 3階は毛沢東の執務室だったところである。湘江辺界特別委員会・湘江辺界工農兵政府・ 紅四軍軍部・兵器工場など革命旧址が集中している。朱徳・彭徳懐・陳毅らの旧居もある。 茅坪は、寧岡県の東南。

五大哨戒所

敵の侵入を防いだ五大哨戒所の跡。それぞれ双馬石・八面山・黄洋界・桐木嶺・朱砂沖と呼ばれる。 1927年10月、毛沢東軍は、双馬石を通って井崗山に入山した。

大井

毛沢東が住んだ旧居がある。茨坪の西北7キロ。

小井

紅軍病院があった場所。近くにあるくぼ地は1929年、主力部隊が出払ったあと、敵軍が侵入し、病院にいた 100人あまりの傷病者を殺害したところ。殉難した烈士の墓がある。茨坪の西北6キロ。

遊撃洞

1929年1月、敵軍が哨戒所を突破して侵入してきたさい、紅軍がひそみ、長期にわたって戦いを続けた 洞窟。内部は、500人の収容能力があるといわれる。茨坪から15キロ。

七渓嶺

1928年6月に始まった「七渓嶺戦闘」の戦場となったところ。紅軍はゲリラ 戦術で敵軍を惑わし、 消耗させ、敵軍部隊1000人余りを殱滅した。

毛沢東朱徳会師広場

寧岡県

会師広場

井崗山で合流する毛沢東と朱徳

1928年4月末、朱徳の率いる南昌蜂起の残存部隊2000人および鉱山労働者や農民の武装部隊 6000人が井崗山へのぼってきた。ここは、合流した毛沢東の部隊と朱徳の部隊が、 紅軍第4軍として再編成された場所。合流した両軍は、新たに中国工農紅軍第4軍と称され、 毛沢東が党代表、朱徳が軍長に就任した。またこの時、毛沢東は、有名な「3大規律8項注意」を定め、 下士官から兵卒にいたるまで徹底して遵守させるようにした。広場には演壇が復元され、 当時の様子が再現されている。なお広場の前の会師橋は、両軍が最初に出会ったところである。 寧岡県の中心部を流れる竜江の河畔にある。

龍江書院

1928年春、井崗山にやってきた朱徳が毛沢東と最初に会見した場所。ふたりの会見は、 そのうち文星閣と呼ばれる3階建ての建物の2階で行われた。もとは清朝時代につくられた学校で、 井崗山時代は将校を訓練する軍官教導隊がおかれていた。井崗山会師記念館が併設されている。会師広場の近く。

瑞金 葉坪旧址群

瑞金県
瑞金の中華ソビエト臨時政府大会堂

1931年秋、中国共産党中央は各地のソビエト地区の代表を江西瑞金に集め、 毛沢東を主席とする中華ソビエト臨時共和国を樹立した。広大な中国全土からみれば、 人口わずか数百万たらず、しかも境界線すら流動的な、いわば“おもちゃ”のような共和国であったが、 独自の教育制度や貨幣制度も兼ね備えるなど、一応国家としての基本的な体裁は整っていたという。 ここは、その中華ソビエト共和国の中央政府が置かれた場所で、共和国の樹立を宣言した記念すべき 第1回全国ソビエト代表大会が開催された会議場(その後、中央政府として使われた)跡をはじめ、 毛沢東や朱徳らの旧居など多くの旧址が残されている。中華ソビエト政府はその後、 5回にわたる国民党による包囲攻撃をうけ、1934年10月に陝西をめざし長征に出発するまでの 約3年間存続した。なお葉坪にあった政府機関は、33年4月、近くの沙州覇に移転された。瑞金県県城東北の 葉坪村にある。瑞金は、江西の東南、福建との境にある。

瑞金中共中央政治局旧址

瑞金県
瑞金の指導者たち

中華ソビエト共和国の政府機関は、1933年4月、葉坪からここ沙州覇に移ってきた。中央政府跡をはじめ、 毛沢東や張聞天らの旧居、中国工農紅軍総政治部跡、レーニン小学校跡などが現存している。また1933年1月、国民党によって上海を追われた中共中央政治局が置かれた場所でもあり、博古(秦邦憲)らが ここで執務を行い、起居した。瑞金県の沙州覇。

