満州国関連史跡

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満州国関連史跡
遼寧

満鉄本社

大連
満鉄大連本社

南満州鉄道株式会社、通称「満鉄」は、日露戦争直後の1906年、ロシアから引き継いだ鉄道利権をもとに発足した 民間の鉄道会社である。だが、その実態はといえば一民間鉄道会社というより満州全域を開発するための国策会社としての側面の方が強かった。したがってその業務範囲も鉄道経営に限らず、鉱山開発から、 製鉄業、さらに水道、電気、ホテル業と幅広い分野におよんでいた。また付属の調査部は当初、植民地経営に かかわる学術的な調査研究をもっぱらその役割としていたが、満州国建国後は「経済調査会」と改組され、 誕生間もない満州国政府に対し、経済政策を企画立案する「影の内閣」として満州国の政治にも大きな影響力 をもった。場所は、中山広場と三八広場を結ぶ魯迅路沿い。現在の中国鉄路瀋陽鉄路局大連分局。

満蒙資源館

大連
満蒙資源館

満蒙資源館は、満州地域に存在する豊富な資源を紹介した博物館。もとは、ツアーロシア時代の大連市庁舎だった建物で、当時、満蒙各地域から集められた地質鉱産物や 動植物など数万点にのぼる標本が展示収集蔵されていた。大連駅の北側。現在の大連自然博物館。

星ケ浦海岸

大連
星海公園

渤海に面した美しい海岸で、大連きってのリゾート地として当時の日本人に親しまれていた。 なかでも 白い砂浜がなだらかな弧を描いて広がる星が浦海岸は、 海水浴のメッカとして大勢の行楽客でにぎわった。現在、 この付近は星海公園と改称され、昔と変わらず今も大勢の行楽客でにぎわっている。市の南西郊外5キロの黄海沿岸。

大連大和ホテル

大連
大連ヤマトホテル

満鉄経営の高級ホテル、大連ヤマトホテル。「満州国」の表玄関大連を代表するホテルとして、 政府関係者から一般人まで多くの旅行者が利用した。現在は大連賓館と改称されたが、その外観は今 も往時の姿を伝えている。駅から徒歩10分、街の中心、中山広場に面している。

金璧東旧居

大連
金壁東

粛親王家の第7王子で第2次満蒙独立運動にも参加した金壁東が住んでいた邸宅。金壁東は、のちの黒龍江省長、新京市長。また甘粕正彦の前に満映理事長も務めている。現在は、 星海賓館として使われている。星海公園の近く。黒石露西村61号。

旅順大和ホテル

旅順
旅順大和ホテル

1931年11月18日、関東軍の手引きで天津を脱出した廃帝溥儀は、営口から湯崗子温泉を経て、 旅順のヤマトホテルにいったん腰を落ち着けた。翌年2月、関東軍参謀板垣征四郎大佐がここを訪ねてきて、 溥儀に面会。正式に満州国への参加を要請した。そのさい皇帝の椅子を与えられるものとばかり思っていた 溥儀は皇帝ではなく執政という条件を聞いて激怒したという。旅順駅の西側市街。かつての鎮遠町にあった。

旅順 粛親王王府跡

粛親王府(photo by kamakura)

辛亥革命後の1912年、清朝復興を悲願とする旧筆頭皇族・粛親王善耆が日本人大陸浪人川島浪速の手引きで北京を脱出。日本軍の管理下にあった旅順に亡命してきた。ここはその粛親王がその一族と暮らした邸宅跡。

粛親王家は満州鑲白旗に属する名門で、清朝の八大世襲王家の筆頭に数えられている。初代粛親王ホーゲは清朝建国時に活躍した武将で、善耆はその10代目にあたる。

粛親王善耆は、清朝末期の早い時期から日本の明治維新に習うべしとして、立憲君主制のもとでの体制変革を主張していた。とくに義和団事件後は、政府の要職についてさまざまな改革を押し進め、開明皇族として知られていた。摂政王醇親王暗殺未遂事件の際、犯人である汪兆銘の人物を見込み、その助命嘆願をしたのもこの粛親王とされる。

粛親王

また義和団事件の解決に活躍した日本人大陸浪人・川島浪速と義兄弟の契りを交わしたことはよく知られたエピソードである。

1911年、辛亥革命が勃発すると恭親王とともに宣統帝の退位に強く反対したが、退位がさけられないとみるや、川島浪速の手引きで北京を脱出。日本軍の統治下にあった旅順に一族を引き連れて亡命した。

そこで清朝復興をめざす宗社党の中心人物となった粛親王は、1912年と16年の二度にわたって満蒙独立運動を引き起こすも、準備不足や政治情勢の急変などによりいずれも失敗に終わった。

22年に急死した後は、清朝復興の悲願は娘の愛新覺羅顯玗、日本名・川島芳子に引き継がれることになる。ちなみにのちに男装の麗人として知られるようになるこの有名な女性スパイは5歳から8歳までの3年間をここで暮らした。

また善耆の第7王子で、満蒙独立運動に父の名代として参加した金壁東(後の満州国初代新京市長)もここで育った。

さらに愛新覚羅溥儀も満州国執政就任のため新京に移動する前、妻の婉容とともに滞在したことがあるという。


幼年期の川島芳子

ここはもともとロシア軍の官舎だったものを日露戦争後、日本が接収。関東軍民生部長官宅として使用していた建物である。

だが、1945年、戦争で日本が敗れると後ろ盾を失った一族はここを退去、進駐してきたソ連軍に接収された。戦争に翻弄され続けたこの建物は数奇な運命の末、こうして40年ぶりにふたたびロシア人の手に戻ったのである。

なお敷地内にあったとされる粛親王の功績を記した石碑は、中華人民共和国成立後にいったん破壊されたものの、のちにその下半分が見つかり、現在、旅順監獄旧址内に保存されている。

大連市旅順口区新華大街9号にある。

瀋陽

張作霖爆殺現場

瀋陽
張作霖爆殺現場

蒋介石の北伐軍に追われ、北京から奉天(現在の瀋陽)へひきあげる張作霖が、列車ごと爆殺された場所。 1928年6月に起こった事件で、日本側は当初これを中国軍のしわざとしたが、のちに関東軍参謀の河本大作大佐が計画し、 実行したことが明らかとなった。重傷を負った張作霖は、治療のため病院へ運ばれたが、 途中で死亡した。張作霖のあとをついだ息子の張学良は、この事件をきっかけによりいっそう反日姿勢を強めた。場所は、京哈線が立体交差しているところで、 瀋陽北駅と皇姑屯駅の間。近くに記念碑が建っている。5路バスで皇寺広場下車。その後、 撫順路を線路に沿って徒歩15分ほど。

