辛亥革命関連史跡

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辛亥革命関連史跡
遼寧省
旅順

旅順 粛親王王府跡

粛親王府(photo by kamakura)

辛亥革命後の1912年、清朝復興を悲願とする旧筆頭皇族・粛親王善耆が日本人大陸浪人川島浪速の手引きで北京を脱出。日本軍の管理下にあった旅順に亡命してきた。ここはその粛親王がその一族と暮らした邸宅跡。

粛親王家は満州鑲白旗に属する名門で、清朝の八大世襲王家の筆頭に数えられている。初代粛親王ホーゲは清朝建国時に活躍した武将で、善耆はその10代目にあたる。

粛親王善耆は、清朝末期の早い時期から日本の明治維新に習うべしとして、立憲君主制のもとでの体制変革を主張していた。とくに義和団事件後は、政府の要職についてさまざまな改革を押し進め、開明皇族として知られていた。摂政王醇親王暗殺未遂事件の際、犯人である汪兆銘の人物を見込み、その助命嘆願をしたのもこの粛親王とされる。

粛親王

また義和団事件の解決に活躍した日本人大陸浪人・川島浪速と義兄弟の契りを交わしたことはよく知られたエピソードである。

1911年、辛亥革命が勃発すると恭親王とともに宣統帝の退位に強く反対したが、退位がさけられないとみるや、川島浪速の手引きで北京を脱出。日本軍の統治下にあった旅順に一族を引き連れて亡命した。

そこで清朝復興をめざす宗社党の中心人物となった粛親王は、1912年と16年の二度にわたって満蒙独立運動を引き起こすも、準備不足や政治情勢の急変などによりいずれも失敗に終わった。

22年に急死した後は、清朝復興の悲願は娘の愛新覺羅顯玗、日本名・川島芳子に引き継がれることになる。ちなみにのちに男装の麗人として知られるようになるこの有名な女性スパイは5歳から8歳までの3年間をここで暮らした。

また善耆の第7王子で、満蒙独立運動に父の名代として参加した金壁東(後の満州国初代新京市長)もここで育った。

さらに愛新覚羅溥儀も満州国執政就任のため新京に移動する前、妻の婉容とともに滞在したことがあるという。


幼年期の川島芳子

ここはもともとロシア軍の官舎だったものを日露戦争後、日本が接収。関東軍民生部長官宅として使用していた建物である。

だが、1945年、戦争で日本が敗れると後ろ盾を失った一族はここを退去、進駐してきたソ連軍に接収された。戦争に翻弄され続けたこの建物は数奇な運命の末、こうして40年ぶりにふたたびロシア人の手に戻ったのである。

なお敷地内にあったとされる粛親王の功績を記した石碑は、中華人民共和国成立後にいったん破壊されたものの、のちにその下半分が見つかり、現在、旅順監獄旧址内に保存されている。

大連市旅順口区新華大街9号にある。

北京

孫中山逝去記念堂・孫中山行館

晩年の孫文

辛亥革命の指導者、孫文臨終の建物。1924年、第2次奉直戦争後の混乱を収拾するため、「北上宣言」を発し、 広州から北京へ向かった孫文は、途中病に倒れた。肝臓ガンの末期であった。いったん北京の協和医院に入院したものの、 死を覚悟した孫文は協和医院を出て、ここで最後の日々を過ごした。だが、病状はしだいに悪化し、翌年3月12日朝、 宋慶齢夫人はじめ多くの友人が見守るなか、「革命いまだ成功せず」の言葉を残して59年にわたる波乱の生涯を 閉じた。建物は現在記念堂として一般公開されており、内部には死の床となった寝室や、「孫文遺嘱」 を展示した応接間などが残っている。市内東城区張自忠路23号。故宮の東北、地安門東大街と交道口南大街が交差する 一角。崇文門から出ている108路トロリーバスを利用するのが便利。