瑞金中国工農紅軍総政治部旧址

瑞金県
執務中の鄧小平

1933年4月、政府の移転にしたがって紅軍総政治部も葉坪から当所へ移ってきた。建物は 一般の農家を改造したもので、機関紙『紅星報』の編集長であった鄧小平がここに 起居した。沙州覇の白屋子にある。

雲石山 長征第一山

瑞金県
長征後の瑞金

1934年8月、共産党指導部は国民党軍の爆撃を避けて、政府機関を沙州覇から、 雲石山の頂上にある古廟に移した。だが、戦局はますます悪化し、指導部はやむなく根拠地 の放棄を決定。10月18日、賀龍らの第2方面軍との合流をめざして西遷が開始された。 長征の第一歩となったため「長征第一山」とも呼ばれる。雲石山郷の東北。

秋収起義第三団団部旧址

銅鼓県

毛沢東が、秋収蜂起を発動・指揮した場所。1927年9月上旬、毛沢東はここに幹部を集め、 中国共産党の方針を伝達するとともに秋収蜂起の意義を明らかにした。同時に配下の農民軍を 工農革命軍第1軍第1師第3団に改編、かれらに銃を取るよう呼びかけ、ここに秋収蜂起が開始された。 傍らに銅鼓秋収起義紀念館がある。南昌の西方、湖南との省境近くの銅鼓県の南、粛家祠にある。

中共閩浙江委旧址

横峰県

1930年代、閩(福建)浙(浙江)江(江西)の省境地帯に設けられていた革命根拠地跡。省政府、 軍区司令部・新聞社・学校なども置かれ、この地方一帯の革命の中心地となっていた。旧址は大型の民家で、 省委員会書記の方志敏の執務室と居室があった。壁にはいまもなお当時の標語が残っている。江西の東部、 福建に近い横峰県の北方、葛源鎮楓樹鴻村にある。

中共中央湘鄂江省委旧址

万載県
蒋介石軍が築いたトーチカ

1932年4月に建設された革命根拠地。蒋介石はここを含むソビエト区に第四次包囲討伐作戦を行ったが、 紅軍はこれを株木橋に迎え撃ち、蒋介石軍600人あまりを戦死させた。江西の西部、万載県の西北、 湖南に近い仙源鎮の陳家屋にある。

河南

中共中央鄂豫皖分局旧址

新県

土地革命期(1927~37年)の鄂豫皖革命根拠地の首府。1931年、紅軍が新州(現在の新県県城) を占領したあと、鄂東(湖北東部)・予南(河南南部)・皖西(安徽西部)の3根拠地がここを 中心にひとつにまとまり、徐向前を指導者とする鄂予皖革命根拠地が築かれた。当時の旧址が 多く残っている。中国労農紅軍の第1号機レーニン号が誕生したのもここ。大別山の山中にあり、 風光明媚。安徽に近い湖北との省境にある。

湖北

八七会議会址

武漢

蒋介石の反革命クーデターによって第1次国共合作が終わりを告げた1927年8月7日、 中国共産党は臨時拡大会議(八七緊急会議)を開いた。会議では、国共合作失敗の原因は、 総書記である陳独秀の右翼日和見主義路線にあるとして陳独秀を解任。代わりに瞿秋白を総書記 とする新しい指導部を選出した。さらに土地革命と武力闘争を今後の方針として採択。湖南・湖北・江西・ 広東四省で秋収蜂起を行うことを決定した。また、毛沢東が「政権は銃口から生まれる」 と発言したのはこの会議である。武漢市の漢口のバン陽街139号。

湖南

秋収起義文家市会師旧址

文家市
文家市

第1次国共合作が崩壊した後の1927年9月、武漢を脱出し、湖南にもどった毛沢東は、 収穫期に合わせた農民軍による秋収蜂起を試みた。だが、内部からの裏切りもあり、 蜂起は数日もたたないうちに失敗が明らかとなった。そこで、毛沢東は当初の計画の長沙奪取をあきらめ、 湖南と江西との境にある井崗山にのぼって兵力を温存、再起を期することにした。ここは、 そのさい毛沢東が蜂起部隊を集め再編成した場所で、瀏陽県の文家市にある。もとは清代に建てられた学校跡で、 建物の壁には当時描かれた革命スローガンが、ほぼ完全な形で残されている。また旧址内には当時の資料を集めた 「秋収起義陳列館」がたてられている。長沙の東方、瀏陽県の文家市にある。