柳条湖事件跡

瀋陽
柳条湖事件跡

満州事変の直接のきっかけとなった柳条湖事件の発生現場。1931年9月18日夜、瀋陽駐屯の 独立守備隊の河本末守中尉らは、ここで満鉄線をねらって爆薬に点火。これを中国軍のしわざとし「満州」武力占領の 口実をつくりだした。「満州国」時代、日本側によって記念碑が建てられていたが、戦後、 中国側によって倒された。現在、その碑は「九・一八残暦碑」となっており、近くの望花街に 「九・一八事変陳列館」が設けられている。現在、現場付近には中国側による「九・一八残暦碑」と 記念館が新しく建立され、一般に公開している。市の北郊、于洪区の柳条湖にある。崇山東路と 望花街の立体交差の北側。北陵公園から213路のバスで「化工廠」下車。

●九・一八歴史博物館公式サイト(中国語)

張氏帥府

瀋陽
張氏帥府

奉天軍閥張作霖、張学良父子の邸宅。3階建てのロマネスク風建築で、その豪勢な外観からは、当時の権勢の大きさと一族の贅沢な生活ぶりがしのばれる。張作霖死後は息子の張学良の所有となり、その名をとって通称「少帥楼」と呼ばれていた。1931年、満州事変によって張学良軍が関内へおわれると、関東軍が接収、満州国時代は国立奉天図書館として使われていた。現在は、張学良旧居陳列館として観光客に一般公開されている。場所は、旧城内、瀋陽故宮の南側。

満鉄鉄路総局

瀋陽
満鉄が誇るあじあ号

満鉄が所有する鉄道路線は、満州国建国後、満州国政府の所有となり、満鉄はその委託を受けて経営するという形になった。それにともない1933年、奉天に鉄路総局が設置され、鉄道経営の中心は大連から奉天へと移った。街の中心地、中山広場にある。現在の中国鉄路瀋陽鉄路局。

奉天大和ホテル

瀋陽
奉天大和ホテル

奉天ヤマトホテルは、満鉄が経営していた高級ホテルで、当時、関東軍の要人をはじめ日満政府関係者がよく利用した。新中国成立後、遼寧賓館と改称されたが、その外観から内装にいたるまで今も往時の面影をそのまま残している。街の中心地、中山広場に面している。

瀋陽鉄道蒸気機関車陳列館

瀋陽
瀋陽鉄道蒸気機関車陳列館

 解放以前、中国大陸を走っていた蒸気機関車を集めたユニークな鉄道博物館。展示品のなかには、満州国時代に活躍した特急「あじあ号」(機種名パシナ)の姿も見える。あじあ号は、最高速度110キロという当時世界でも最高クラスの速度を誇る蒸気機関車で、その流線型のスマートなデザインとともに新生「満州国」のシンボルとされていた。瀋陽の南郊、蘇家屯。交通は、瀋陽駅前から327路のバスで大官房下車。

鞍山

湯崗子温泉

鞍山
天津時代の溥儀

1931年11月、天津を脱出した溥儀は、営口に上陸すると甘粕正彦らの出迎えを受け、そのまま汽車に乗せられ湯崗子温泉へ直行。満鉄が経営する高級旅館対翠閣に案内された。そこで数日間、事実上の軟禁状態に置かれた後、溥儀の身柄は旅順ヤマトホテルへと移された。当時、溥儀が泊まったのは、対翠閣の2階洋室。市の南郊外15キロ。

鞍山製鉄所

鞍山
鞍山製鉄所

 鞍山製鉄所、のちの昭和製鋼所の跡。鞍山製鉄所は、経営の多角化を進める満鉄が、1917年に設立した巨大な製鉄所であった。鞍山の鉱区は、鉄鉱埋蔵量約3億トン。最盛期には年間28万トンの産出量を誇り、日本と満州の重工業化を進める上で大きな役割をはたした。現在は鞍山鋼鉄公司と呼ばれ、武漢、包頭と並ぶ中国三大鉄鉱コンビナートのひとつとなっている。市内東北、駅の裏手にある。

千山

鞍山
千山無量観千山無量観

 満州随一の名山で道教の古刹無量観がある。民衆の精神的拠り所として多くの人々の信仰を集めていた無量観は、一般人ばかりでなく村落自警団やいわゆる満州馬賊の間にも隠然たる影響力を持っていた。日本による満州侵略後、一時抗日運動のメッカとなったこともあり、当時の観主葛月潭老師は、満州事変直後、高文斌らの下に東北抗日義勇軍を組織したといわれる。鞍山の東20キロにそびえる。

撫順

元帥林(張作霖墓)

撫順
元帥林(張作霖墓)

 奉天軍閥張作霖の陵墓。1928年の死後、息子の張学良によって着工されたが、1931年の満州事変の勃発によって工事は中断。結局、完成を見ずに終わった。陵園内には、獅子や馬をかたどった華麗な石刻が数多くあるが、その大半はかつて北京の隆恩寺にあった清太祖ヌルハチの子アバタイ親王の墓地から運んできたものという。市東方の大夥房ダムの北東、鉄背山駅の西3.5キロのところにある。

撫順戦犯収容所管理所陳列館

撫順
撫順戦犯収容所

 第2次世界大戦終了後、日本軍兵士や漢奸(日本に協力した中国人)は、中国政府によって捕えられ、各地の収容所に入れられた。ここはそうした収容所のひとつで、満州国皇帝「溥儀」とその弟「溥傑」も中華人民共和国成立後の1950年、ソ連のハバロフスク収容所からここに移され、共産主義思想による再教育を受けた。なお、ここで行われていた再教育は、中国共産党によるいわゆる洗脳教育に他ならなかったという説がいまも根強く流布している。場所は、市内の北関。

平頂山万人坑

撫順
撫順炭坑

日本軍による大量虐殺事件があったとされる場所。中国側の説明によれば、1932年9月、炭坑を警備していた関東軍は、前日におこった襲撃事件の犯人捜索という名目で平頂山部落の全村民3000人を集め、ゲリラたちのゆくえを追及した。だが、誰一人として口をひらかないのに業をにやした関東軍は、村民を崖下においこみ機関銃を乱射。生き残ったものも老若男女の別なく銃剣や日本刀などで殺害したという。館内には犠牲者のものとされる骨が土に埋もれたまま保存・展示されている。場所は市南部の平頂山麓。

