日中戦争(支那事変)関連史跡

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日中戦争(支那事変)関連史跡
北京

盧溝橋事件跡

盧溝橋の中国軍

北京の西南郊外、永定河にかかる石造りの橋。かつてマルコポーロが「世界一美しい橋」と旅行記のなかで紹介 したことから別名マルコポーロブリッジとも呼ばれる。1937年7月7日夜、この付近で発生した謎の発砲事件が その後8年にわたる支那事変の導火線となった。日本軍が演習していたのは、盧溝橋からみて京漢線の 向こう側の永定河の東岸。現在、橋のたもとに「盧溝橋資料陳列館」があり、七・七事変当時の中国側の 宋哲元将軍の指揮刀や日本軍の軍刀や砲弾などの遺品が展示されている。市の西南郊外にある。長椿街から 309路のバスで盧溝橋下車。なお最近の研究では、この最初の発砲は中国共産党の劉少奇によるものとする説が有力になっている。

【盧溝橋に響いた謎の銃声】
盧溝橋事件を引き起こした最初の発砲の犯人は誰か。これについては現在、中国共産党とその背後にいたコミンテルンであるというのがほぼ確定的とされているが、以前は支那事変史における最大の謎とされていた。これまでに出された犯人説を整理してみると次のようになる。

1.日本の謀略説
行きづまった華北工作を武力で解決しようとした日本が引き起こしたとする説。柳条湖 事件の前例もあるため、一般にはこの説が信じられていたが、そのわりに決定的な証拠はない。
2.偶発説
日本軍の夜間演習を眼前にした第二九軍の兵士が恐怖にかられて発砲したのではないか とする説。だが、これも推量の域を出ない。
3.旧軍閥の策謀説 蒋介石の全国統一の陰で、実権を奪われた西北軍閥の馮玉祥らが華北における地位回復 をめざして糸を引いていたとする説。これも、裏付けとなるたしかな証拠はない。
4.中国共産党陰謀説
国共合作を決定的なものとするため、中国共産党が引き起こしたとする説。戦後、人民解放軍兵士の教育用テキストに当時の中国共産党北方局第一書記劉少奇の指令によるものと断定する記述があったとされる。もっとも、仮にそうだったとしてもそれだけでは事実と断定する根拠にはならないわけだが…。しかし、長征後、一時壊滅寸前にまで陥っていた中国共産党の状況をみれば、日中開戦にもっとも強い動機を持っていたのは、日本軍でも国民党でもなく、共産党であったことはあきらかである。
【支那事変の遠因となった辛丑条約】
支那事変の発端となったのは、北京郊外の盧溝橋における謎の発砲事件であった。この発砲事件については、中国侵略を企図する日本軍が最初に撃ったとする説が長い間主流だったが、最近の研究によるとこれは中国共産党の策謀であったことがほぼ明らかとなっている。

しかし、日本軍の濡れ衣はいちおう晴れたものの、それでも他国の領土に軍隊を駐屯させていたことに対して、それ自体あきらかな侵略行為であり、非難は免れないとする声がいまも跡を絶たない。では、なぜ日本軍は当時そんなところにいたのだろうか。実は、その発端は1901年、義和団事件後に締結された辛丑条約にまでさかのぼる。

当時の中国は、義和団の乱が収束した後も治安の悪化に歯止めがかからず、事実上の無政府状態であった。そのため強盗や殺傷事件が各地で頻発していたのだが、それらを取り締まるべき清朝政府は相変わらず政治的混乱が続いており、独力での治安回復は当分期待できそうもない。そこで、事件後にむすばれた辛丑条約では、治安維持と居留民保護のため外国軍隊の主要都市への駐留が認められることになったのである。

これはある意味、いまのソマリアのようなものだ。ソマリアにはいまも国連軍という名の外国軍が駐留しているが、それに対して侵略だなどと非難する人はほとんどいないだろう。同様に、当時の感覚では中国領内に軍隊を駐屯させるということはいまでいう国連平和維持軍のようなものだったのである。

こうして日本は支那駐屯軍を北京に駐留させることになったわけであるが、当然ながら当時軍隊を駐屯させていたのは日本ばかりではない。他の列強も当時同様に各地に軍隊を駐屯させていたのだということはこの際常識として知っておくべきだろう。

一文字山

盧溝橋

1937年7月7日、夜間演習中に発砲を受けた日本軍は翌日朝ただちに近くの一文字山を占拠した。ところが この後、再び3発の銃弾が宛平県城内から飛んできた。これに対し、北京の牟田口連隊長は「撃たれたら撃ち返せ」と命令。 ここに日中両軍による本格的な衝突が始まった。戦争中、「支那事変発端之碑」が建立されていた。宛平県の東方、 京漢線盧溝橋駅の南側。