【関連史跡】近くに高陞嶺戦闘遺址と河口大屋革命漫画遺址がある。

湘鄂川黔革命委員会旧址

永順県
蒋介石軍が築いたトーチカ

1934年、蒋介石軍が百万の大軍をもって江西ソビエト地区を包囲攻撃すると、第2方面軍の賀龍らは、 湘(湖南)鄂(湖北)川(四川)黔(貴州)の省境地帯に脱出して新たなソビエト区を創設した。 ここは、当時、湘鄂川黔ソビエト区の中央機関が置かれていた場所で、司令部や各政府機関、学校、 病院など多くの旧跡が現存している。併設された陳列室には、当時の武器や軍用地図、 紅軍が用いた通信手段などの実物資料が展示されている。長沙の西北、省境に近い 永順県の県城東北約40キロの搭臥村、丁家院内にある。

広東
普寧県

南昌起義南下部隊指揮部軍事決策会議旧址

普寧県

南昌で蜂起した共産党軍は、革命の根拠地広東へ向かう途中の1927年9月、汕頭付近で蒋介石系の 国民党軍に迎撃された。敵の目をかいくぐり、いったん集結した共産軍の指導者は、10月1日、 ここで会議を開き、各部隊ごとに分かれて行動することにした。一部は、彭湃に率いられ、海陸豊地区に入り、 中国初のソビエト政権を樹立。別の一部は朱徳に率いられ、毛沢東の待つ井崗山へと向かった。広東東部、 汕頭に近い普寧県の流沙鎮、流沙教堂にある。

彭湃生家

海豊県
彭湃

中国共産党初期の農民運動指導者、彭湃の生家。1896年、当所にうまれた彭湃は、広州の学校を卒業した あと21歳で日本へ留学。早稲田大学で政治経済をまなんだ。留学中に社会主義思想にふれ、帰国後、 故郷の海豊で農民の組織化に尽力。1922年、広東初の農民協会、赤山約農会を設立した。その後、 中国共産党に加入し、要職を歴任。1927年の南昌蜂起にも参加し、同年10月には蜂起部隊をひきいて南下、 海豊に中国初のソビエト政権を樹立した。だが、29年には国民党軍にとらえられ、33歳の若さで刑死した。 広東の東南部、海豊県海城鎮の東方、竜舌埔にある。

彭湃紀念中学

もとの陸安全師範で、彭湃が学んだ学校。海豊県の県城北方の五坡嶺にある。

海豊紅宮

彭湃にひきいられ、南下した南昌蜂起軍の一部隊は、1927年10月、当地の農民とともに海豊県の政権を奪取。 ここに中国初のソビエト政権・海豊県ソビエト政府を樹立した。もとは、孔子をまつった寺廟だったが、大会当時、 外壁が赤く塗られ、会場内の壁もすべて赤い布で覆われたため紅宮と呼ばれるようになった。また 隣の広場は紅場(赤の広場)」と呼ばれ、ソビエト政府成立慶祝大会が開かれた場所で、壇上にあがった彭湃が、 会場につめかけた数万人を前に演説したところである。海豊県海城鎮にある。

赤山約農会旧址

1922年夏、早稲田大学留学から郷里に戻った彭湃は、農民の教育と組織化に乗り出した。共鳴したのは、 当初わずか6人ほどにすぎなかったが、その後、組織は急速に発展、やがて広東初の農民協会、 赤山約農会が結成された。ここは、その本部が置かれたところで、旧址の前にある榕樹は、 当時その下で彭湃が夜ごと農民たちに革命思想を説いた場所といわれる。海豊県海城鎮の東方、 竜山の麓にある。

得趣書室

農民運動を指導していたころの彭湃の書斎跡。彭湃は、ここで農民運動の研究に没頭していた といわれる。軍閥陳炯明に対する国民革命軍の第1次東征が勝利した1925年には中国共産党海陸豊地区委員会が 置かれた。海豊県海城鎮にある。