北京孫中山関連史跡

孫中山紀念堂

北京で死去した孫文の遺体は、当初、市内の碧雲寺に安置された。ここはその碧雲寺の 一部を改装して紀念堂と したもので、堂内には孫文の胸像とソ連政府から寄贈された棺が置かれている。堂内には孫文の「ソ連への書簡」 をはじめ、辛亥革命に関する多くの文献・資料が展示されている。北京市香山の碧雲寺にある。

協和医院

天津で肝臓ガンに倒れた孫文は1925年1月26日、当時北京最大だったこの病院に入院した。だが すでに末期症状に入っており、治癒は不可能と診断された。現在、首都医院という名でも呼ばれて いる。北京市東単北大街。

中山堂

孫文の死後、一時その遺体を安置したことがある。もとは皇帝が休んだり、雨中で祭祀をしたりするのに使った建物で、 市内中山公園内にある。

江蘇

中山陵

南京
中山陵

孫中山(孫文)の陵墓。国民党内で孫文の衣鉢を継いだ蒋介石が3年の歳月をかけて建造させたもので、 1929年の完 成。3000ヘクタールにもおよぶ広大な敷地をもち、そのほとんどが鬱蒼とした山林で 占められている。参道の石段は全部で392段あり、頂上から振り返った時の眺めがまた素晴らしい。頂上の 墓室には孫文の臥像とともに遺体を納めた棺が安置 されている。南京市の東郊、紫金山の中腹にある。9路のバス。

【エピソード 孫文の機転】
赤坂の内田良平宅で行われた同盟会結成準備式には、かなりの数の革命家が集まったと伝えられている。ところが、あまりに大勢の人間が詰めかけたため、会の途中、床が突然抜けるというハプニングが起こった。その瞬間、革命家たちの顔色がさっと曇った。いくら進歩的な革命家たちとはいえ、当時の迷信からも完全に自由であったわけではない。「床が抜けるなど不吉な…」誰もがそう思ったからである。だが、そこはさすが孫文。「清朝の屋台骨をぶち抜いたぞ!」ととっさに機転をきかしたため、一同はかえって気勢をあげたという。

孫中山臨時大総統弁公原址

孫中山臨時大総統弁公原址

辛亥革命直後に発足した中華民国臨時政府の大総統官邸として使われていた建物跡。現在、 孫中山臨時大総統弁公原址として一般公開されている。東側にあるのが孫文の執務室で、 壁には孫文自筆の「奮闘」の書が掲げられている。西側は大会議室で、1912年1月1日に孫文が 臨時大総統の就任宣誓式をおこなった場所であるため、別名宣誓庁とも呼ばれている。また孫文と その家族が住んだ建物も残されている。なお、ここは11940年に発足した日本の傀儡政権、 汪兆銘の南京政府の総統府跡(偽総統府と呼ばれる)でもある。長江路292号。天王府跡のとなりにある。

粤軍陣亡烈士墓

清朝軍

辛亥革命の帰趨を決した南京攻略戦では、張勲率いる清朝軍と粤(広東)軍との間で激しい戦闘が行わ れた。その際、戦死した広東軍兵士たちがまつってある。孫文の筆 になる「建国成仁」の墓碑銘が立って いる。市内莫愁湖公園内にある。

南通博物苑

南通
張謇

清末の民族資本家で立憲派の指導者でもあった張謇がつくった中国最初の博物館。歴史文物の他、 自然科学の標本も数多く展示されている。市内南濠河の河畔にある。

熊成基墓

揚州
熊成基

熊成基は、揚州出身の革命家で光復会会員。1908年、安慶で蜂起を試みたが失敗。 その後、 1910年にハルピンで海軍大臣載洵の暗殺をはかったが、失敗し、処刑された。痩西湖畔の蜀崗の中峰の万松嶺にある。