吉林

満州国皇宮

長春
満州国皇宮跡

「満州国」皇帝溥儀の宮殿跡。宮殿というにはかなりこじんまりした造りで、かつて大清国皇帝として北京の紫禁城に 君臨した溥儀を思うと一抹の哀れさが漂う。本格的な宮殿が完成するまでの仮住まいということだったらしいのだが、 結局、「満州国」崩壊直前まで使われた。宮殿内は、内廷と外廷にわかれており、かつて皇族たちが生活を営んだ内廷には、 緝煕楼や同徳殿などがあり、溥儀の書斎や寝室、皇后の婉容の部屋などが残っている。外廷にある勤民楼は、 政務や公式な会見につかったところで、1934年3月1日、溥儀が「満州国」皇帝として3度目の 「登極の儀」をおこなった玉座やそのときの会食ホールなどが残っている。また勤民楼には帝室御用掛、 吉岡安直の控室もあり、溥儀が吉岡らによって強制的に日満義定書に調印させられたのも、この建物である。 各建物内に陳列館が併設されており、当時の写真や遺品など、多くの文物資料が展示されている。 なお内廷の同徳殿は吉林博物館となっている。駅の東側。駅前からは18路のバスで光復路下車、徒歩約10分。 意外に辺鄙なところで、ちょっとわかりにくい。

満州国皇帝即位式跡

長春
執政式

1934年3月1日、溥儀は満州国皇帝となる即位式に先立ち、天に即位を報告する伝統の儀式を行った。 この日早朝、土盛りしてつくった天壇の上で伝統的な皇帝の衣服・竜枹を着た溥儀は、 正式に満州国皇帝として即位することを天の神に誓った。現場は現在の人民広場に近い杏花村と思われる。

満映撮影所

長春
満映撮影所

満州映画協会(満映)の撮影所跡。満映は満州国内における国策宣伝と文化工作を目的としてつくられた民間の映画会社で、正式に発足したのは1937年。以後、抗日武装勢力に対する武力討伐と並び、「満州」統一政策を遂行する上で欠かせない重要な役割を果たした。
理事長を勤めたのは、元軍人の甘粕正彦。甘粕といえば関東大震災時におけるアナーキスト大杉栄殺害犯として悪名ばかり高いが、経営者としてはかなり有能だったらしく、李香蘭をはじめ「満州国」時代を風靡した大スターもここから誕生した。ちなみに当時、満州国の支配者は昼間は関東軍だが、夜は甘粕だという冗談とも本気ともつかぬ戯れ言が人々の間で膾炙していたという。  
だが、1945年8月、日本が無条件降伏すると甘粕は青酸カリをあおいで自殺。ここに満映の短い歴史は終りを告げた。なお、自殺をはかった理事長室の黒板にはこんな辞世の句が書いてあったという。「大ばくち、もともこもなく、すってんてん」。現在は、長春電影制片廠となっている。市の東南、南湖公園の北。


甘粕正彦
【甘粕正彦】
(1891 〜1945) 軍人。満映理事長。東京大震災の際、無政府主義者大杉栄を殺害し、懲役10年の刑を宣告される。しかし3年後に釈放され、その後、フランスへと渡った。いったん歴史の表舞台から消えたかに見えたが、事件のほとぼりが冷めると、今度は中国に姿を現わした。甘粕はここで、軍が表立って動けない仕事ーいわゆる謀略活動に従事するのである。満州事変勃発の際、吉林やハルピンで爆弾テロを起こし、戦線の拡大工作を行ったり、溥儀の天津脱出工作にかかわったりと、まさに神出鬼没の活躍ぶりを見せた甘粕は、満州国建国後、その功によって満州映画協会(通称、満映)の理事長の座におさまる。そこで国策映画づくりに励んでいたが、1945年、日本が戦争に負けると8月20日、理事長室で青酸カリを仰いで自殺した。黒板には、こんな辞世の句が書かれていたという。「大ばくち もとも子もなく すってんてん」

関東軍司令部

長春
関東軍司令部跡

日露戦争から満州事変、そして満州国建国と日本の大陸政策の尖兵としての役割をになってきた関東軍。日露戦争以来、その司令部は旅順に置かれてきたが、満州国が建国された後の1934年、ここ新京に移転してきた。

この建物はその新京時代に新築された関東軍総司令部跡である。現在は吉林共産党委員会の建物として使われている。

ヨーロッパ建築と日本の伝統建築をミックスした大陸様式と呼ばれる当時流行したデザインの建物で、戦国時代の城郭を思わせるその形から現地の日本人は親しみと揶揄をこめて「お城」と呼んでいたという。

満州国は日本の傀儡国家だったとして批判されることも多いが、その理由のひとつにこの関東軍による政治介入がある。実際、関東軍司令部は「内面指導」という名目で、満州国の政治を裏からコントロールしていた。満州国建国の立役者であった石原莞爾も日中戦争勃発後、ここに赴任してきた際、この「内面指導」を痛烈に批判したといわれる。

もっとも、そこにはそうしなければならない事情もあった。というのも建国してまもない満州国には、民主的な政治体制に移行するだけの条件が国内的にもまた国際的にもまだ十分整っていなかったからである。

建国したばかりの国家が安定を確保するまでの一定期間、強権体制をしくことは珍しくない。ましてや当時は世界大戦前夜から戦時中という非常に不安定な時期でもあった。

当時実質的な統治能力をもっていた唯一の組織であった関東軍による一定の介入は現実的に考えるならば、やむをえなかったともいえるだろう。

場所は駅前から南へ伸びる斯大林大街沿い。

【綏遠事件】

1936年11月、関東軍が綏遠省(現在の内蒙古自治区西部)を中国から分離独立させようとして武力蜂起を試み、失敗した事件。 

当時、関東軍の板垣征四郎中将と田中隆吉参謀は、ソ連ー外蒙古ー中国共産党政府を結ぶルートを遮断すると同時に満州国の安定をはかる目的で、内蒙古を独立させる構想を抱いていた。いわば第2の「満州国」構想である。

この構想に沿って関東軍は当時、声望のあった民族主義者の徳王らを抱き込み、蒙軍と漢軍からなる謀略部隊を組織した。これを使って国民党支配下の綏遠省主席傅作義を追い出そうというこころみだ。 