中国人民日中戦争紀念館

中国人民日中戦争紀念館

盧溝橋事件発生50周年を記念して1987年に建てられた歴史記念館。支那事変に関する資料や写真が 数多く展示されている。なかでも事変の状況を伝える復元画は、リアルで見るものの感情をかきたてる。その他、 目を引くのは南京攻略の途上、2人の日本軍将校によって争われたといわれる「百人斬り競争」を 紹介した当時の新聞記事がある。もっともこの事件については、日本側からは物的な根拠がなく戦意高揚を狙ったただの作り話にすぎないという意見も出されている。北京西南郊、盧溝橋のたもとにある。 長椿街から309路のバスで盧溝橋下車。

広安門事件跡

北京に入城する日本軍

広安門事件は、1937年7月26日、居留民保護の名目で北京へやってきた日本軍が、城内へ入ろうとしたさい、 城壁の上から中国兵がいきなり機関銃の掃射を加えてきた事件。和平に向けて動き出していた日本側を牽制し、無理矢理戦争に引きずり込もうとした中国側の策謀であったとする見方もあり、前日に発生した廊坊事件とともに日中全面衝突を不可避とした一連の挑発事件のひとつ。北京の西南、広安門駅の付近。

焦荘店地下道戦遺跡記念館

順義県
地下道にひそむ中国兵

支那事変中、中国民衆は村落の地下に秘密の通路をはりめぐらし、侵攻してくる日本軍にゲリラ戦で 対抗した。こうした地下道は当時、中国各地につくられたが、ここもそのうちのひとつ。現在、 戦跡として保存されており、併設された記念館とともに一般公開されている。焦荘店の地下道は、 全長11、5kmあまりで縦横に交錯し、そのうちのいくつかは、近隣の村々にまで通じていたという。 出入口は、オンドルの上やかまどの下、さらに臼の下や馬小屋の中などに目立たぬよう 巧妙につくられ、地下道内には敵を攻撃する銃眼や砲台をはじめ、監視所や休憩室、 さらに落し穴などがもうけられていた。記念館には、当時、住民が地下道を掘るのに 使ったスコップやつるはし、戦闘用の武器などが展示されている。また地下道は改修され、 参観者が内部に入って見学できるようになっている。北京市の東北郊外、順義県の焦荘店にある。 京承線または京通線順義駅から焦荘店行きバスに乗り、終点下車。

河北

廊坊事件跡

廊坊

廊坊事件は、1937年7月25日、軍用電線の修理のため当地に派遣された日本軍部隊が、中国軍に射撃され、 両軍の衝突を引き起こした事件。和平に向けて動き出していた日本側を牽制し、無理矢理戦争に引きずり込もうとした中国側の策謀であったという見方もあり、翌日に発生した広安門事件とともに日中全面衝突を不可避とした一連の挑発事件のひとつ。廊坊は 北京と天津との間にある。

通州事件跡

通県
通州事件を伝える当時の新聞

1937年7月29日、通州の中国人保安隊3000名が、同地に駐屯していた日本軍守備隊および 日本人居留民をいっせいに襲った。日本人200人あまりが犠牲になったこの事件は、その殺害方法があまりにもむごたらしかったこともあり、これをきっかけに「中国討つべし」の声が日本国内に一気に高まることになった。通州は北京東方、 現在の通県。

白求恩戦地医院旧址

河間県
傷病者の治療にあたるベチューン

カナダ共産党から派遣され、八路軍に従軍したカナダ人医師ノーマン・ベチューンがもうけた野戦病院跡。 支那事変当時の1939年、解放区に侵入した日本軍とこれを迎え撃つ賀龍部隊との間で激戦が繰り広げられた。 そのさい賀龍部隊とともに前線におもむいたベチューンは、近くにあった小さな廟のなかに野戦病院をもうけ、 日本軍の砲弾が降り注ぐなか、果敢な医療活動にあたった。ベチューン手術室記念館が併設されている。 滄州の西、河間県の県城北約30キロの屯荘にある。

石家荘

百団大戦跡

石家荘
線路を破壊する民兵たち

国民党内に対日妥協機運が生まれたのを見た中国共産党は、抗戦を鼓舞するため1940年8月、 計115師団、40万の兵力を投入して華北の主要な鉄道にいっせい攻撃を加えた(百団大戦)。 これによって正太線はズタズタに寸断され、また満州鞍山製鉄所の燃料供給源であった井(脛) 炭坑などは半年間も採炭不能に陥るなど日本側に大きな被害をもたらした。正太線は 正定と太原を結ぶ鉄道路線。井(脛) 炭坑は石家荘の西にあった。

