国民革命関連史跡

トップ > 時代別歴史> 国民革命関連史跡
国民革命関連史跡
北京

北京大学紅楼

北京大学を出発する五四運動のデモ隊

北京大学の旧校舎のひとつ。赤レンガ造りのため通称紅楼とも呼ばれる。辛亥革命後、中国共産党の創設者・李大釗が ここで図書館主任をつとめていた。また同じころ毛沢東も李大釗の下で働いていたことがあり、現在「毛主席在校工作処」 および「李大釗記念堂」として一般公開されている。ちなみに1919年の五四運動の際、天安門へむかう学生たちが デモ行進を開始したのはここの北側広場で、現在、民主広場と称されている。天安門の東北、中国美術館の近く。 市内東城区五四大街29号。

李大釗墓

李大釗

中国共産党の創始者の一人、李大釗の墓。1927年4月、奉天軍閥張作霖が支配する北京は、 熾烈な「赤狩り」の嵐が吹き荒れていた。こうした中、李大釗ら北京在住の共産党員は、東交民巷(天安門広場の東隣) にあるソ連大使館に身を隠していたが、強引に踏み込んだ張作霖側の官憲によって逮捕され、同月28日、 西交民巷(天安門広場の西隣)の監獄内で絞首刑に処された。処刑後、遺体は宣武門外の妙光閣浙寺に置かれていたが1933年、 共産党組織の奔走によって秘密裡に当地に埋葬された。墓前には李大釗の塑像が置かれ、 背後には鄧小平の揮亳になる記念碑が立っている。併設の陳列館には李大釗に関する資料が展示されている。頤和園の西方、 海淀区の万安公墓内。333路のバスで万安公墓下車。

北京魯迅旧居(魯迅博物館)

魯迅が北京時代に住んだ家。魯迅は1924年5月に越してきてから、三・一八事件に連座して北京を追われるまで 2年間あまりをこの家ですごした。伝統的な四合院のつくりで、北側の小さな一室が魯迅の書斎兼寝室だったところ。中庭には、 魯迅が手ずから植えた3本のライラックの木があり、いまも春になるとかぐわしい香りがあたりに漂うという。 故居の東側に魯迅博物館が併設されており、2万点以上にのぼる関連資料の他、魯迅の蔵書1万3000冊余りが 納められている。市内西城区阜成門内西三条胡同21号にある。102、103、101、121路トロリーバスで阜成門下車。

三一八烈士墓

1926年3月18日、北京市内で日本の内政干渉に抗議する学生らがデモを行った際、時の権力者段祺瑞がこれを弾圧、 47人が虐殺され、200名以上が負傷するという事件がおこった。ここは、その三・一八事件で犠牲になった47名の遺体を葬った 陵園で、市内海淀区の円明園の西南隅「九州清宴」遺址にある。犠牲になった学生のなかには魯迅の教え子もおり、 魯迅は『花なきバラ』という文章のなかで「これはひとつの事件の結末ではない、発端なのだ」と怒りを表現している。 墓碑は高さ9メートル、六角形をした大理石で、正面には「三一八烈士公墓」の7字が刻まれている。 331路バス終点下車。または365路バスで円明園下車。

陶然亭公園

パリ在住の中国人留学生が
発行した政治改革を訴えるパンフレット

永定門西街にある陶然亭公園は1920年、周恩来と李大釗の呼びかけによって当時の5つの急進的な政治団体が集まり、 『連合改造の宣言』を発表した場所として知られている。これは、翌年の中国共産党創設を準備する上で大きなステップと なった出来事であった。またこの陶然亭公園は戊戌維新のさい、康有為、梁啓超、譚嗣同らが変法の方策を練った場所でも ある。前門大街を南へ下って、永定門西街を突き当たったところにある。

長辛店二・七記念館

1923年2月27日、京漢線沿いの鉄道労働者らが、労働組合公認を要求してストライキに立ち上がった。その際、 直隷軍閥呉佩孚は、軍隊を差し向けてこれを弾圧、長辛店の労働者を含む死者40数人、負傷者200人を出す騒ぎと なった。ここは、その二・七虐殺事件を記念して建てられた歴史博物館で、事件に関する資料や犠牲者の遺品などが展示 してある。北京市西南郊外、豊台区長辛駅の西側の公園内にある。京漢線の列車に乗り、長辛店下車。