広州コミューン旧址

広州
広州コミューン旧址

広州コミューンの人民政府跡。 広州コミューン(広州公社、あるいは広州暴動ともいう)は、1927年12月、 広州市内に中国共産党がソビエト政府を樹立した事件。蒋介石の反革命クーデター後、独自に革命を続行しようとした 中国共産党は、8月の南昌蜂起、9月の秋収蜂起に引きつづいて、広州でも大規模な暴動を計画した。12月11日早朝、 張太雷、葉挺、葉剣英らは、労働者赤衛隊と教導団(将校養成部隊)を主力とする武装民衆を率いて蜂起。 またたくまに全市を制圧し、ここに蘇兆徴を主席とする広州ソビエト政府を樹立した。この中国初の赤色都市政権は 「東方のパリ・コミューン」とたたえられたが、3日後には国民党の反撃に会い、あえなく崩壊した。ここは当時、 人民政府が置かれた場所で現在、広州蜂起記念館となっている。館内には張太雷ら指導者の胸像をはじめ政府執務室跡、 赤衛隊本部跡、武器庫跡などが残っている。解放北路と中山路の交差点に近い起義路100号。広州起義烈士陵園の西。

広州起義烈士陵園

広州
広州起義烈士陵園

1927年12月、共産党員の張太雷や葉剣英らは武装した労働者・民衆を率いて決起。市街の大半を占拠し、 人民政権を樹立した(広州コミューン事件)。だが、国民党軍との圧倒的な戦力差に、コミューンはわずか3日間で崩壊、 およそ5000人にのぼる人々が処刑された。新中国成立後、その刑場跡に壮大な陵園が建築され、 広州起義烈士陵園と命名された。中央には銃を持つ手をかたどった巨大な記念塔がそびえ、 周囲は松や柏が生い茂る静かな公園となっている。中山三路の紅華崗。

広西壮族自治区 

広西右江革命記念館(百色蜂起旧址)

広西壮族自治区 
百色

 国共合作崩壊後の1929年夏、上海の共産党中央は、広西地区に革命根拠地をつくることを計画した。 指令をうけた鄧小平は、ベトナムのハイフォン経由で百色に潜入。12月、壮族の農民指導者韋抜群 とともに百色蜂起を引き起こし、「右江ソビエト政府」を樹立した。さらに翌年2月には左江も占領し、 ここに左右江ソビエト地区が形成された。ここは、当時の右江ソビエト政府が置かれた場所で、百色市の東南方、 田東県の平馬鎮にある。現在、広西右江革命記念館として、百色蜂起にかんする遺品や資料などが展示されている。

【関連史跡】右江ソビエト政府成立と同時に結成された紅七軍軍部跡と紅7軍政治部跡が、 百色市内に残っている。それぞれ市内東北の中山路をはさんだところにある。また中山路のつきあたり、 中山大橋のむこうの丘に百色起義記念碑が立っている。

陝西

兵諫亭

西安
張学良と楊虎城

中国革命史上、重要な転換点となった西安事件の現場跡。1936年12月12日の早朝、張学良の部隊が突如、 蒋介石の宿舎を襲撃。逃げようとした蒋をこの場所で捉えた。張学良は蒋介石を監禁して、 共産党との連携と一致抗日を迫ったが、蒋介石はこれを拒否。その後、延安から周恩来が説得 におもむくとようやく妥協がなり、事件は一応平和裡に解決された。この事件をきっかけに翌年、 第2次国共合作が成立した。市の東北郊外、楊貴妃と玄宗皇帝のラブロマンスで有名な 華清池の裏山の中腹にある。麓にある「五間亭」は当時蒋介石が宿泊した建物で、 その窓ガラスには今も弾痕が残っている。

張学良公館

西安
張学良

西安事件当時、東北軍の将軍 張学良が、官邸として使っていた建物。1932年に建てられたもので、 3階建ての洋風建築。西楼の3階が張学良とその家族の居室で、中楼が応接室と会議室として使われた。東楼は、 事変直後、延安から調停にやってきた周恩来と葉剣英が宿舎にしたところ。なお事変のさい、張学良、蒋介石、 共産党の三者交渉は、中楼で行われた。西安事件紀念館が併設されている。城内東南の建国路69号。