ところが、この謀略部隊というのが雑兵の寄せ集めで、ほとんど役に立たない。11月上旬、王英なる人物が率いるこの謀略部隊ー大漢義軍ーが内蒙古独立を掲げて決起したものの、攻撃目標の平地泉まで進攻するにいたらず、その手前の紅格爾図(ホンゴルト)で傅作義軍の迎撃にあい、あっけなく敗走。さらに傅作義軍は余勢を駆って百霊廟を占領、そこを守っていた蒙古軍も何ら抵抗することなく先を争って逃走してしまったのである。さらに関東軍は、金甲山なる人物が率いる部隊を使い、百霊廟奪回作戦を起こしたがこれも失敗。その上、攻めあぐんだあげく部隊ごと敵に寝返ってしまうという始末だった。

その後、西安では、張学良が蒋介石を監禁して抗日を迫るという事件が発生。これによって傅作義追い出し工作は、一時中断を余儀なくされた。だが翌年、支那事変が発生すると今度は日本軍が公然と出動。圧倒的な戦力でもって傅作義軍を駆逐することに成功すると、徳王を主班とする蒙疆自治政府を樹立したのである。

満州国王宮跡

長春
満州国王宮跡

本来、満州国の皇居となる建物だったが、建築の途中で敗戦を迎え、未完成に終わった。現在の建物は 新中国が元の設計図を参照して完成させたもの。建物の前は広大な広場になっているが、 ここは皇居前広場になる予定だった。現在は地質学院として使われている。 斯大林大街から解放大路を西に約2キロの地点にある。

満州国官庁街

長春
旧満州国国務院

地質学院前から新民広場に向かう新民大街はかつての満州国の官庁街だったところ。 各官庁は現在それぞれ次のように変わっている。
旧軍事部…白求恩医科大学第1病院
旧国務院…白求恩医科大学基礎医学研究所
旧司法部…白求恩医科大学
旧経済部…白求恩医科大学第3病院
旧交通部…白求恩医科大学研究所
旧満州中央銀行総行…中国人民銀行長春分行(人民広場)

新京旧日本人街

長春
吉野町

現在の地質学院から斯大林大街にかけての一帯はかつての日本人街だった。東朝陽路や東中華路などは 「満州国」政府の官僚が住んだ高級住宅街だったが、今でも市政府の役人用住居として使われている。 また解放大路の南側は一般の日本人が多く住んだところ。現在でも2階建ての長屋風の家並みが残り、 当時の面影を伝えている。

新京大和ホテル

現在の春誼賓館。駅前の斯大林大街沿い。

吉野町

駅前の長江路あたりは、かつて「吉野町」と呼ばれた繁華街。

旧城内

主に中国人が居住していた。現在の人民広場の東側区域。

新京神社跡

現在、長春第1幼稚園となっている。以前、北参道だったところに鳥居の跡が残っている。 場所は西広場と斯大林大街の間。

児玉公園

児玉公園は、日露戦役で活躍した児玉源太郎大将にちなんだ公園として当時の日本人に親しまれていた。 現在は勝利公園とその呼び名も変わり、かつてあった児玉大将の馬上像も毛沢東像に変わっている。現在の勝利公園。

新京ヤマトホテル

長春
新京大和ホテル

現在の春誼賓館。駅前の斯大林大街沿い。

満鉄社宅

長春
満鉄社宅(写真は鞍山の満鉄社宅)

「満州国」成立後も社会のあらゆる面で絶大な影響力を持っていた満鉄。 そこで働く日本人社員には破格の待遇が約束されており、そのひとつが豪華な社宅であった。煉瓦造り、2階建ての瀟酒な外観を持つ満鉄社宅は、 現代の日本人にとってもなお豪邸というにふさわしく、当時の国内における住宅事情の貧しさを思えば、 多くの日本人にとって満鉄社宅はまさに植民地でしか手に入れることのできない夢の「豪邸」 であったに違いない。かつての新京駅前から西広場付近まではほぼ満鉄社宅で埋めつくされていた。

万宝山事件跡

長春
万宝山事件

1931年7月2日、朝鮮から入植した朝鮮人農民が用水路の開設工事をめぐって地元の中国人農民と 衝突した事件。その直後に発覚した中村大尉殺害事件とともに関東軍によって満州事変の格好の 口実に仕立て上げられた。長春の西北約30キロ。扶余市と長嶺を結ぶ中間にある。

金日成読書記念堂

吉林
ハバロフスク野営訓練所での東北抗日連軍将兵
金日成は前列、右から2番目

朝鮮独立運動の指導者金日成が、青年時代に学んだ吉林毓文中学跡。吉林毓文中学は1917年の創立で、 金日成が在学していたのはちょうど「満州国」建国前後の1930年代はじめごろといわれる。 東北における学生運動とメッカとしても有名で、35年には当局の圧力によって閉鎖された。 学校を中退した金日成は、その後、本格的な抗日活動に入り、やがて伝説的な抗日運動指導者となっていった。 館内には当時の生徒用の帽章・ボタン・机・椅子などが展示されている。場所は市内南西部、 臨江広場近くの吉林毓文中学。

張鼓峰事件跡

琿春
張鼓峰事件

1938年7月31日、ソ満国境の張鼓峰で起こった国境紛争。豆満江を臨む張鼓峰はもともと満州国の領土だったが、この年7月、ソ連軍が突然やってきて山頂に陣地を構築しはじめた。
日本政府は当初、外交交渉によってこれを解決しようとしたが、功をあせった現地の日本軍が独断で出動、ソ連軍に夜襲攻撃をかけ張鼓峰を奪回することにいったん成功した。ところが、ソ連軍はこれに対し、飛行機、戦車、重砲など当時世界の最先端を行くハイテク兵器を総動員して徹底的な反撃に出る。
こうしたソ連軍の猛攻の前に、前近代的で貧弱な装備しか持たなかった日本軍はなすすべもなく、戦死者の数は一時、日に200人を数えるまでになったという。これに対し、軍中央には撤退すべきという声もあったものの、参謀本部は撤退は不名誉なこととしてこれを拒否。日増しに増える犠牲者を無視し続けた。
これを救ったのは、8月10日にモスクワで結ばれた停戦協定だった。これによってソ連軍の猛攻は止み、現地日本軍はかろうじて全滅を免れたのだった。
これは近代化されたソ連軍の実力を日本軍が身を以て思い知らされた事件であった。しかしながら、ここでの教訓はいかされることなく、翌年のノモンハン事件では、 日本軍にさらに大きな犠牲を強いることとなった。現場は琿春市の東方。図面江沿いのロシアと北朝鮮との国境地帯。

間島日本総領事館旧址

龍 井
間島日本総領事館

現在の延辺朝鮮族自治区はかつて「間島省」と呼ばれていた。その間島省を支配するために日本が設置した総領事館跡。 現在は、龍井市委市政府大院となっている。龍井市、吉勝街東北端北側。