天津覚悟社旧址

覚悟社のメンバー

五四運動後の1919年9月、周恩来が中心となって組織した学生運動団体・覚悟社が置かれた場所。覚悟社は、 中国共産党創設以前に初歩的な共産主義思想を広めた革命団体のひとつで、参加者のなかにはのちに周恩来の妻となる 鄧頴超もいた。木造の小さな平屋で、当時、メンバーはここで機関誌「覚悟」を編集していた。河北区宙緯路三戒里4号。

周恩来同志紀念館

周恩来が15歳から19歳まで学んだ母校南開中学の建物跡に設置された歴史資料館。館内には、学生時代の作文や演説稿、 卒業証書をはじめ、のちに彼が主筆をつとめた「天津学生連合会報」や獄中闘争を記した「警庁拘留記」などが展示されており、 若き日の周恩来の足跡がしのばれる。南開区南開四馬路。12路バスで五馬路下車。【関連史跡】なお日本留学から帰国した 周恩来が入学した南開大学には、「我是愛南開的」と書かれた記念碑と周恩来記念室がある。

河北
楽亭県

李大釗故居

楽亭県
李大釗

中国共産党創設者の一人、李大釗の生家。李大釗は1889年の生まれ。1913年、 天津の北洋法政専門学校卒業後、日本に留学。早稲田大学政治本科で学んだ。日本留学中、マルクスレーニン主義に触れ、 帰国後『庶民の勝利』『ボルシェビズムの勝利』などの論文を執筆し、共産主義の中国への普及につとめた。1918年、 北京大学の経済学教授兼図書館主任に就任。当時、北京大学の図書館員として働いていた毛沢東にも思想的な影響を 与えたといわれる。1920年4月、コミンテルンのヴォイチンスキーの奨めにより、上海の陳独秀とともに中国共産党を 結成。以後、中国共産党の最高幹部のひとりとして、また中国におけるマルクス主義の第一人者として北方区での工作を 担当した。だが、1927年4月、全国的な「赤狩り」の嵐が吹き荒れるなか、張作霖政府によって処刑さ れた。故居は楽亭県の県城東南の大黒村にあり、河北東部の典型的な民家のつくり。記念館が併設され、 写真や遺稿、遺品などが展示されている。

江蘇

周恩来故居

淮安
子ども時代の周恩来

周恩来の生家。1898年に生まれた周恩来は、天津の南開中学を卒業後、日本留学をへて1919年、 学生団体覚悟社を結成。天津における学生運動のリーダー的存在となった。翌年、フランスへとわたり、中国共産党に入党、 欧州支部の責任者となった。帰国後は、黄埔軍官学校の政治部主任を皮切りに中国共産党の最高幹部のひとりとして 活躍した。故居には、少年時代に使った部屋をはじめ両親の部屋、養母や乳母の部屋などが残っている。また 内部には当時のポートレイト写真をはじめ、自ら編集長をつとめた「淮安日報」や直筆の手紙など、 多くの遺品が展示されている。市内の中心となる鎮淮楼から見て西北の付馬巷。曲巷と紅光西巷の交差点 にある。また市内東北の桃花垠には「周総理記念館」がある。

上海

中国共産党第一次全国代表大会会址

中国共産党第一次全国代表大会会址

五四運動後、各地に誕生した中国の共産主義者グループは、1921年7月、その代表を上海に送り込み、全国的な統一組織 である中国共産党を正式に発足させた。ここはその代表大会が開かれた場所で、当時のフランス租界にある。出席したのは コミンテルンのマーリンはじめ張国熹、董必武、李漢俊、周仏海中国内外の共産主義者12名。そのなかには湖南代表 として若き日の毛沢東の姿もあった。会議では、まず各地の活動状況をそれぞれ報告した後、全会一致で中国共産党の 設立を決議。さらに今後の活動方針について話し合った。だが、4日目に密偵に探知されたため討議を一時中断、 メンバーはただちに裏口から逃走した。その後、会議は浙江嘉興県に移され、再び討議が続けられた。旧址内は、 のみかけの茶碗がそのままテーブルの上に置かれており、当時の様子が生々しく再現されている。また中国共産党誕生の 歴史的背景などに関する資料も数多く展示されている。興業路76号。淮海公園と復興公園のちょうど真ん中に位置し、 興業路と黄陂南路の公差点にある。