【関連史跡】城内北部、青年路にある「止園」は、張学良とともに事変の立役者となった西北軍の楊虎城将軍 の別荘跡。現在、楊虎城将軍に関する資料が展示されている。

楊虎城公館

西安
楊虎城

西北軍を率いる楊虎城が使用していた官署。1933年の建築で主楼は円屋根、青瓦、 朱塗りの柱を持つ中国伝統の宮殿型建物。西安事件前夜、張学良と楊虎城はここで密議 をめぐらした。止園ともいう。北大街青年路にある。

貴州

遵義会議会旧址

遵義
遵義会議旧址

瑞金をあとにした中国紅軍第1方面軍は、追撃する蒋介石軍をふりきり1935年1月、 ここ貴州遵義にたどりついた。毛沢東はここで政治局拡大会議の開催を要求。それまでの指導のありかたを 総括する会議が3日間にわたって開かれた。会議では、周恩来の率直な自己批判もあり、博古や オットーブラウンらの戦術上の誤りが決議され、指導権はふたたび毛沢東の手に移ることになった。ここは、 その遵義会議が開かれた建物で、2階建ての洋風建築。会議室は2階にあり、中には参加者の顔写真とともに 当時採択された「包囲討伐戦に関する総括的決議」書が展示されている。旧市街区紅旗路にある。

【関連史跡】遵義滞在中、中共幹部が利用した建物が、市内に残っている。会議旧址から約1キロ離れた新城にあり、 中共中央負責人遵義寓所の名で呼ばれている。2階建ての洋館で、 2階に毛沢東の部屋がある。遵義は貴陽の北約100キロ。

中共中央負責人遵義寓所

遵義
イ族との交渉

遵義に滞在中、幹部(負責人)が起居・執務した建物。2階建ての洋館で1階には博古の、2階には毛沢東、 張聞天、王稼祥の部屋がある。遵義市内新城にある。遵義会議旧址から約1キロ。

婁山関

遵義
婁山関

1935年2月、遵義を出発した紅軍は、ここで敵軍と最初の激戦を繰り広げた。古くから戦場となった天険で、 そのさい毛沢東が詠んだ「秦娥を憶う婁山関」という詩を彫った碑が建てられている。遵義県の大婁山にある。

長征 茅台鎮

仁懐県

1935年3月、紅軍はここを通って3回目の赤水河の渡河を行い、四川南部へ向かった。河畔に 紅軍渡河紀念碑と紅軍烈士陵園がある。仁懐県の赤水河河畔にある。

雲南

扎西会議会址紀念館

威信県
長征中の紅軍

1935年、毛沢東の率いる紅軍は、ここに総司令部を設けた。左側の建物で軍事委員会拡大会議を開催し、 今後の計画を討議した。革命に関する文物が多数展示されてある。威信県扎西鎮にある。

中央紅軍総部駐地旧址

尋甸県
長征中の紅軍

1935年4月、長征途上の中央紅軍は丹桂村に駐屯し、総司令部を当所に置いた。近くの清真寺 (イスラム教寺院)の壁に「紅軍は絶対に回家工農群衆の利益を保護する」というスローガンが 残っている。昆明市の北方約80キロ、尋甸回族イ族自治県丹桂村にある。

石鼓渡口

麗江県

1936年4月、賀龍らが第2方面軍を率いて金沙江を渡った場所。「賀龍、石鼓を敲く」 という伝承が語り継がれている。渡し場に、渡江紀念碑と資料の陳列室がある。昆明の西北、 麗江納西族自治県の県城西方の金沙江河畔にある。

四川

大邑地主荘園陳列館・収租院

大邑県

この地方の大地主だった劉文彩の邸宅跡。劉文彩は、わずか6人の自分の家族を養うために100人以上の召使いを使い、 1個中隊に匹敵する私兵をおいて、農民たちの上に封建領主のように君臨していたという。現在は、陳列館となっており、 その建物や残された遺品を通して当時の地主階級のぜいたくな生活ぶりがうかがわれて興味深い。また内部にある収租院には、 農民に対する小作料取り立てをテーマにした人形が配置され、当時の過酷な農民支配の情景を生々しく再現している。成都の東隣、 大邑県安仁鎮場にある。