河北博物館

石家荘

 河北一帯の歴史と風物に関する資料が収集展示されている。古代から現代まであわせて 14万点以上の文物が収蔵されている。近現代史に関する展示コーナーでは、支那事変中につくられた 「地下道戦」をはじめ、ゲリラ戦で使用された武器や道具などの資料が数多く紹介されている。 駅の東側、長安西路にある。

冉荘地下道戦遺址

清苑県

支那事変中につくられたゲリラ戦用の地下道跡。当時、中国の農民は共産党軍の指導に よって秘密の地下道を掘り、ゲリラ戦をおし進めた。こうした地下道は、今も各地に残っているが、 ここもそのひとつ。地下道は、村内を中心に4本の幹線と26本の支線が縦横に張り巡らされ、 長さは合計15キロにもおよぶ。ところどころに落し穴がもうけられており、出入口は祠や塀、 台所などで巧妙にカモフラージュされていた。現在、冉荘地下道戦記念館が建てられており、 当時の熾烈なゲリラ戦の様子を伝えている。保定市の南、清苑県の南方約15キロの冉荘村にある。

山東

徐州会戦跡

徐州
徐州での市街戦

南京攻略後の1938年4月、大本営は蒋介石直系軍の湯恩伯軍をはじめ多くの中国軍が 徐州方面に集結しているのをみて、徐州作戦を発令した。日本軍の編成は、 寺内寿一司令官率いる北支那方面軍と、畑俊六司令官率いる中支那派遣軍(南京虐殺の責任を 問われ解任された松井石根司令官の中支那方面軍に代わり新たに新設された)を主力とし、 それぞれ北支那方面軍は華北方面から徐州をめざし、また中支那派遣軍は南京方面から 北上するというかたちをとった。前哨戦となった台児庄の戦闘では、それまで連戦連勝だった 日本軍が初めて中国軍によって撤退させられるという事態も発生したが、結局、5月19日、 日本軍の手によって徐州は陥落した。ここに華北占領区と華中占領区が結ばれ、 いわゆる南北の打通が実現した。しかし、中国軍は徐州攻略直前、小部隊に分かれて 包囲網をかいくぐり脱出。当初、日本側が企図した包囲殱滅戦には失敗した。 徐州攻略作戦の主な戦跡は次のとおり。

台児庄戦跡

徐州
台児庄駅

徐州会戦の前哨戦となった戦い。1938年3月24日、日本軍の瀬谷部隊が台児庄の一角を占領したが、 中国軍は孫連仲部隊を中心にこれを猛攻撃。四面楚歌に陥った瀬谷部隊は4月6日、ついに台児庄から撤退した。 中国軍はこれを「台児庄で大勝利。日本軍敗退」と宣伝。無敵皇軍の神話はここに崩壊した。徐州の東北にある。

黄河決壊跡

鄭州
黄河決壊後の農村

1938年6月、徐州を追われた蒋介石軍は、花園口付近で黄河の堤防を爆破し、日本軍の追撃をかわそうとした。 だが、決壊した部分からあふれ出た水は、奔流となってまたたくまに河南平野全域をのみこみ、 90万人の溺死者を出す惨事となった。その後、解放直前の1947年に決壊部分が修復されるまで、 このあたりは泥土で覆われた不毛の土地となっていたという。現在は灌漑技術がすすみ、 空の青、植樹の緑がコントラストをなす美しい渡し場となっている。鄭州市の北18キロの黄河南岸。

江蘇

南京虐殺記念館

南京
南京虐殺記念館

中国共産党政府の主張によれば、1937年12月、 日本軍は国民政府の首都南京を攻略したさい、無防備の市民を含む中国人を大量殺害したという。ここは、その「事件」、いわゆる「南京虐殺」をテーマにした歴史記念館である。 中国側によれば殺害事件は、市内外あわせて10カ所以上で行われたが、なかでも記念館のあるこの一帯での 犠牲者がもっとも多かったという。建物の正面には「300000」という犠牲者の数字を示すレリーフがはめこまれ、館内には当時撮影されたものという写真や生存者の証言、さらに付近から発掘された人骨が土に埋まったままの状態で展示されている。市内西南の江東門にある。7路バスで茶南小区下車。

中山埠頭虐殺記念碑

南京
南京での戦い

下関から中山埠頭にかけては江東門と並んで多くの中国人が殺害された場所。 中国側によれば1937年12月16日から18日にかけて、数万人にのぼる市民がここに連行され、 機銃掃射で殺害されたという。しかし、実際には戦線を離脱して逃げようとした中国兵を国民党の督戦隊(前線部隊の逃亡を防ぐための部隊)が射殺したために起こった事件だともいわれる。長江をのぞむ中山埠頭の近く。