【コミンテルン】
ロシア革命後の一九一九年、各国におけるプロレタリアート(労働者階級)の革命運動を支援し、社会主義政権の樹立をはかる目的で創設された共産主義者の国際組織。モスクワに本部が置かれ、各国共産党はその支部という形をとった。一九二一年に中国共産党が結成されたのもコミンテルンから派遣されたヴォイチンスキーの働きかけによるものであった。だが、そもそも人民の大部分を農民が占める中国に、都市労働者による革命を説くマルクス・レーニン主義の公式をそのまま当てはめることは現実的ではなかった。そのため、中国共産党内部には農民を主体にすべしと主張する毛沢東派とあくまで教条主義に固執するモスクワ派との間に革命路線をめぐって深刻な対立がもたらされることになる。その対立は一九四三年にコミンテルンが解散されるまで続いた。

顧正紅紀念館

顧正紅紀念館

五・三○事件と、その中で犠牲になった共産党員・顧正紅に関する歴史資料館。1925年5月16日、 日本資本の内外綿第七工場で労働者と工場側が衝突、その際、共産党員の労働者顧正紅が射殺された。これに抗議する 民衆が5月30日、共同租界内をデモ行進していたところ、暴動化を恐れたイギリス警察隊が発砲、死者24名、 重傷者数十名を出す惨事となった。この 五・三○事件をきっかけに反帝闘争の機運が全国に拡大、その後の 国民政府による北伐を民衆レベルで後押しすることとなった。館内には五・三○事件に関する資料をはじめ、顧正紅が 手にしていたこん棒などの遺品、さらに労働者の管理に使われた便所札(当時は、労働者が便所でサボらないよう 便所に行くのも許可制だった)など当時の過酷な労務管理をしのばせる道具が数多く展示されている。澳門路150号。
また五・三○事件の現場となったのは人民公園に近い南京東路の康泰食品店の前。ただし事件の跡を示すものは、 壁面にかけられた小さな記念プレートのみである。なお、横光利一の小説『上海』はこの五・三○事件を背景に描かれたものとされている。

【五三〇事件と横光利一の『上海』】
「満潮になると河は膨れて逆流した。測候所のシグナルが平和な風速を示して塔の上へ昇っていった。海関の尖塔が夜霧の中で煙り始めた…」
この有名な書き出しで始まる横光利一の代表作『上海』は、一九二五年の五三〇事件に揺れるさなかの上海を舞台にした小説である。物語は、投機買いに疲れた銀行員を中心に、材木の買いつけにやって来た商社マン、風俗店で働く日本女性、白系ロシア人の娼婦、そして労働運動を指導する共産党の美しく若い中国人女性などをからめながら、当時の上海にうずまいていた革命の熱気を、またそれとは対照的に自堕落な日を送る上海在住の日本人たちの生態が虚無的に描かれている。
横光は一九二八年春に実際、一か月ほど上海に滞在しているが、これはそのときの印象を元に創作したものであろう。さらに小説に出てくる芳秋蘭という共産党員はあるいは五三〇事件の中で殺された顧正紅からインスピレーションを得たものでもあったろうか。もっとも顧正紅は女性ではなく男性であるが、横光はそれを美しい中国人女性に仕立てることで小説としての完成度を高めようとしたのかもしれない。

孫中山故居

上海孫文故居

孫文が上海時代を過ごした邸宅。洋風2階建てのフランス風家屋で、晩年になるまで自分の家をもたなかった 孫文のためにカナダ在住華僑らが共同で買い与えたもの。軍閥混戦時代、広州を追われた孫文は1918年から 24年までここに居を構えた。その間、22年9月にはソ連外交官ヨッフェと前庭で会談、「孫文・ヨッフェ共同宣言」を 発表するなどしだいにソ連への傾斜を深めていった。なお、孫文が死去した後は、夫人の宋慶齢がしばらくここに住 んでいた。室内はすべて生前の様子が再現されている。復興公園のすぐ近く。香山路7号にある。

鄒韜奮故居

抗日ジャーリストの鄒韜奮が1930年から36年にかけて住んでいた家。鄒韜奮は『生活』や『大衆生活』などの雑誌を 主宰して人々に抗日を呼びかけた革命的ジャーナリストで、36年12月22日、全国各界救国連合会を結成して、 沈儒鈞・李公樸らとともに国民党に逮捕された抗日七君子の一人でもある。37年に釈放されたあとは、武漢・重慶・香港などを 転々としながら、抗日活動に従事した。1944年7月に病没。旧居は解放後に復元され、現在鄒韜奮記念館として 一般公開されている。重慶路万宜坊54号。