老頭溝「万人坑」跡

龍 井
現在の龍井市

日本統治時代、過酷な強制労働によって犠牲になった人々の遺体を「処分」したとされる万人坑跡。 坑内にはいまなお1万名以上の遺体が埋まっているという。現在、遺骨陳列館が併設されている。 老頭溝鎮の北、元宝山の南斜面にある。

靖宇陵園

通化
楊靖宇を捕らえた日本の討伐隊

抗日連軍の指導者で日本軍に殺害された楊靖宇の遺体を安置した陵園。楊靖宇(1905~40)は、 河南出身の共産党員で東北抗日連軍の指導者。満州事変ののち中共中央の指令で「満州」へわたり、 東北抗日連軍第1路軍を結成、「満州」各地で活発な反満・抗日ゲリラ活動を展開した。だが、 日満連合討伐隊に追われ、1940年2月、濛江県(現、靖宇県)の山岳地帯に隠れていたところを発見され、 殺害された。死後、遺体を解剖したところ、胃のなかには木の根や野草しかなかったという。渾江東岸の丘にある。

楊靖宇記念館

靖宇県
楊靖宇

抗日連軍の指導者・楊靖宇将軍殉難の地を記念して建てられた歴史陳列館。「東満」 を拠点に反満抗日ゲリラ闘争を続けていた楊靖宇は 、1940年2月、満州国側の徹底掃討作戦によって 長白山の麓のこの地に追い詰められ、岸谷隆一郎率いる満州国警察匪賊討伐隊によって射殺された。 靖宇県(もとは濛江県)にある。館内には楊靖宇に関する500件以上の文物資料が展示されている。

通化事件跡

通化
降伏する日本軍兵士

1946年2月3日、日本敗戦後、進駐してきた中国共産党軍に対し、日本人が突然武装蜂起を行った。 通化事件と呼ばれるこの衝突によって、決起部隊の大部分が戦死し、残った日本人も獄死するなど 合わせて1000人以上が犠牲になったといわれる。一説によると国民党軍が裏で蜂起を画策した といわれるが、真相はいまだ謎に包まれている。戦闘は市内各地で発生したが、 もっとも激しかったのは、当時中国共産党司令部が置かれていた龍泉ホテル周辺での戦い。また、 戦闘の合図となった烽火は市内東隅にある玉皇山で上げられた。

溥儀旧居(満州国終焉の地)

大栗子
馬占山
溥儀らが利用した大栗子鉱業所食堂

ソ連参戦後の1945年8月、溥儀とその側近は関東軍の命令で、満鮮国境の大栗子に避難した。 新しい「皇宮」となったのは大栗子鉱業所所長の自宅だった建物。そこは当時、市内でもっとも立派な造りの家だったが、部屋は全部あわせても6部屋ほどしかなく、皇后や侍従などを収容するといっぱいになったという。しかも壁の薄い日本式の家屋だったため、隣同士たがいに音が筒抜けで一日中がやがやうるさかったと後に溥儀が自伝のなかで回想している。その後、ラジオなどで日本敗戦を知った溥儀らは、満州国の解消を決定。近くの大栗子鉱業所社員食堂に廷臣、 大臣らを集めて正式に満州国解散を宣言した。場所は大栗子市内。大栗子は通化から渾江をへてさらに奥地の北朝鮮との国境地帯にある。

長白山抗日ゲリラ根拠地

長白山
抗日ゲリラのアジト

中朝国境にそびえる山で、海抜およそ2000メートル。頂上に「天池」と呼ばれる美しい火口湖があり、 古くから朝鮮民族の聖地として崇められてきた(朝鮮では白頭山と呼んでいる)。鬱蒼とした森林に覆われた 広大な山岳地帯は、日本による韓国併合直後から満州国時代にかけて、亡命朝鮮人を中心とする 抗日ゲリラたちの一大拠点となっていた。なかでも有名なのが、金日成率いる抗日部隊で、 その地形を巧みに利用した神出鬼没のゲリラ作戦は、満州国側の討伐隊をおおいに悩ませた。 現在、麓から山頂にかけて大勢の抗日烈士の墓が、沿道に並んでいる。吉林南部、 渾江から出ている渾湾線の終点、白河が登山の起点となる。

黒竜江

侵華日軍七三一細菌部隊罪証陳列館

ハルピン
侵華日軍七三一細菌部隊跡

残虐な生体実験を行ったとして中国側が非難する関東軍731部隊の本部跡。 中国側によれば、731部隊は対外的には関東軍防疫給水部と称し、兵士を伝染病から予防し前線の飲料水を確保する ことを表向きの目的としていたが、その実体は軍医中将石井四郎に率いられた細菌兵器開発の ための秘密研究部隊であった。そして「満州国」時代、石井らは日本軍の捕虜となった中国人やロシア人を実験材料に残虐な生体実験を行っていたという。戦後ハバロフスクで開かれた極東軍事裁判の席で明らかにされたところによると、凍傷実験や生体解剖はいうにおよばず、遠心分離器にかけて生血を絞る搾血実験、 真空室に生きたまま放り込み、肉体を破裂させる真空実験、人間の血液を動物の血液と交換する代替輸血実験などの人体実験が繰り返されていたとされる。またそこで犠牲になった人たちは中国人、ロシア人、朝鮮人などあわせて3000人以上にのぼるという。その真偽については長い間、不明だったが、近年米国立公文書館から公開された文書によると、そのようなおぞましい人体実験を行っていた事実はなかったとされている。敷地内には実験用ボイラー室をはじめ、死体焼却炉、実験用ネズミ飼育室、凍傷実験室、 細菌爆弾工場などの跡とされるものが残っている。ハルピン市の南東約25キロの平房。駅前から338路、 43路のバスに乗り、約1時間後、新彊街下車。第17高級職業中学校の隣にある。

東北烈士紀念館

ハルピン

 満州国時代から解放戦争時代にかけて、東北地方で犠牲になった革命家・烈士の功績を展示している。 東北抗日連軍関係者を中心に男女あわせて200名以上の革命烈士の生涯が、それぞれの肖像画や遺品とともに 紹介されている。なかでも有名なのは、抗日連軍の女性指導者趙一曼だ。趙一曼は、四川宜賓の出身。満州事変後、 中国共産党の指令で東北地方へ赴き、道北区委員会の書記として珠河を拠点に反満抗日のゲリラ闘争を指導した。 だが、36年の夏、日本軍に捕えられ、一度は脱出に成功したものの再び捕えられ、ついに処刑された。 享年31歳であった。また烈士のなかには、嬌声売国奴とののしられながら日本軍へ向けて 反戦放送を行ったエスペランティストの長谷川テル(緑川英子)や中国軍に身を投じて伝染病の治療に 当たった医師佐々木源吾の顔も見える。さらに「八女投江」として有名な林口付近で犠牲になった 抗日女性ゲリラ部隊の最期に関する資料も展示されている。なお当所は「満州国」当時ハルピン特別警察庁だった建物で、 ここに展示されている烈士の多くが厳しい拷問にあったまさにその場所である。 市内南崗区一曼街。107、109路バスで烈士記念館下車。