八路軍駐京弁事処旧址

南京

 支那事変勃発後、紅軍は八路軍と改称され、国民党と協力して 日本軍にあたることになった。ここはその当時、八路軍の南京における出先機関が置かれた場所。 門をはいった西側にある小さな建物が受付で、中央にある3階建ての建物1・2階がそれぞれ応接室 および無電室として使われた。また背後にある建物は印刷所で、支那事変開始直後の1937年9月、 八路軍が山西の平型関で日本軍に大勝したさい、ここの謄写版印刷機で号外を印刷し、 市民に配布したという。市内青雲巷41号にある。

上海

大山勇夫中尉殺害事件跡

大山勇夫中尉殺害事件現場

 1937年8月9日夕、海軍特別陸戦隊の大山勇夫中尉と斉藤要蔵一等水兵が上海西部地区を視察中、 中国の保安隊によって射殺された事件。中国側は大山中尉らが制止もきかずに飛行場に入ろうとしたので やむなく射殺したと証言しているが、現場の状況からみて中国側の説明には矛盾した点が多く、むしろ7月の北京における広安門事件や廊坊事件、通州での日本人居留民虐殺事件に続く中国側による挑発事件のひとつと位置づけられる。現場は虹橋飛行場東南部の越界路の路上。

上海戦跡

市街戦

1937年8月13日夕、反日感情の高まっていた上海でついに日中両軍の衝突が発生した。同日夜、 日本政府は松井石根を司令官とする上海派遣軍の派兵を決定。ここに第2次上海事変が勃発した。戦場は、 蘇州河北岸から徐々に閘北、そして上海北郊へと拡大した。上海北郊は無数のクリーク(小運河)が 走る天然の要塞で、進撃する日本軍を悩ませた。戦闘は2か月あまりも膠着状態に陥ったが、 柳川兵団の杭州湾に上陸すると中国軍は前線から撤退。ついに上海は日本軍の占領下におかれた。 だが、日本軍は撤退する中国軍を追ってそのまま南京へと侵攻した。第2次上海事変の主な戦跡は、次のとおり。

閘北

中国国民党の宣伝写真

 閘北は、第2次上海事変で最初の本格的な市街戦が行われたところ。なかでも中国軍が たてこもった商務院書館をめぐっては激しい攻防が繰り広げられた。商務院書館は、 上海北駅と虹口公園を結ぶ宝山路のなかほどにあった。

大場鎮

大場鎮の戦闘

「上海戦線の203高地」といわれた大場鎮は第2次上海事変中、最大の激戦地となった場所。 無数のクリークに守られたこの天然の要塞を陥とすため日本軍はその兵力の8割を失った。上海市の西北、 北郊駅から西に下がったところ。

金山衛

杭州湾に上陸した日本軍

上海戦線の膠着状態を打開するため柳川平助中将率いる第10軍が、1937年11月5日払暁、 杭州湾北岸の金山衛に奇襲上陸を敢行した。その翌日、上海の蘇州河北岸に「日軍百万杭州北岸に上陸」と 大書したアドバルーンが掲げられたが、それが中国軍の士気をくじいたことは有名。 上海から伸びる金山支線の終着駅。

ジェスフィールド七六号跡

ジェスフィールド七六号ジェスフィールド七六号跡

重慶側のテロに対抗するため日本軍の肝いりで造られた「対重慶特工総部」の建物跡。 ジェスフィールド76号はその通称名で、本部がジェスフィールド路76号にあったためそう呼ばれた。

このジェスフィールド76号は 「中国人テロには中国人テロを」という方針のもと元国民党特務の丁黙邨と李士群を責任者にすえ、 藍衣社やCC団など蒋介石系特務機関を向こうに回して当時熾烈なテロ合戦を展開したという。

場所は、 静安寺から万航渡路を北上した康家橋付近。1990年以前は当時の建物が残っていたが、 現在はとりこわされ学校の敷地となっている。また近くの愚園路のなかほどに汪兆銘の邸宅もあった。

東亜同文書院

東亜同文書院跡

かつて対中進出の人材養成を目的として日本政府によってつくられた東亜同文書院。現在、 その建物は上海交通大学としてつかわれている。淮海西路と華山路の交差点。

上海今昔

大世界

大世界

上海の暗黒街の大ボス杜月笙らが経営していた一大歓楽場。アヘン吸引所から賭博場、売春宿など、 東洋の魔都上海にあるすべての娯楽と背徳がつめこまれていた。新中国成立後は、人民娯楽場、 上海市青年宮と名をかえてきたが、現在は再び「大世界」の名にもどった。ダンスホールやカラオケルーム、 コンサートホールなどがある。