三山会館

三山会館

1927年の蒋介石による反革命クーデターの際、労働者側の拠点のひとつとなった場所。同年3月21日、 上海の労働者は周恩来ら中国共産党の指導で一斉に蜂起。それまで上海を牛耳っていた軍閥の孫伝芳を追い払い、 労働者を主体とした上海臨時特別市政府を樹立した。その際、労働者糾察隊滬南総部の拠点となったのがこの建物で、 もとは福建の同業組合会館として使われていた。しかし4月12日、革命を裏切った蒋介石軍によって攻撃され、 たてこもっていた多くの労働者が犠牲となった。南浦大橋の南、中山南路沿いにある。

上海魯迅故居

上海魯迅故居

魯迅が晩年を過ごした住居跡。赤煉瓦づくりの3階建てアパートで、魯迅は53歳から死亡した 56歳(1936年)までここに住んだ。2階に書斎兼寝室だった部屋があり、内部は生前のまま保存されている。机の上には 遺品の硯、筆、電気スタンドがおかれ、壁の日めくりカレンダーと時計はそれぞれ死亡した日付のままになっている。また 3階には国民党の白色テロが吹き荒れた時期、共産党員の瞿秋白をかくまった部屋がある。山陰路大陸新村9号。狭い 路地をはいったところにあり、ちょっとわかりにくい。【関連史跡】山陰路と四川北路の交差点に位置する中国工商銀行は、 当時魯迅の友人であった内山完造が経営する内山書店があった場所。なお、四川北路からこのあたりにかけてはかつて 日本人が大勢住んでいた地域である。

魯迅墓

魯迅墓

1936年に亡くなった魯迅はいったん万国公墓に葬られたが、新中国成立後、魯迅故居に近いこの場所に改葬された。 墓前には椅子に腰かけ、おだやかな表情をした魯迅の銅像があり、墓碑には毛沢東の筆になる「魯迅先生之墓」の字が彫られている。 市内東北、虹口公園内。

上海魯迅記念館

上海魯迅記念館

中国革命を文学の面で押し進めた文学者魯迅の業績をたたえて設立された記念館。魯迅逝去20周年を記念して 1956年に開設された。白壁に黒い屋根というつくりは、郷里の浙江紹興一帯の民家に似せたもの。館内には 生前愛用していた遺品や写真、直筆の原稿などが展示されている。虹口公園内。

【魯迅の文学転向のきっかけ】
もともと医学を志していた魯迅が文学へ転向したのは、日本留学時代に見た日露戦争の記録フイルムがきっかけだった。

それはロシア軍のスパイとなった中国人が処刑される場面を映したものだったが、そこで魯迅が衝撃を受けたのは処刑そのものの残虐さではなく、同じ中国人が処刑されるのを周囲で笑って見物している中国人の姿だったという。そこに魯迅は中国人の絶望的なまでに封建的な精神構造を見たのである。

この時、肉体の病気より中国国民の精神の治療が先だと痛感した魯迅は、その後、『狂人日記』、『阿Q正伝』など当時としてはセンセーショナルな白話体(話し言葉)による小説を次々に発表。やがて精神を改造する医者としての文学者の道を歩むことになったのである。

竜華公園

1927年の四・一二クーデターの際、共産党員を含む多くの革命烈士が処刑された場所。共産党初期の 農民運動指導者・澎湃や左翼作家連盟の柔石などもここで処刑され、「上海の雨花台」(南京市にあった有名な刑場 )と呼ばれた。新中国成立後は、竜華公園として市民の憩いの場となっている。市の南西部、竜華にある。

大韓民国臨時政府旧址

大韓民国臨時政府跡

日本の植民地統治時代、韓国人革命家らが上海に樹立した亡命政府跡。1919年4月10日、三・一独立運動で揺れる 朝鮮半島から上海に亡命してきた韓国人志士30人は、李承晩を臨時大統領とする「大韓民国臨時政府」の樹立を宣言した。 この亡命政府は、パリ講和会議に代表団を送り、日本の植民地支配の取り消しを国際社会に訴えるなど積極的な活動を展開したという(そうした活動実績に疑問を投げかける人もいる)。 ちなみに日本敗退後に生まれた韓国政府は、この亡命政府の流れをくむものである。馬当路306号。復興公園と淮海公園の間にある。 中共一大会址の近く。