中共満州省委旧址

ハルピン
戦前のハルピン

中国共産党の満州地区における司令部跡。満州事変勃発後、「満州」各地では民間の抗日義勇軍や 抗日ゲリラ部隊が自然発生的に誕生し、それぞれ独自の闘争をくりひろげていた。1933年夏、 中共中央はそれらを一元的に指導するため、中国共産党満州省委員会をハルピンに設置。党員を派遣して、 「抗日連軍」の組織化にあたらせた。ここは「満州国」内における各地の抗日ゲリラ部隊との連絡調整 のために設置された秘密機関で、当時、同委員会秘書所長だった馮仲雲の自宅に置かれた。 馮仲雲は、大学教授という身分を利用して、党の文献を保管するとともに、 各地の抗日部隊への指示を起草するなど、当局の目をくらまして地下活動をおこなっていた。 市内南鉱区光芒街22号にある。駅前正面の紅軍街をまっすぐ南へくだり、ロータリーと 馬家溝河を越えた左側。黒龍江省電子台(テレビ局)の裏通りにある。

馬占山と満州抗戦跡

チチハル
馬占山
馬占山軍を追って雪中行軍する日本軍

満州事変直後の1931年11月、日本軍は地方軍閥張海鵬を懐柔して北満へ向けて侵攻するようしむけた。 これを迎えうったのが馬賊あがりの馬占山である。馬占山は、嫩江にかかる鉄橋を爆破し、張軍の北上を阻止した。 これに対して日本軍が本格的に出兵、張海鵬軍と合流し、馬占山軍と嫩江をはさんで対峙した。 やがて嫩江をわたった連合軍は、大興付近でついに馬占山軍と衝突した。だが、抗日意識に燃える馬占山軍は ことのほか頑強で、一時は日本側が壊滅寸前にまで陥り、かけつけた増援部隊によってようやく危機を脱した ほどだった。

この大興の戦闘で、日本軍は戦死者46名という事変始まって以来の犠牲者を出し、 馬占山は一躍中国の英雄になった。その後、連合軍は昂昂渓付近に陣地を築いて抵抗していた馬占山軍を 追放することにようやく成功したが、この際の戦闘でも連合軍側は戦死者58名、凍傷者1000名あまり という多大な犠牲を払わなければならなかった。一連の戦闘が行われたのは、チチハル市の南方、 嫩江付近から昂昂渓地区。

馬占山陣地
馬占山が拠った昂昂渓陣地を占領した日本軍

「昂昂渓」
大興の戦闘の後、馬占山軍が拠った場所。馬占山は、1931年11月、ここに陣地を築いて関東軍・張海鵬軍の連合軍を迎え撃った。チチハル市の南、昂昂渓地区。平斉線(斉斉哈爾と四平を結ぶ鉄路)と濱州線(ハルピンと満州里を結ぶ鉄路)がちょうど交差するあたり。

破壊された嫩江鉄橋
破壊された嫩江鉄橋

「嫩江鉄橋」1931年11月、馬占山軍は、この鉄橋を爆破し、張海鵬軍の北上を止めたものの、日本軍の反撃に会い、その先の大興付近で激しい戦闘が行われた。この大興の戦いで日本側は、46人が戦死、負傷者は151人にのぼった。平斉線(斉斉哈爾と四平を結ぶ鉄路)のチチハル寄り、嫩江にかかる橋。大興は次の駅。

馬占山
馬占山
【馬占山(1885〜1950)】
吉林省懐徳県の出身。馬賊から身を起こし、のちに黒龍江省長万福麟の配下となる。満州事変が勃発すると、本拠地チチハルを留守にしていた万福麟に代わり、黒龍江省主席代行として、満州北部に侵攻してきた日本軍を迎え撃った。嫩江の戦いや昂渓渓の戦いでは、日本側に大きな犠牲をもたらし、一躍、全中国の英雄となるも関東軍に懐柔され、満州国への参加を決意した。黒龍江省長兼軍政部長に就任したものの、まもなく 離反。省都チチハルを脱出して黒河へ逃走し、再び抗日活動に身を投じた。
満州国を離反したのは、日本が過度に主導権をにぎることに反発したためといわれるが、これとは別に満州国の建国祝宴の席上、自分の名前すらろくに書けない無学文盲ぶりを嘲笑されたことが原因だったという説もある。ともあれ、この馬占山将軍、どじょうひげをはやした愛嬌のあるスタイルのせいか、なぜか日本でも人気者となり、当時、子供たちの間で「馬占山ごっこ」遊びが流行ったり、なかには、盗品を売った金で遊廓に居続けご用となった自称馬占山大尽なども現れたという。

ホロンバイル事件跡

ハイラル
蘇炳文

1932年9月27日、日本軍の満州占領に反対して元国民党黒龍江省駐留軍の蘇炳文らが満州里で挙兵。 特務機関長、国境警察署長など在留邦人数百名を監禁した後、ハイラルに進攻、東北民衆救国軍を名のり、 ホロンバイル独立を宣言した。事件の主な舞台は満州里とハイラル。

馬占山黒龍江省政府跡

ハルピン
海倫
馬占山

1931年冬、日満連合軍に追われ、チチハルを撤退した馬占山は一時、この街に黒龍江省政府を置いた。 その後、関東軍の板垣征四郎参謀らは、海倫へ直接乗り込み馬占山と会談、満州国への帰順を説得した。 やがて内外の情勢から帰順に傾いた馬占山は、翌年2月、ハルピンで関東軍の多門師団長と会い、 正式に帰順を表明した。場所は、当時「広信当」と呼ばれた大商店。現在は、海倫人民銀行として使われている。

馬占山
馬占山タバコの広告

土竜山事件跡

ハルピン
佳木斯
謝文東

1934年3月、関東軍による農地の取り上げと日本人武装移民に反発した地元の豪農謝文東を指導者として 大規模な農民暴動がここで起こった。佳木斯の南約60キロの土竜山。