工部局

工部局跡

 もともと都市づくりの土木工事をおこなう役所だった工部局は、その後、租界の徴税権をにぎり、 やがて事実上の行政機関となった。現在、上海市のいくつかの政府機関がはいっている。

パブリックガーデン

黄浦公園

解放前、「犬と中国人は入るべからず」という侮辱的な立て札があったことで有名な 旧パブリックガーデン。現在は、黄浦公園と呼ばれている。最近、全面改修されたこともあり、 かつての面影はあまりない。

虹口公園

虹口公園の魯迅像

今の魯迅公園。虹口と呼ばれるこのあたりは、かつて大勢の日本人が生活していた地区である。

ガーデンブリッジ

ガーデンブリッジ

上海のシンボルともいえるのが、蘇州河にかかるこのガーデンブリッジ。中国語では外白渡橋といい、 一説によると「外国人は無料で渡れる橋」という意味らしい。

上海ブロードウエーマンション

上海ブロードウエーマンション

現在の上海大廈ホテル。かつて、ガーデンブリッジとともに上海のシンボルとされた建物で、 有名な女性スパイ川島芳子が常宿としていたという。また日本軍の物資調達を担当した児玉機関が おかれていた。

キャセイホテル

現在の和平飯店北楼

 上海に君臨したユダヤ系財閥サッスーン一族が所有するホテルで、支那事変当時、 各国の外交官やスパイが互いに情報収集にしのぎをけずっていた。現在は、和平飯店北楼となっている。

香港上海銀行(匯豊銀行)

一時中国共産党が使用していた

 上海の経済を支配した銀行で、いわば当時の帝国主義のシンボル的存在。現在は、 上海市人民政府と上海市共産党委員会の建物となっている。

四馬路(スマロ)

1980年代の上海の街並

 かつて「夢の四馬路か虹口か」とうたわれた上海きっての歓楽街四馬路は、今の福州路にあたる。 ちなみに南京路が大馬路(ターマーロ)で、ここから南へ平行に走る道路を順に、二馬路(九江路)、 三馬路(漢口路)と呼んだ。

上海陸戦隊司令部

上海陸戦隊司令部跡

旧日本軍の海軍陸戦隊司令部がおかれていた場所。現在は食料品店や銀行、会社などの雑居ビルとなっている。四川北路を北上し、 魯迅公園の前で東江湾路にはいる交差点にある。

安徽

徑県新四軍軍部旧跡記念館

徑県

 紅軍主力が長征に出発した後も、華南に残ってゲリラ戦を続けていた紅軍の一部は、第2次国共合作成立後、 国民党軍に組み込まれ、新編第4軍と呼ばれることになった。新四軍は、華中深く侵入した日本軍の背後を おびやかすなど、抗日闘争にも大きな活躍をした。ここは、その新四軍の本部跡に建てられた歴史記念館で、 付近には参謀本部、政治部、大ホール、兵器工場、葉挺旧居、葉挺橋、中共中央東南局などの旧跡が 散在している。また1941年1月、国民党の命令によって移動中の新四軍部隊約9000人を 8万人あまりの国民党軍が突然、急襲、軍長の葉挺を捕え、副軍長の項英を殺し、兵士8000人を 虐殺した皖南事件のさい、新四軍の一部が国民党の包囲網を突破した戦跡(章家渡)も残っている。 安徽南部、徑県の西方25キロの雲嶺山にある。

江西

上饒強制収容所革命烈士記念館

上饒

1941年1月、安徽南部に駐屯していた新四軍が長江北岸へ移動中、突然、国民党の攻撃をうけ、 多くの将兵が虐殺された(皖南事件)。この事件によって副軍長の項英はじめ1万人近くが殺され、 生き残った将兵たちは江西上饒にある強制収容所に監禁された。ここは、その上饒の強制収容所跡に 建てられた記念館で、皖南事件に関する資料が展示されている。また翌年6月、新四軍将兵が 2度にわたっておこした茅家嶺暴動および赤石暴動に関する資料も展示されている。なお記念館の隣に、 当時「獄中の獄」とよばれた茅家嶺監禁室の跡が残っており、現在、拷問用具などが陳列されている。 江西東部、上饒市内南郊の雷公山麓。

山西

平型関戦役遺址

霊邱県
平型関の戦い

国民政府軍を追って山西の山岳地帯へと入った日本軍(板垣征四郎師団長)は、 1937年9月25日、崖の上で待ちぶせしていた林彪率いる八路軍によって壊滅させられた。 日本軍の中国軍に対する初めての敗北であった。大同の東南、霊邱県の西方。現在、 京原鉄道(北京~太原)が走っている。