上海

宋教仁墓

上海
宋教仁墓

宋教仁は1882年、湖南桃源県に生まれた。22歳の時、黄興らと革命団体興中会を創立。長沙で 蜂起をはかったが失敗し、日本へと亡命した。日本では法政大学や早稲田大学で学ぶ一方、 中国同盟会の成立にも関わり、1905年、その湖南分会副会長に選ばれた。その後、中国東北地方へわたり、 同盟会遼東支部の設立に尽力。またその間、『間島問題』を著わし、日本の同地域への侵略意図を暴露したこと もある。辛亥革命後は、南京臨時政府の法制院総裁となったが、実権が袁世凱に移るやかつての同盟会を 中心に小政党を糾合し、国民党を創設。1912年に行われた中国初の国会選挙では、圧倒的な議席を獲得 した。だが、1913年3月、袁世凱がさしむけた刺客によって上海駅頭で暗殺された。まだ31歳の若さ だった。墓は円形をなしており、上部には鷲の像が飾られている。市内北部の閘北公園内。

宋教仁暗殺現場

辛亥革命の指導者・宋教仁が暗殺された場所。宋教仁は1913年、上海駅頭で袁世凱がさしむけた刺客によって 暗殺された。今の上海北駅。

鄒容墓

上海
鄒容とその著書『革命軍』

四川巴県出身の革命家鄒容の墓。日本留学から帰国した鄒容は、1903年、清朝の打倒を 呼びかけるパンフレット『革命軍』を執筆。内外の知識人や青年に大きな影響を与えた。同年6月、 反政府系の新聞記事に皇帝に対する不敬な表現があったとする『蘇報』 事件に連座して逮捕され、 禁固2年の刑を言い渡された。だが、1905年4月、刑期を終える前に獄中で病死した。享年21歳 であった。 上海県華けい鎮の西部にある。

浙江

秋瑾墓

杭州
秋瑾

清末の女性革命家秋瑾の墓。台座には孫文の筆になる「鑒湖女侠千古」の題字がはめ込まれ、その上に左手を 腰に右手に剣を握った白亜の秋瑾像が立っている。前方を凝視したその凜とした表情からは、女侠の名に ふさわしい烈々たる気迫が伝わってくる。秋瑾は生前、この西湖のほとりに埋葬されることを希望 していたが、処刑後は当局の目がきびしく、遺体は同志らの手で転々とした。だが、辛亥革命によって 清朝政府がほろぶと、願いはようやくかなえられ、1913年、孫文立会のもとでここに葬られたと 伝えられる。西湖の孤山、西冷橋のたもとにある。

徐錫麟墓

杭州
徐錫麟

清末の革命家徐錫麟の墓。1907年の安慶起義に失敗して刑死した徐錫麟の遺体は、辛亥革命後、 西湖の孤山に葬られたが、のち当地に改葬された。市の西南郊外、南天竺(龍井路)の演福寺境内。

章太炎記念館

杭州
章太炎

清末の革命家・章太炎の記念館。章太炎(章炳麟ともいう)は1869年、浙江余杭の生まれ。1903年、 『蘇報』事件の主犯格として鄒容とともに禁固刑を受け、2年間の獄中生活を過ごした。出獄後は、東京へわたり、 同盟会の機関紙『民報』で、梁啓超らの保皇派と激しい論戦を展開、世論を革命派の優勢に導いた。章太炎は、徹底した 民族主義者として知られ、当時中国人の間で一般的だった長袍は北方異民族の服、日本の呉服こそ本来の漢民族の伝統を 受け継ぐものとしてもっぱら呉服を愛用したという。晩年は日本の中国侵略に反対し、蒋介石の無抵抗主義を きびしく批判した。1936年の死去。館内には、その遺品や著作などが数多く展示されている。西湖の南岸、 花港観魚に近い南屏山麓にある。また、章太炎の墓は、南天竺(龍井路)の演福寺にある。

陶成章墓

杭州

清末の革命家・陶成章の墓。光復会の指導者として浙江を拠点に活躍した陶成章は、1907年の挙兵計画発覚後は、 日本へ亡命し、同盟会幹部となった。だが、しだいに孫文と対立するようになり、独自の分派活動を推し進めた。辛亥革命後、 浙江都督に任じられたが、当時滬(上海)軍都督だった陳其美と意見が合わず、1912年1月、蒋介石がさしむけた刺客に よって上海で暗殺された。浙江杭州市の西部、南天竺(龍井路)の演福寺にある。