弥栄村跡

ハルピン
佳木斯
弥栄村

日本人移民による満蒙開拓の先駆けとなった弥栄村跡。満州事変後、日本国民学校校長加藤完治と 元関東軍大尉東宮鉄男らの意見を採用した拓務省は、1932年秋、ジャムス付近の永豊鎮と七虎力 に日本各地の農村から募集した移民団あわせて1000人近くを入植させた。だが、それが「武装移民団」 と呼ばれたようにその生活は農民のというよりはむしろ軍人のそれに近いもので、 1日の労働のうちの半分は、抗日ゲリラの襲撃からの防衛にあてられ、当初は開墾どころの騒ぎでは なかったという。しかも、娯楽のない極寒の地に置き去りにされた移民団の苦労は筆舌に尽くし難く、 団員たちの中には「墾屯病」と呼ばれる一種のノイローゼにかかるものが続出。 腹いせに地元の中国人たちに乱暴狼藉を働くものも出るにおよんで、両者の対立はますます エスカレートする一方だった。しかし日本のジャーナリズムは、のちに弥栄村および千振郷と改称された両村を、 理想的移民村としてさかんに喧伝したため、凶作や不況に苦しむ当時の貧しい農民たちは こぞって移民に応募した。その結果、太平洋戦争敗戦直前の1945年5月までにあわせて 32万人あまりの農民が満州へわたったが、敗戦後、その多くが逃避行のさなか、 悲惨な最期を迎えなければならなかった。

佐渡事件跡

七台河
開拓団の家族

1945年8月27日、ソ連参戦により入植地を追われた日本人開拓団はハルピンへの逃避行の途中、 ソ連軍に遭遇。もはや助からぬと観念した開拓団員は、男はこん棒を手に ソ連軍の戦車隊へ突撃し「玉砕」、 女たちは子供をつれて自決した。この事件による死亡 者は1464人にのぼり、満州最大の悲劇といわれた。 場所は、黒龍江省七台河市郊外(このあたりは、かつて佐渡と呼ばれた)。

麻山事件跡

ハルピン
林口県
開拓団の家族

開拓団遭難の地。1945年のソ連参戦後、黒龍江省・鶏西付近に入植していた哈達河開拓団の 一行は林口へ向けて避難を開始した。8月12日、麻山谷で先頭集団がソ連軍に遭遇、 さらに後方からも戦車部隊が迫ってきた。リーダーは近くにいた日本軍に救援を依頼。 ところが日本軍は「われわれの任務ではない」とこれをつっぱねた。ここにいたってリーダーは、 男は斬り込み隊を結成して突撃、女と子供は集団自決することを決定。みずから拳銃を持って ソ連軍の前に飛び込むと、それに続いて400人をこえる集団自決が行われた。 場所は黒龍江省林密線の麻山駅付近。林口の近く。

八女投江紀念地

林口県
八女投江紀念碑

抗日連軍の女性兵士8人が、抗日戦のさなか自決した場所。1938年10月初旬、冷雲、楊貴珍、 安順福ら抗日連軍第5軍の女性戦士8名は、牡丹江支流の烏斯渾河にさしかかったところで、 「満州国」討伐隊と遭遇。勇敢に戦ったが、最後の弾薬までも打ち尽くしてしまった。 もはやこれまでと観念した8人は、次々に激流のなかに身を投じた。林口県の烏斯渾河の西岸。

内蒙古自治区

葛根廟事件跡

烏蘭浩特
開拓団の家族

1945年8月14日、ホロンバイルの興安(現在の王爺廟)に入植していた日本人開 拓団約2000名が 避難のため葛根廟駅へ向かう途中、待ち受けていたソ連軍に突然、攻撃を受け、ほぼ全員が虐殺された。 内蒙古自治区・烏蘭浩特の近く。白阿線の葛根廟駅付近。

中村大尉殺害事件跡

蘇鄂公爺
中村大尉

1931年6月、興安嶺方面の軍事地形を調べるため関東軍から派遣された中村震太郎大尉が、 現地の中国軍により殺害された事件。この事件によって日本国内および満州在留邦人の間に中国討つべしの機運が高まり、 3カ月後、満州事変が勃発した。内蒙古自治区の蘇鄂公爺付近。烏蘭浩特から近い。

満蒙独立運動関連史跡

本当はカラチン王府を表示したかったのですが、ストリートビューが通ってないので、武器輸送の拠点となった公主嶺の街を表示してみました

カラチン旗
川島浪速と粛親王川島浪速と粛親王

満蒙地域を独立させようという試みは、満州事変以前にも何度かあり、なかでも有名なのが辛亥革命後二度にわたって発生した満蒙独立運動である。

このうち第一次満蒙独立運動は、清朝崩壊直後の1912年に起こったもので別名宗社党事件ともいう。中心となったのは粛親王ら清朝遺臣からなる宗社党という清朝復辟をめざす満州人の政治結社。これに川島浪速をはじめとする日本人大陸浪人グループが義勇軍として加わっていた。

辛亥革命直後、最後の皇帝となった溥儀は、事実上北京に軟禁状態にあったが、これを新政府による満州併合の謀略とみた川島は筆頭皇族だった粛親王をかろうじて満州の旅順に脱出させることに成功(辛亥革命後に樹立された中華民国政府が廃帝溥儀を故郷の満州へ帰らせず、北京に監禁したのは清の版図をそっくり新政府のものにしようという腹づもりからであった)。同時に清朝派のモンゴル人とともに満州民族の独立を旗じるしに蜂起を試みた。

計画によれば、日本から調達した武器を満鉄線公主嶺から内蒙古のカラチン王府とパーリン王府まで秘密裏に輸送。同地のモンゴル人部隊による武装蜂起を促すというものであった。だが、武器輸送の段階でこれらの動きが発覚。中国側を通して欧米諸国の知るところとなったことから外交問題になるのを懸念した日本政府によって中止命令が出された。

伊達順之助伊達順之助

1916年の第二次満蒙独立運動の首謀者となったのも、やはり宗社党と日本人大陸浪人グループであった。今回はこれに加え、蒙古独立を悲願とする蒙古人パプチャップが主力部隊として参加していた。また檀一雄の小説『夕日と拳銃』の主人公となった日本人馬賊・伊達順之助も加わっていたという。

計画ではまずパプチャップが北満州でのろしを挙げた後、それに呼応する反乱部隊とともに奉天を一気を占領。さらに北京を襲って内外蒙古と満州および華北を併せた「北清帝国」を建設するというものであった。