浙江

嘉興中共一大会址

嘉興

中国共産党第1次全国代表大会が開催された場所。1921年7月、上海で開かれた中国共産党第1次全国代表大会は途中、 密偵にかぎつけられため中断。議場をここ嘉興の南湖に浮かぶ船上に移して再開された。現在、南湖の湖心島に模造の 革命記念船が浮かべられ、船内も当時の様子がそのまま再現されている。また南湖の東北湖畔、児童公園のとなりに 南湖革命記念館があり、中国共産党創立大会に関する多くの文物資料が展示されている。南湖は、嘉興駅の裏側にある。

紹興魯迅故居

紹興
紹興魯迅故居

文学を通して中国民衆の覚醒を促した文学者魯迅の生家。建物自体はそう立派なつくりではないが、 内部ににはいくつもの部屋が並び、また奥には離れ家や築山もあり、没落地主とはいえ当時の上流階級の暮らしぶりがしのばれる。 1881年にうまれた魯迅は、13歳になるまでここで過ごした。裏庭は、魯迅が幼いころよく遊んだという百草園。 なおこの家はのちに人手にわたることになったが、彼の作品『故郷』はその際、身辺整理のために帰郷した時の体験を もとにしたといわれる。故居のとなりは記念館で、文学と革命に捧げたその生涯が紹介されている。また記念館の 向かい側は、彼が少年時代に学んだ私塾、三昧書屋。机のひとつに「早」の一文字が彫られているが、 これは当時魯迅が遅刻したさい、自戒のために彫りつけたものと伝えられる。さらに同じ通りには、 魯迅の小説にも登場する居酒屋、咸亨酒店がある。市内東南部の魯迅路208号。

周恩来祖居

紹興
紹興の周恩来祖居

周恩来の父方の実家。周恩来は、江蘇淮安の生まれだが、父方の実家はここ紹興にある。周恩来の本籍も またここにあり、周恩来自身「自分は紹興人である」との認識を持っていたと伝えられる。市内東部の労働路にある。 労働路は、解放北路を南下して大善塔付近を東へのびる通り。

瞿秋白記念館

常州

瞿秋白の旧居。瞿秋白は、中国共産党総書記として革命を指導したこともある文学者。もとは一族の祖廟だった建物で、 瞿秋白は13歳のとき家族とともにここへ越してきた。北京のロシア語専門学校を卒業後、1920年、 ジャーナリストとしてモスクワに赴任。帰国後、中国共産党員として革命運動に参加した。1927年から陳独秀に代わり、 中共中央のトップの座にすわったが31年、王明らによって指導部を追われた。その後、上海で魯迅らとともに左翼作家連盟を創設、 文芸活動の面から革命闘争を推し進めた。のち江西ソビエト大学の学長としてソビエト区にはいったが、紅軍の長征後、 福建長汀県で国民党によって捕えられ、処刑された。館内には瞿秋白に関する遺品や資料の他、クレムリン宮殿で レーニンと会見している瞿秋白の油絵などが展示されている。市内延陵西路のつきあたり。

安徽

陳独秀墓

安慶
陳独秀

中国共産党の創設者、陳独秀の墓。陳独秀は1879年、懐寧(今の安慶市)の出身。清朝末期から革命活動に身を投じ、 辛亥革命後は北京大学の文学部長をつとめた。1915年に雑誌『新青年』を創刊し、マルクス主義を中国に紹介するかたわら 中国共産党の創設に奔走。1921年、上海で開催された中共第1回大会では総書記に選出された。その後、中国共産党の指導者 として活躍したが、1927年の蒋介石の反革命クーデターをきっかけに総書記の座を追われた。晩年は反毛沢東の立場をとり、 毛沢東の遊撃戦術を「遊んで撃たない」などと批判した。1942年、四川江津県で病没した。市内北門外にある。