浙軍攻克南京陣亡将士墓

杭州
辛亥革命時の兵士

南京攻略戦で犠牲になった浙江両省の兵士43名が葬られている。辛亥革命時、革命軍は南京を攻略しようとしたが、 駐屯する清軍が頑強に抵抗したため 一時鎮江に退却して援軍を求めた。これに対し、江蘇・浙江両省の革命派は、 ただちに義勇軍を編成。南京革命軍と合流し、ついに南京を陥落させた。杭州市の西部、南天竺(龍井路)の演福寺にある。

秋瑾故居

紹興
秋瑾故居

清末の女性革命家秋瑾の実家跡。役人であった祖父の任地、福建アモイに生まれた秋瑾は16歳のとき、 家族とともに紹興に帰郷、ここで少女時代をすごした。その後、21歳で結婚、夫にしたがって北京へ出たものの、 1900年に起こった義和団事件を目の当たりにし、革命家となることを決意。夫と子供を置いて日本へ留学した。帰国後は、 再び紹興に舞い戻り、体育学校の校長という身分を隠れ蓑に同志の徐錫麟らとともにひそかに革命運動を推し進めた。だが、 1907年夏、徐錫麟の安慶蜂起が失敗すると、共同謀議のかどで逮捕、処刑された。なお伝えられるところによれば、 処刑の際、「秋雨秋風人を愁殺す」という絶命詞を残したとされる。実家跡は現在、秋瑾故居および秋瑾記念館として 一般公開されている。館内には彼女の書簡や詩文、生前愛用していたショールや日本刀、さらに外出の際、 常に身につけていたという拳銃などが展示されている。市内解放南路を南にくだり、応天塔を右側にはいった 和暢堂22号にある。

【関連史跡】なお処刑場となった解放路の軒亭口には現在、秋瑾烈士記念碑がたっている。また府山公園には秋瑾を記念 した東屋、風雨亭がある。

秋瑾紀念碑

1917年7月16日朝、秋瑾はここで処刑された。碑は辛亥革命勝利後に建立されたもので、正面に「秋瑾烈士紀念碑」 の題字が彫ってある。紹興市の解放路のちょうど真ん中 あたりの軒口亭。

大通師範学堂

紹興
大通学堂

清朝末期の革命結社光復会が設立した士官養成学校跡。もとは貢院(官吏登用試験の地方レベルの試験場)として使われていた建物で、 紹興市の市街南部にある。校長となったのは清末の女性革命家・秋瑾で、表向きはたんなる体育学校にすぎなかったが、 真の目的は革命軍士官の養成にあったといわれる。1907年、安徽で徐錫麟による蜂起が失敗すると共同謀議のかどで、 秋瑾ら大通学堂の主だった指導者は逮捕・殺害され、同時に大通学堂も閉鎖された 。奥に徐錫麟を記念した徐公祠が設け られている。紹興市勝利西路563号。

徐錫麟故居

紹興
徐錫麟故居

清末の革命家・徐錫麟の生家跡。徐錫麟は、1873年の生まれ。青年時代まで郷里で学校の教師をしていたが、 のちに日本に遊学。帰国後、当地の会党(仁侠組織)とひそかに連絡をとり、革命グループの組織化をはかった。そのかたわら、 秋瑾らとともに紹興市内に大通学堂を設立。新式体操の授業をかくれみのに革命軍の養成にあたった。だが、1907年、 安慶での蜂起に失敗し、刑死した。故居には、同志にあてた書簡や詩文をはじめ、教育用に自ら作製したといわれる 天球儀などが展示されている。市の西郊、東浦鎮。人家が密集した運河沿いにあり、ちょっとわかりにくい。

蔡元培故居

紹興
蔡元培故居

蔡元培(1868~1940)の生家跡。もと清朝の役人だった蔡元培は、日清戦争における敗北や戊戌変法の失敗をきっかけに、 官職を捨て革命家へと転向。1904年、浙江の同志と語らい光復会を結成し、その会長に就任した。辛亥革命後は、 北京大学学長として、それまでの儒教中心の学風を、実学を柱とした革新的な学風に改めた。また陳独秀や李大釗ら を教授として招いたのも彼で、その意味から五四運動を準備した功労者の一人とされる。場所は市内北部の粛山街から、 北に入った小さな路地。門を入ると中庭があり、右手が陳列室になっている。陳列室には、五四運動の際、 発表した『北京大学生と全国の学生に告ぐる書』全文をはじめ、多くの遺品や資料が展示されている。市内北部の 筆飛弄13号。東風映画館からみてちょうど裏側あたり。