だが、この計画も袁世凱の急死によって再び頓挫する。袁世凱打倒という大義名分を失った日本政府は外交摩擦をおそれまたもや中止を命令したのである。その結果、すでに挙兵していたパプチャップは孤立無援の状態に置かれたまま敗走。内蒙古の林西まで逃げ延びたところで流れ弾に当たって死亡した。ここに第二次満蒙独立運動も第一次と同様あっけない幕切れを迎えたのである。

なお、この第二次独立運動には、日本の財閥大倉喜八郎も一枚かんでおり、当時の金で百万円を資金として差し出したといわれる。一説によれば、間島(満鮮国境地帯)に東洋のスイス ともいうべき中立の独立国を造り、大倉をその王にするという密約が川島らと交わされていたというがたしかなことはわからない。カラチン、林西ともに内蒙古自治区内にある。

ノモンハン

ノモンハン事件跡

ノモンハン
ノモンハンの日本軍兵士

1939年5月から9月にかけて満州国とモンゴル人民共和国との国境地帯で戦われた戦争。 日本では一般にこれを「ノモンハン事件」と称しているが、モンゴルでは、戦場がハルハ河付近だったことから、 「ハルハ河戦争」と呼んでいる。当時、満州国と日本は、モンゴルと満州国との国境線を このハルハ河と決めていた。ところが、モンゴル側はハルハ河から満州国側に入った地点を 国境線とみなしており(これは歴史的にみてもモンゴル側の主張が正しかった)、5月12日、 突然越境して陣地を構築し始めた。これを迎え撃つべく関東軍と満州国軍が出動、 ここに数カ月にわたる悲惨な戦いの幕が切って落とされたのである。モンゴル軍はソ連軍の支援を得て、 戦車や飛行機を含む圧倒的な機甲軍団を投入。 対する日本側は、貧弱な装備しか持たず、 また辻政信参謀の作戦ミスもあって、ソ連軍の重戦車に対して火炎ビンなどほとんど素手同然で 立ち向かわねばならなかった。犠牲者の増大を懸念した陸軍中央は、関東軍に対して再三、 戦闘中止を要請するが、辻政信少佐は「北辺の些事は関東軍に依頼して安心されたし」と返電、 なおも無謀な戦いを続行しようとした。だが、同年9月ナチスドイツが、突如、ポーランドへ侵攻し、 第2次世界大戦が始まると日ソとももはやノモンハンのような局地戦争にかかずらっている余裕はなくなり、 やがてモスクワで停戦協定が結ば れた。ここに日本側犠牲者の数1万8000名ともいわれる ノモンハン事件がようやく終結したのである。中国側に最も近い都市はハイラルの西南、約150キロほどの新巴尓虎左旗。

上海

三友実業社跡

川島芳子

1932年1月18日、勤行中の日本山妙法寺の僧侶が、たまたま通りかかった工場の前で、 中国人暴徒によって殺害されるという事件が起った。日本政府はこの事件を重大な挑発と見て、 上海駐屯の海軍陸戦隊に出動を命じた。これに対して、中国軍部隊が応戦、ここに第1次上海事変が勃発した。 なお、この事件は満州事変に対する列国の関心をそらすため、上海公使館付武官・田中隆吉と女スパイ川島芳子らが 仕組んだ謀略であったことが戦後、明らかになった 。現場は楊浦公園の南、引翔港近くの馬玉山路。

天長節事件跡

天長節事件

天長節事件の現場跡。1932年4月29日、天長節(天皇誕生日)を祝って日本軍による大観兵式が 虹口公園で催された。この際、祝賀会の式台に突然、爆弾が投げつけられ、壇上に並んでいた 白川義則大将はこの時の傷がもとでのちに死亡、重光葵公使は右足切断の重傷を負った。 犯人は朝鮮独立党の志士尹奉吉。爆弾は水筒に擬装されていたという。場所は虹口公園。

爆弾三勇士事件跡

爆弾三勇士

上海事変の真っ最中の1932年2月22日、日本兵3名が爆弾をかかえて敵の鉄条網に突入、そのまま爆死した。当時、マスコミはこれを「爆弾三勇士」と称し、その勇気を称えた。戦後、それは間違って導火線を短く切ってしまったために起こった事故にすぎず、それをマスコミが意図的に戦意高揚に利用したという見方も出てきたが、いずれにせよ命を盾に敵陣に突入したことは事実であろう。むしろ死者を貶めるそうした批判にこそ裏に何らかの意図を隠しているように思うのは私だけだろうか。現場は 虹口公園北方の廟行鎮。

北京

北京 粛親王府跡

粛親王

清朝の筆頭皇族で親日家だった粛親王家の跡。川島芳子の生家でもある。天安門広場の東側、東城区東交民巷。


外国人と写真に収まる粛親王

宣武門外第一監獄

川島芳子

1945年8月、日本が敗退すると、国民党政府は支那事変中、日本側に協力した中国人を漢奸(裏切り者) として一斉逮捕に乗り出した。満州国建国前後、東洋のマタハリ、満州のジャンヌダルクとして 一世を風靡した川島芳子もこのとき、北京へ乗り込んできた国民党特務によって捕えられ、 ここへ収監された。その後、彼女が日本国籍を取得していたかどうか(日本国籍であれば漢奸の罪には問えない) などをめぐって裁判が繰り広げられたが、結局、漢奸と認定され、1948年3月25日早朝、 銃殺刑に処せられた。享年42歳であった。なおこのとき銃殺されたのは「身代わり」で、 本人は金を積んで処刑を免れたというまことしやかな説も流れている。しかも後日、 その証人となる人物も現れたといわれ、真相は今もって明らかではない。現在の北京監獄。宣武門外南西の濠沿い。

四川

趙一曼記念館

宜賓
趙一曼

趙一曼は「満州」で反日武装闘争に殉じた有名な女性ゲリラ隊長。趙一曼は1905年に生まれ、 1927年にモスクワの中山大学に留学するまでの22年間をこの町で過ごした。ソ連留学から帰国後、 しばらく江西や上海などで地下活動に従事していたが、1931年、九・一八事変がおこると 中共中央の指令で「満州」へおもむき、瀋陽やハルピンなどで労働運動の指導にあたった。その後、 反日ゲリラの根拠地、中共珠河道北区(ハルピンと牡丹江を結ぶ鉄道沿線の北側地域) 委員会の書記として武装闘争を指導した。だが、1935年、日本軍と交戦中、負傷してとらわれ、 ハルピン警務庁(現在、烈士記念館となっている)に護送され、そこで処刑された。 ここはその趙一曼の記念館で、彼女に関する多くの資料が展示されている。成都の南方、 宜賓市の郊外翠屏山にある。


日中戦争は誰が引き起こしたのか?

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