江西

安源労働運動記念館

萍郷

中国共産党が結成された1921年の秋、毛沢東と劉少奇らは江西の安源鉱山にはいって、労働運動の組織化を始めた。 翌年9月、労働者たちは大規模なストライキを引き起こし、賃金の増額や労働組合の承認など多くの要求を勝ち取った。ここは、 その安源における歴史的なストライキ闘争を記念して建てられた記念館で、館内には当時の毛沢東や劉少奇らの足跡を示す文物や ストライキ闘争に参加した労働者たちの遺品などが数多く展示されている。古ぼけた遺品からは、当時の炭鉱労働の悲惨さとともに、 ストライキに立ち上がった労働者たちの高揚感が伝わってくるようだ。南昌の西南省境にある萍郷市の東方、安源鉱区安源山 のふもと。【関連史跡】記念館の向かい側には、当時、労使双方が交渉をおこなった「談判大楼旧址」がある。また 近くの半辺街には「安源労働者クラブ旧址」などがある。

談判大楼旧址

萍郷
労働者向け夜学校で使用された教科書

安源鉱山におけるストライキの際、労使の代表が話し合いを行った場所。1922年9月中旬、労働者側の 全権代表李立三と劉少奇は、鉱山主側の代表と直談判を行い、労働者側の要求をのませることに成功した。建物は、 もともと炭鉱の事務所だったところで、ストライキ中は鉱山主側の戒厳司令部が置かれていた。向いの安源山に 安源路礦工人運動紀念館がある。萍郷市の安源鉱区の高山にある。

福建

厦門大学魯迅紀念館

厦門

三・一八事件に連座して北京を追われた魯迅は、1926年9月からここ厦門大学で中国文学史の講義を担当 していた。だが、学校当局のやり方に反発し、辞表を提出。翌年1月には広州の中山大学へと移った。ここはその間、 魯迅が起居していた建物で、現在、魯迅記念館となっている。市内南部厦門大学の集美楼にある。

二・七記念塔

鄭州

1923年2月1日、北京と武漢を結ぶ京漢鉄道沿線の労働者が、鄭州に集まり労働組合の承認をもとめ、 大規模なゼネストを行なった。だが、帝国主義列強に後押しされた軍閥呉佩孚は2月7日、これを武力で弾圧。 指導者の共産党員林祥謙や施洋をはじめ、鄭州分工会の責任者40名以上が殺害され負傷者200人あまりを 出す惨事となった。ここはその二・七大ストライキを記念した塔で、9層からなる純中国様式。当時、 労働者たちが集会を行った普楽園の跡地に建てられている。内部は歴史陳列館となっていて、 二・七事件に関する文献や当時の写真、遺留品などが展示してある。鄭州駅に降り立つと、まっさきに 目に入るこの塔は現在、鄭州のシンボルとなっている。鄭州駅東側の二七広場にある。【関連史跡】駅のすぐ近く、 銭塘路に二七記念堂がある。

湖北

武漢中央農民運動講習所旧址

武漢

北伐軍が武漢に北上した1927年、毛沢東によって開設された農民学校跡。講習所には、 近隣の省からあわせて800人余りの学生が入学し、卒業後はそれぞれの郷里で農民運動の指導者として 巣立っていった。なお、ここは清代末期に張之洞が開設した北路学堂の跡でもある。武昌の紅巷13号。武漢長江大橋の武昌側 たもとの臨江大道を北に行ったところにある。【関連史跡】講習所のすぐ南に当時、毛沢東が住んだ旧居がある。

長辛店二・七記念館

1923年2月27日、京漢線沿いの鉄道労働者らが、労働組合公認を要求してストライキに立ち上がった。その際、 直隷軍閥呉佩孚は、軍隊を差し向けてこれを弾圧、長辛店の労働者を含む死者40数人、負傷者200人を出す騒ぎと なった。ここは、その二・七虐殺事件を記念して建てられた歴史博物館で、事件に関する資料や犠牲者の遺品などが展示 してある。北京市西南郊外、豊台区長辛駅の西側の公園内にある。京漢線の列車に乗り、長辛店下車。

湖南

中共湘区委員会旧址

長沙

中共湖南支部がおかれた場所。1921年秋、上海で開かれた中国共産党創立大会からもどった毛沢東と何叔衡は、 中共湖南支部を結成。翌年春、毛沢東を書記とする中共湘区委員会がここを事務所として発足した。またここは、 毛沢東が最初の妻楊開と新婚生活を営んだところでもある。かたわらに「中共湘区委員会陳列館」が併設されている。 場所は市内小呉門。八一西路と清水塘の交差点。自修大学も近い。1路、3路のバスで清水塘下車。