安徽
安慶

馬炮営起義会議旧址

安慶

馬炮営起義は1908年10月26日、熊成基率いる 安慶駐屯の新軍内の革命党員が決起した事件。ここは決起直前、 指導者らが作戦会議を開いた建物跡である。ちなみにこの決起は他の部隊の呼応が遅れたため失敗に終わった。安慶市街東北隅、 楊家塘の葉氏会館にある。

福建
福州

于山・大士殿

福州

辛亥革命の福州奪回戦役の際、革命軍側の攻撃陣地と前敵総指揮部が設けられた場所。1911年11月9日未明、 革命軍は発砲を合図に総攻撃を開始、軍署と八旗兵が集まっていた山麓の旗下街を砲撃によって壊滅させ、 清朝軍の手から福州を再び奪回した。なおその際、政府軍の朴寿将軍は、大士殿の西側にある練丹井の近く で殺害されたという。市の中心部にある。

河南

袁世凱墓

安陽
袁世凱とその家族

北洋軍閥の実力者袁世凱の陵墓。袁世凱は辛亥革命の後、孫文から中華民国臨時大総統の地位を奪うと1915年、 帝制復活を宣言。自ら皇帝になろうとした。だが、全国民の非難にあい、翌年6月失意の中、北京で死去した。その後、 北洋軍閥政府は、遺言にもとづき2年の歳月と150万両の銀をかけ陵墓を造営した。参道に石像を配したその陵墓は、 歴代皇帝の墓を思わせる豪壮なもので、別名「袁林」とも呼ばれる。市内東北部、安陽河の北岸にある。

湖北

武昌起義軍政府旧址

武漢
武昌起義記念館

武昌蜂起の際、湖北革命軍政府が置かれた建物。1911年10月10日、武昌で蜂起した革命派は、わずか1日のうちに 武昌全域を占領、ここに黎元洪を首班とする湖北革命軍政府を樹立した。ここは以前、湖北諮議局(議会)だった建物で、 赤レンガ造りのため別名武昌紅楼とも呼ばれている。正門前に、帽子とステッキを持った孫文の銅像があり、 中には講堂跡、黎元洪が使用した部屋、黄興が作戦会議を開いた部屋などが残っている。市内黄鶴楼のちょうど裏側、 蛇山のふもとの首義路にある。1、4、10、64路バスで閲馬場下車。

三烈士亭

武漢
炎上する武漢市内

武昌蜂起のきっかけを作った3人の革命家の殉難を記念して立てられたあずま屋。1911年10月9日夜、 漢口のロシア租界で爆弾の暴発事件が発生。現場にいた革命派の1人、孫武が重傷を負って病院に運び込まれた。これを 知った清朝当局は、革命派のアジトへ踏み込み、革命党員20数名を逮捕、そのうち首謀格の3名を銃殺刑に 処した。これに対し蜂起計画が発覚するのを恐れた清軍内部の革命派は、その日の夜、ただちに蜂起に踏み切る ことを決定。ここに武昌蜂起が勃発することになった。辛亥革命成功後、3名が銃殺された通りは三烈士街と改称され、 処刑現場には3人の功績を記念して八角形のあずま屋が設けられた。湖北武漢市の武昌の三烈士街にある。

拝将台

武漢
黎元洪ら革命軍指導者

武昌蜂起の報を聞き、上海から急行した黄興は、1911年11月3日、革命政府都督の黎元洪から戦時総司令に任命され、 革命軍の指揮にあたった。ここは、その任命式が行われた 場所で、台座の正面に「拝将台」の3字が描かれ ている。湖北武漢市の閲馬廠の南端にある。