白求恩模範病室旧址

五台県
傷病者の治療にあたるベチューン

支那事変中、紅軍側で戦地医療にあたったカナダ人医師ノーマン・ベチューンが設けた病院跡。 1938年6月、この地におもむいたベチューンは、村の龍王廟を改造して野戦病院をつくり、 負傷した兵士たちの治療にあたった。ここは、その野戦病院跡で、のちに晋察冀軍区司令部によって 「ベチューン模範病室」と命名された。戦時中、日本軍によって破壊されたが、新中国成立後、 現状どおりに復元された。太原の東北方、五台県の県城東方45キロの松巌口村にある。

八路軍総部旧址

武郷県
武器を製造する八路軍

支那事変中、八路軍は神出鬼没のゲリラ戦術で日本軍の支配地域をおびやかした。ここは、 その総司令部跡で、山西東部を南北に走る太行山脈の奥深い山中にある。日本軍は何度も 大軍を差し向けて、その司令部を叩こうとしたが、結局探し出せなかったという。司令部跡の ひとつ王家峪旧址は、両側を山で挟まれた険しい渓谷にあり、朱徳旧居をはじめ3棟の建物が 現存している。近くには朱徳が植えたといわれるポプラの大木があり、その枝の折れ口が ちょうど紅軍の星の形に見えることから、村人は今でも「朱徳のポプラ」と呼び親しんで いるという。もうひとつの司令部跡である磚壁村旧址は、王家峪の東方10キロにあり、 こちらも前方は深い渓谷、背後はそそり立つ山という険しい山中にある。 1940年に発動された百団大戦は、ここで指揮されたといわれる。現在、王家峪に 八路軍総部旧址記念館が開設されており、館内には支那事変に参加した農民のエピソードをはじめ、 当時の人民戦争に関する資料が多数展示されている。武郷県の東約45キロ。武郷県は太原の 南約100キロ のところにある。

湖北

武漢戦跡

武漢
武漢に入城する日本軍

武漢攻略作戦は1938年8月に開始された。日本軍の編成は、中支那派遣軍司令官畑俊六大将の 指揮下に第2軍(東久邇宮稔彦王中将)と第11軍(岡村寧次中将)からなり、それに航空兵団主力と 海軍が参加した。作戦の概要は、第11軍を長江に沿って武漢へと進撃させ、第2軍を大別山系の 北側から南下させ、第11軍を支援するというものであった。対する中国軍は李宗仁の 第5戦区軍を長江北岸に、陳誠の第9戦区軍を南岸に配置し、その数およそ120万といわれた。 日本軍は途中マラリアと中国軍の激しい抵抗に悩まされたが、10月25日ついに武漢を陥落させる ことに成功した。この戦いで日本軍の損害だけでも戦死者約7000人、戦傷者約25000人という 犠牲を出したが、蒋介石はその直前に政府機関をさらに奥地の重慶へと移転させており、 中国軍の主力を叩くという日本側の意図はまたもや挫折した。ちなみに武漢一番乗りを果たしたのは 第6師団の佐野支隊で、佐野支隊は、戴家山のトーチカ陣地を突破して漢口市内の一角に突入した。 その後、派遣軍総司令官畑俊六大将らを迎えて武漢入城式が11月3日、漢口・江漢関前で挙行された。 武漢攻略作戦の主な戦跡は次のとおり。

安慶

武漢攻略作戦の最初の目標となった都市。6月12日、海軍の揚子江部隊と陸軍の波田 支隊が上陸した。

九江

安慶から遡江した波田支隊を先鋒とする日本軍は途中、中国軍の猛撃に悩まされながらも7月26日、 ついに九江を占領した。この九江攻略作戦は、当時V作戦と呼ばれた。

星子

九江から南下した101師団と106師団が8月21日に攻略。廬山のあるふもとの村で、 詩人陶淵明の故郷としても有名。

馬頭鎮・田家鎮

長江の南北両岸に位置し、武漢防衛の最大の拠点となった場所。中国軍の抵抗は激しく、 武漢攻略作戦における最大の激戦地となった。馬頭鎮の攻略に当たったのは第9師団と第27師団および波田支隊で、 9月14日に占領に成功。また田家鎮の方は第6師団の今村支隊が当たり、9月14日に占領に成功した。 なおこのあたりは、かつて三国志時代、呉の武将周瑜が両岸にはりめぐらした鉄の鎖によって 魏の曹操率いる大船団を破った「鉄鎖沈江」のエピソードで有名な場所でもある。