湖南第一師範陳列館

長沙

毛沢東の母校・湖南第一師範学校跡に設けられた歴史記念館。17歳で故郷の湘潭から長沙に出てきた毛沢東は、 いくつかの学校を転々とした後、20歳の春この湖南第一師範学校に入学した。毛沢東はここで、終生の師となる 楊昌斎や最初の同志である蔡和森と出会い、革命家としての第一歩を踏み出した。のちに毛沢東は「わたしは大学 に行ったことがないし、外国で学んだこともない。わたしの知識と学問の基礎は、第一師範学校できずかれました」 と回想しているようにその思想を培い、その生涯を決定づけたのはまさにこの学校であった。館内にはかつて毛沢東が 学んだといわれる教室や自習室、さらに寄宿舎や新聞閲覧室などが残っている。なかでも興味深いのは、 自習室に展示されている「倫理学研究」という本。中は毛沢東の自筆による書き込みでびっしり埋められており、 若き日の毛沢東の勉強ぶりがしのばれる。市内五一広場の南、橘子洲を臨む湘江沿岸。長沙北駅と南駅を結ぶ鉄道沿線にある。 1路バスで書院路下車。【関連史跡】長沙時代の毛沢東が蔡和森らと創設した革新的な学生団体、新民学会の旧址が、 湘江の対岸、岳麓山の麓、新民路にある。

湖南自修大学跡(船山学舎)

長沙

自修大学は毛沢東が1921年夏、マルクス主義の教育と宣伝のためにもうけた学校で、その名のとおり、 自学自習に重点が置かれたユニークな学校である。ここでは教師が学生に一方的に教える、いわゆる授業というものはなく、 学生は与えられた時間のほとんどを自主研究と討論についやすことができた。最盛期には工場労働者を含む200人ほどの 学生が学んでいたといわれるが、23年冬、軍閥政府によって「法と秩序をあやうくする」ものとして強制的に閉鎖された。なお、 船山学舎は清代はじめの民族主義者王船山を記念して辛亥革命後につくられた学校で、かつて毛沢東もよく講義を聞きに きていたところである。橘子洲大橋の東北方、五一広場の東北にある。

橘子洲

長沙

第一師範学校時代の毛沢東が、勉強の合間にしばしば散策し、水泳に興じたところ。現在、 橘子公園として市民の憩いの場となっている。中央にそびえる記念碑には、毛沢東の有名な詞「沁園春長沙」が刻まれている。 橘子洲は湘江にある中州で、ミカンなどの柑橘類が多くとれたためこう呼ばれる。【関連史跡】対岸にある岳麓山にある愛晩亭も、 かつて毛沢東が新民学会の同志たちとしばしば散策した場所である。

毛沢東故居

湘潭
毛沢東とその家族

毛沢東の生家。泥と煉瓦からなる典型的な湖南農家の造りで、家の前には蓮の群生する池がある。入口から入ると、 正面に神棚をまつった部屋があり、その左手が両親の部屋。まんなかに古ぼけたベッドがあり、毛沢東は1893年12月26日、 このベッドの上で誕生した。となりが毛沢東の部屋で、本棚には少年時代に使った算数のテキストが保存されている。 また2階には、のちに中国共産党韶山支部をこの家に置いた際、入党の儀式を行なったとされる小部屋 がある。さらに中庭をはさんだ左手の棟は、家畜小屋と作業場で、少年時代の毛沢東が畑仕事の際に使った農具などが 保存されている。1929年に国民党の手によって一度取り壊されたが、新中国成立後に毛沢東の生家として 復元された。長沙の南西、湘潭市の韶山にある。【関連史跡】韶山毛沢東同志記念館が故居の近くにある。また、 少年時代に通った私塾跡や農民運動のさいにつくった農民夜学校跡なども残っている。なお隣接する湘郷市には、 彭徳懐の故居もある。

劉少奇故居

寧郷県
劉少奇

劉少奇は1898年、湖南寧郷県の生まれ。モスクワの東方大学留学をへて中国共産党に入党。帰国後、 李立三らとともに安源炭鉱で労働運動を指導し、オルガナイザーとして頭角をあらわした。1925年には、 広州に設立された全国総工会(労働組合)の副委員長に選ばれるなど、その後も労働運動と組織面の実力者として 活躍。1937年の支那事変勃発時には北方局の責任者をつとめ、第2次国共合作の推進にも重要な役割をは たした。それに関連して、支那事変勃発のきっかけをつくった盧溝橋での最初の銃声は劉少奇の部隊によるものという説もある。解放後は毛沢東のあとを継いで、国家主席に選ばれたが、文革中批判され、1969年病没。 のちに名誉回復がなされ、当所に故居記念館が設けられた。故居の一角には、陳列室が設けられており、 少年時代の劉少奇が使った麦わら帽子やふとん、手紙などが展示されている。長沙の西方、寧郷県花明楼郷の炭子沖にある。