紅軍強渡大渡河遺址

石棉県
大渡河

金沙江を渡った紅軍は1935年5月、大渡河の南側安順場に到達した。向こう岸へ渡ろうとした紅軍は、 まず南岸にもやってあった船に先鋒隊を乗せ、対岸へと送り込んだ。先鋒隊は、激烈な戦闘ののち対岸の渡し場を占領。 早速、船を回して主力部隊の輸送にとりかかったが、困ったことに渡し船は3隻しかない。渡河に手間取っているすきに、 蒋介石の空軍が激しい爆撃を加えてきた。やむをえず紅軍は、すでに向こう岸へ渡った部隊 とともに河岸を並行してさかのぼり、濾定橋まで移動することにした。石棉県西部の安順郷にある。

濾定橋

濾定県
濾定橋

安順場での渡河に失敗した紅軍は、ここで再び渡河に挑戦した。だが、紅軍の前に横たわっていたのは、 踏み板をはずされた16本の鎖からなる朽ちかけた吊り橋ひとつであった。それでも紅軍は22人の兵士を募り、 決死の渡河を試みた。銃弾が雨あられと降り注ぐなか、決死隊はひとりまたひとりと怒濤逆巻く急流のなかへ 消えていった。しかし、運良く向こう岸へ近づいた兵士のひとりが手りゅう弾を敵のトーチカに 投げこむと敵は総崩れとなり敗走。紅軍主力は、踏み板を渡した橋の上をゆうゆうと渡ること ができた。なおこの大渡河は、かつて太平天国の石達開が渡ろうとして渡れず、全滅した河でもある。 濾定県城西方の大渡河に架かる橋。橋のたもとに四川大渡河瀘定橋陳列館がある。

イ海結盟遺址

免寧県
イ族との交渉

1935年5月、紅軍がこの地を通過したさい漢民族に敵意を抱くイ族に包囲された。交渉の任に当たった 総参謀長の劉伯承は、酋長の小葉丹と会談。中国共産党の民族政策を説明し、 紅軍は決して少数民族の敵ではないことを訴えた。イ族の長は納得し、約束の明かしとして鶏の血をすすり合い、 劉伯承と義兄弟の契りを交わした。免寧県県城から約30キロほど離れた旋烏郷にある。

長征 大雪山

大雪山

1935年6月、万年雪をいただくチェン峡山脈にさしかかった長征軍は、これまで誰も試みたことのない 大雪山越えを行った。最大の難所は、海抜4000メートル級の夾金山。紅軍は、ほとんど防寒装備を持たず、 大勢の兵士が凍死した。「大雪山越えは長征の大きな試練であった。風雨や氷やひょうが耐えず、 紅軍を襲った。数百の同志が倒れて2度と起き上がらなかった。しかし、 紅軍はその屍を越えて前進した!(毛沢東)」。チェン峡山脈は、四川成都の西方に南北に横たわっている。

松潘 長征

大湿原地帯

1935年9月、毛沢東率いる長征軍は、四川の北部に横たわる松潘の大湿原地帯にさしかかった。 青草以外に食べるものもなく、しかも雨と風と雪が連日のように荒れ狂い、多くの同志が泥沼のなかに のみ込まれていったという。松潘は、四川北部の大湿原。

甘粛

臘子口戦役遺址

迭部県

毛沢東の長征軍は、四川の大湿地帯をようやく脱けた1935年9月、 断崖絶壁にはさまれた天険のあい路、臘子口にさしかかった。長征軍は、待ち伏せしていた国民党軍を 激戦のすえ撃破し、次の目的地である六盤山へと向かった。毛沢東は、のちにこのときの勝利を 「更に喜ぶ岷山千里の雪、三軍過ぎてのち尽く(ことごとく)開顔(わらう)」と詩に 詠んでいる。蘭州の南、四川に接する迭部県の県城西北約120キロ、岷山山脈に属する迭山山中にある。

会寧会師遺址

会寧県
張国熹と毛沢東

毛児蓋で分裂行動をとり、四川西北部へ向かった張国熹の部隊は、あとからやってきた 賀龍ら第2方面軍の説得により、根拠地建設を断念して北上。1936年10月8日、早朝、 迎えに来た旧第1方面軍の部隊と当所で合流した。会寧県の県城にある。


日中戦争は誰が引き起こしたのか?

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