八路軍駐武漢弁事処旧址

武漢

支那事変中、武漢におかれた共産党の出先機関の跡。1937年12月、日本軍の侵攻により南京が陥落すると、 南京駐在の八路軍弁事処は国民政府の諸機関とともに武漢に移駐した。その後、日本軍の侵攻により さらに重慶に移るまでの約1年間、周恩来や葉剣英らがここを拠点に軍需物資の調達や抗日革命宣伝を 行った。現在、執務室・無電室・会議室などが復元され、「八路軍駐武漢弁事処革命史展覧」が常設されている。 漢口の長春街67号。中山大道の東、盧溝橋路と山海関路の間にある。

陝西

八路軍西安弁事所紀念館

西安
延安に赴く青年たち

 西安における中国共産党の出先機関だった場所。1936年の西安事件によって第2次国共合作が成立すると、 翌年5月、中国共産党はここに「紅軍連絡所」を設置。その後、紅軍が国民党第八路軍と改称されたため、 「八路軍西安弁事所」と改称した。延安入りを希望する人々へのビザ発給業務はここで行われ、支那事変期間中、 多くの青年たちがここを通って延安へ入った。また解放区の医療に献身したカナダ人医師ノーマン・ベチューンや 共産党の活躍を報道した何人かの外国人ジャーナリストもここを経由して延安へ潜入したという 。内部はいくつかの部屋にわかれ、それぞれ当時の資料や写真、文物などが陳列されている。 一角に秘密の地下室があり、国民党の監視下にあった当時の緊迫した状況がうかがえる。西安駅の近く、 北新街の七賢坊にある。3路、4路、5路のバスで北新街下車。

延安

延安関連史跡

延安
延安革命紀念館

延安時代の革命資料を展示した歴史記念館。館内には、支那事変中、日本軍からろ獲した武器をはじめ、 長征中の食料となった野草、大生産運動の際に使われた農具や紡車など、苦難の時代をしのばせる数多くの 遺品が展示されている。また西側ホールには、1947年3月、侵攻してきた国民党軍をかくらんするため、 中国共産党中央が延安を撤収してから翌年4月延安にもどるまでの転戦経過を、ランプと音声で詳しく 説明してくれる戦場模型がある。戦地医療に挺身したカナダ人医師ノーマン・ベチューンや、「中国の赤い星」を 著わしたジャーナリスト、エドガー・スノーら、革命を支援した外国人に関する資料も豊富に展示されている。 市内西北、清涼山の西の王家坪にある。

【関連史跡】記念館の東隣は、中央軍事委員会および八路軍総司令部の旧址。毛沢東や朱徳、彭徳懐の 葉剣英らの旧居も残っている。

延安関連史跡

延安関連史跡
延安の毛沢東

大長征を終えた紅軍は最初、保安(現在の志丹)に入った。だが、黄土台地にある保安は侵食が 激しく道も狭かったため、1937年1月延安に進駐し、ここを新たな根拠地とした。以来10年以上にわたって、 中国共産党はここを「赤い首都」として支那事変、解放戦争を戦い抜いた。西安の北方、 約250キロの黄土高原の山中にある。「中国革命の聖地」として多くの史跡が残っている。

延安宝塔

延安のシンボル宝塔

革命の聖地延安のシンボル。明代の創建になる九層八角形の塔。市街の東、宝塔山の山頂に建つ。

清涼山革命旧址

当時、この山の中腹に新華社や解放日報社、中央印刷工場などが設けられていた。 唐代から宋代にかけて掘られた石窟寺院の万仏洞もある。延河をへだてた東北方。

鳳凰山麓革命旧址

毛沢東の住居跡

毛沢東ら共産党幹部の最初の住居跡。この地方独特の窰洞(ヤオトン)形式で、山の斜面に掘られた洞窟を そのまま利用している。毛沢東は、ここで「実践論」「矛盾論」「持久戦論」など数多くの論文を執筆した。 またカナダ人医師ノーマン・ベチューンと会見した場所でもある。現在、毛沢東と朱徳の旧居が残っている。 市内中央、鳳凰山の麓。現在の延安賓館の近く。

【関連史跡】鳳凰山の南麓には、陝甘寧辺区政府参議会旧址がある。

楊家嶺革命旧址

延安時代、共産党幹部の住居は戦況を反映して何度か移転しているが、この楊家嶺は、 鳳凰山麓についで2番目の引っ越し先となった場所。並木道を通って旧址内に入るとすぐ目の前に中央大講堂があり、 その背後、山の斜面にはりつくように幹部の旧居が残っている。いずれもこの地方独特の窰洞である。 毛沢東は、ここで「新民主主義論」を執筆した。市内西北の楊家嶺にある。