起義門

武漢

武昌蜂起の火ぶたを切った城門。1911年10月10日夜7時、蜂起した革命軍はまず近くにあった武器 庫を占拠、清軍への武器の補給を絶つとともにこの城門を開けて城外にいた革命勢力を城内に引き入れることに成功した。以来、 この門は武昌蜂起の火ぶたを切った城門として起義門と称されている。赤い柱と華麗な垂木からなる壮麗な城楼で、 上部には 葉剣英の筆になる「起義門」という字を彫った石額がはめ込まれている。湖北武漢市の武 昌の起義街にある。

 

湖北博物館

武昌蜂起 に関する資料が豊富に展示されている。武漢市東湖景勝区の梅嶺の北にある。

湖南

黄興墓

長沙
黄興

孫文と並ぶ辛亥革命の指導者・黄興の墓。黄興は1874年、長沙の生まれ。1904年、同郷の宋教仁らと 革命結社華興会を結成、湖南を中心に反清武装蜂起を画策した。だが失敗に終わり、日本に亡命。翌年、 宮崎滔天のあっせんにより東京で孫文と会見、革命結社中国同盟会を組織した。武昌蜂起の際は、外遊中の孫文に代わって 事実上の総司令として活躍。南京臨時政府では、陸軍総長をつとめた。袁世凱による政権纂奪後は討袁軍の先頭に立って 第2革命を指導したが、やがて病に倒れ、1916年上海で病没した。市内湘江対岸の岳麓山にある。

蔡鍔墓

長沙
蔡鍔

辛亥革命で活躍した軍人・蔡鍔の墓。辛亥革命の際、雲南の蜂起を指導した蔡鍔は、のちに袁世凱が皇帝を僣称すると 護国軍を組織、第3革命の口火を切った。日本の陸軍士 官学校の出身で1916年日本で病没。湖南長沙の岳麓山にある。

広東

黄花崗七二烈士墓

広州
黄花崗七二烈士墓

黄花崗蜂起で犠牲となった革命烈士の墓。1911年4月、黄興率いる革命党員は広州で大規模な武装蜂起を行った。だが、 蜂起は結局失敗に終わり、その際の戦闘で革命党員100人あまりが命を失った。その後、同盟会員の潘達微の奔走によって 72人分の遺体だけが回収され、ここに葬られた。墓は石を積み上げたピラミッド状の建造物で、上には松明をかかげた 自由の女神が立っている。市の北郊、先烈路にある。6路・11路・16路バスで黄花崗下車。

【関連史跡】黄花崗蜂起の指揮部跡は現在、「三・二九」蜂起指揮部旧跡記念館となっている (黄花崗蜂起は旧暦3月29日に起こったためこう呼ばれることがある)。場所は越華路小営巷。越華路は市政府の東側に伸びる道路。

庚戌広州新軍起義烈士墓

広州

広州で蜂起した新軍(革命軍)兵士の墓。1910年2月、同盟会の倪映典は、3000人あまりの新軍を率いて広州で決起。 牛王廟付近(現、先烈路)で清軍と激しい戦いを展開した。その際、戦死した倪映典ら数十人の 革命烈士が葬られている。市の北郊外、 先烈路にある。

中山紀念堂

広州

孫文の業績を称えて建造された記念堂。辛亥革命後、広州市民と海外華僑が資金を出し合って造ったもので、 八角形の 屋根を持つ独特な宮殿様式。敷地はもと清朝軍の詰所だった所で、辛亥革命直後は革命軍の司令部が置かれた こともある。支那事変時、日本軍に爆撃され、屋根の一部が破壊されたが、1963年に大規模な修理を施した。 記念堂の前庭に、ステッキをもつ孫文の像が立っており、敷地内には孫文記念館が併設されている。市内越秀山の南麓にある。

中山紀念碑

孫文の業績を称えた記念碑。高さ約40メートルで、花崗岩づくり。正面に孫文の遺言の全文が彫って ある。越秀山の山頂にある。

広東近代史陳列館

広州

アヘン戦争から辛亥革命にいたる広東の近代史を扱った歴史博物館。入口には、アヘン 戦争の際、虎門砲台で 使用された大砲が飾られている。広東博物館内。文明路と越秀 路の交差点にある。

孫文故居

中山
孫文生家

辛亥革命の指導者、孫文の生家。1866年に生まれた孫文は、13歳でハワイへ渡るまでここで過ごした。現在の家屋は、 ハワイからもどった当時26歳の孫文が自ら設計したもので、レンガづくりの2階建て。洋風と中国風をミックスした ユニークなデザインが、ひときわ目を引く。また面白いのは、周辺の家とは異なり西向きに建てられていた点。当時、 西向きの家は家相上よろしくないと誰もが信じ込んでいた時代であり、こうした大胆で型破りな設計のなかにも 伝統や迷信にとらわれない孫文の自由な精神がうかがえる。孫文故居紀念館が併設されており、少年時代の遺品をはじめ 孫文に関する資料が展示されている。また展示資料の中には、孫文を援助した日本人志士、山田義政や宮崎滔天らの名前も 見える。中山市の南郊、翠亨村にある。中山市内から東路線拱北行きのバスで翠亨村下車。

中山紀念堂

孫文の業績を称えて建てられた紀念堂。中山市の孫文中路にある。

広西壮族自治区

蒋翊武就義処紀念碑

桂林

蒋翊武は革命結社文学社の指導者で、共進社の孫武らとともに武昌蜂起を画策した人物。だが、辛亥革命成功後は他の 指導者と折り合いが合わず政治的に不遇をかこった。1913年、袁世凱が帝政復古を宣言すると湖南で挙兵。討袁の 旗を掲げて袁軍と戦ったが、同年10月9日、ここで殺害された。高さ4メートルほどの四角柱で、正面の題詞 「開国元勲蒋翊武先生就義処」は孫文の直筆になる。市内北部、榕湖の北の翊武路にある。

梧州中山紀念堂

梧州

孫文は1921年以来、北方軍閥への対抗等のため何度か梧州を訪れている。それを記念して造営されたのが、 この梧州中山紀念堂。併設の展示室では、孫文の事績に関する資料が展示されている。梧州市街の東北隅、北山の山頂にある。

四川

辛亥保路紀念碑

成都
辛亥保路紀念碑

辛亥革命の発端となった保路運動の記念碑。1911年5月、清朝政府は川漢(成都~武漢)、 粤漢(広州~武漢)両鉄道の敷設権を市民の手から取り上げ、それをかたに列強から借款を引き出そうとした。 それに憤慨した市民は保路同志会を結成、各地で反対運動を展開した。こうした中、同年9月、 四川総督の趙爾豊がデモ隊に発砲、数十人の死者を出すや抗議行動はいっそう激しさを増し、 頻発するデモやストライキで四川全域は混乱状態となった。この四川における民衆闘争の火は、 やがて隣の湖北へ飛び火、同年10月10日ついに武昌蜂起を引き起こすこととなった。碑には、 機関車・レールなど保路運動を象徴するレリーフが彫られている。市内の人民公園にある。

雲南

雲南陸軍講武堂旧址

昆明

清朝末期に創設された陸軍士官学校跡で、多くの革命指導者を輩出した。本来は清朝防衛のためにつくられた軍事教練所 だったが、のちに革命派の拠点となり、辛亥革命のさいにも大きな役割をはたした。その後も、革命派の重要な拠点となり、 のちに袁世凱の帝政に反対して起こった護国戦争でも多くの指導者を輩出した。なお歴代の卒業生のなかには、朱徳や葉剣英ら のちの共産党の大物もいる。市内翠湖西岸の承華圃にある。

【関連史跡】省政府の北、翠湖公園の東には、毛沢東と並ぶ中国共産党の指導者、朱徳の旧居が残っている。また 昆明動物園には、袁世凱の帝政復活に反対して梁啓超、蔡鍔らとともに戦った雲南都督唐継尭の墓もある。さらに 朱徳旧居の東側には、中共雲南委員会建党旧址がある。


日中戦争は誰が引き起こしたのか?

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