棗園革命旧址

中共幹部の住居跡

毛沢東ら中共幹部の3番目の住居が置かれた場所。毛沢東らは、1940年から47年までの間に 2度にわたってここに住んだ。棗や杏などが生い茂る美しい林の中にあり、敷地内には小講堂をはじめ、 作戦研究室などの建物が残っている。裏山にはやはり窰洞形式の住居が残っており、ふもとにあるのが劉少奇、 彭徳懐の旧居、山上にあるのが毛沢東、朱徳、周恩来の旧居である。市内西北。延安大学の近くにある。

王家坪革命旧址

中国共産党大会堂跡

中国共産党の中央革命軍事委員会と八路軍総部の所在地。毛沢東、朱徳、葉剣英らの旧居がある。 市の西北、王家坪村にある。

南泥湾

大生産運動

1941年、日本軍と国民党軍による封鎖によって打撃を受けた共産党支配地区では、局面打開のため、 中共中央の指導で大生産運動が展開された。そのモデル地区となったのがここ南泥湾。八路軍は、 もともと荒れ地だったこの土地を開墾し、肥沃な農地に生まれ変わらせた。延安の南東90キロ。

日本人工農学校宿舎跡

延安
延安工農学校の日本人

支那事変中、八路軍の捕虜となった日本兵の多くは前線から延安まで移送されたのち、 ここで共産主義による再教育を施された。教育にあたったのは日本共産党の野坂参三らである。 宝塔山の麓にある。

重慶

紅岩革命記念館

重慶
紅岩村での周恩来

ここは支那事変中、重慶におかれた中国共産党の出先機関だった建物で、1階が八路軍弁事所、 2階が中国共産党中央南方局として使われていた。建物の周囲には、国民党の憲兵所や特務機関、 機関銃陣地などが配置され、その活動は常に厳しい監視下にあったという。なお2階の東側奥には、 1945年秋、重慶会談にやってきた毛沢東が泊まった部屋がある。現在、歴史記念館として 一般公開されており、館内には、500点以上の文物や写真が展示されている。場所は、市内西郊の紅岩村。

【関連史跡】共産党重慶駐在代表の周恩来が事務所としてつかっていた周公館が、嘉陵江大橋の東、 中山四路曾家岩50号にあり、現在、紅岩革命紀念館分館となっている。また1945年10月10日、 国共両首脳による会談がおこなわれたさい、毛沢東と蒋介石が「双十協定」に調印した桂園もこの周公館の近くにある。

周公館

重慶

1938年から46年まで、共産党重慶駐在代表の周恩来が使用していた建物。別名、曾家岩50号。 国民党は、その活動を監視するため右隣に藍衣社の首領・戴笠の公館を置き、左隣には国民党系の 警察局派出所を配置した。現在、紅岩革命紀念館分館となっている。嘉陵江大橋の東の中山4路にある。

中美合作所集中営旧址(白公館)

重慶

1942年、アメリカの援助を受けて国民党が開設した中美(米の意味)特殊技術合作所の跡地。 ここは特務機関員を訓練する養成機関であるとともに共産党員など国民党に敵対する人間を収容する 牢獄でもあった。内部には20あまりの牢獄があり、そのうち最大のものが白公館と渣滓洞である。 白公館は、正式には第1看守所と呼ばれ、男性用の監房が20ほどあり、一方、第2看守所であった渣滓洞は、 男性用の監房が16、女性用の監房が2部屋あった。いずれも拷問室があり、大勢の革命家が ここで犠牲となったという。解放戦争末期、ここには300人ほどの政治犯が収容されていたが、 1949年11月、国民党が重慶を逃亡するさい、そのほとんどが殺害されたともいわれる。 現在、特殊技術合作所跡を中心に展示室がもうけられており、当時の遺品や文献などが陳列されている。 また白公館と渣滓洞の両収容所跡には、拷問室や日の射さない陰湿な洞窟跡が残っている。 沙坪覇区の歌楽山のふもとにある。

【関連史跡】収容所があった場所は現在、歌楽山烈士陵園となっている。

雲南

聶耳墓

昆明
義勇軍行進曲のポスター

中国国歌「義勇軍行進曲」の作曲家聶耳の墓。1912年、昆明に生まれた聶耳は18歳の時、 上海に出て音楽家としてデビュー。やがて劇作家の田漢らとともに左翼文化運動に身を投じた。 35年はじめ、田漢の映画「風雲児女」の主題歌として作った義勇軍更行進曲は、 たちまち中国全土で大ヒットし、中国民衆の抗日闘争を大きく鼓舞した。だが、国民党の弾圧にあい、 同年7月、亡命先の日本で遊泳中溺死した。楽器の形をした墓は、24の石段と7つの花壇で飾られており、 石段は24歳で死んだその若い生命を、7つの花壇は7音階をそれぞれ象徴している。 市の西南15キロの西山にある。


日中戦争は誰が引き起こしたのか?

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