広東
広州

国民党一大会址

広州
国民党一大会址

1924年1月20日、中国国民党第1次全国代表大会が開催された場所。出席したのは、個人の資格で参加していた 毛沢東や李大釗など共産党のメンバーをふくむ165人。大会では、孫文の「三民主義」とともに「連ソ・容共・扶助工農」 の3大政策が採択され、ここに第1次国共合作が正式に成立した。この際、中央執行委員24人のうち李大釗ら3人が、 また候補委員17人のうち毛沢東ら7人が共産党員として選出された。なお会場となったのは、広州大学の講堂で、 のちに広州大学の文学部主任となった魯迅がその2階に住んでいた関係で、魯迅紀念館が併設されている。文明路と 越州中路の交差点角にある。

黄埔軍官学校旧址

広州
黄埔軍官学校

国民党が革命軍将校を養成するために創設した士官学校跡。1924年5月の開校以来、1927年までに5000名 近い卒業生を輩出し、その多くが北伐軍の中核として重要な役割をはたした。ソ連のボロディンを顧問に迎え、 訓練や運営などはすべてソ連赤軍式に行われた。なお初代校長に就任したのは蒋介石で、政治部主任には欧州から 帰国したばかりの周恩来が任命された。旧址内には、当時の校門跡をはじめプールや将校会館、東征戦役将兵記念碑 などが現存している。併設されている記念館は、当時孫文の執務室だった建物で、現在、校旗や卒業証書、 共産党および国民党関係者の写真など約170点の資料が展示されている。なお、敷地内の八卦山上にある孫文像は、 当時の孫文の協力者だった日本人梅屋庄吉が寄贈したものである。市の東郊、珠江に浮かぶ長洲島にある。

広州農民運動講習所旧址

広州
広州農民運動講習所旧址

第1次国共合作後に創設された農民運動講習所の跡。農民運動講習所は、農民運動の指導者を育成する目的で つくられた共産党系の学校で、1924年7月の発足。全国20省から集まった327人の卒業生はその後、 各地で農民暴動をひきおこしたり、また兵站を受け持つなど北伐戦争の進展に大きな役割をはたした。初代所長は彭湃で、 のちに毛沢東が引き継いだ。市内東部、中山四路にある。1、22路バスで大東門下車。

沙基惨案烈士紀念碑

広州

上海の五・三○事件は、労働者と学生を中心とする大規模なデモとなって広州に波及した。1925年6月23日、 10万人のデモ隊がこの場所にさしかかると対岸の沙面に駐屯していた英仏両帝国主義の軍隊が突然、発砲。 52人が死亡し、170人余りが重傷を負うという事件が起こった。この事件で犠牲になった烈士を記念して 現場に記念碑を建立、同時に沙基と呼ばれていたこの道路を六二三路と改称した。珠江沿いの沿江西路西端、 人民大橋のたもとにある。

中華全国総公会旧址

広州
中華全国総公会旧址

1925年の第2回全国労働大会の後、全国の労働者階級を指導する統一機関として創設された中華全国総公会の跡。 副委員長に劉少奇を迎え、一時、全国の労働運動の策源地となった。国民党左派の廖仲凱が暗殺されたのもこの場所で、 現在その記念碑が建っている。市内越秀南路89号。

中国共産党広東区委員会旧址

広州

1924年に設置された中国共産党広東区委員会の跡。国共合作の推進をはじめ、国民党右派との戦い、 労農運動および省港ストの指導、北伐戦争の支援など、その後の革命運動の推進にきわめて重要な役割を果たした。 1927年4月、蒋介石が反革命クーデターを起こすと閉鎖され、メンバーは地下に潜行した。文明路194号。

北伐誓師大会会場遺址

広州
北伐誓師大会会場遺址

1926年7月9日、北伐に向かう国民革命軍が、出発前の壮行式を行った場所。市内中山南路の広州起義烈士陵園の前。

広東革命歴史博物館

広州

辛亥革命から第1次国共合作の時期を中心に、広東における革命運動の歴史を紹介した歴史博物館。 労働運動や農民運動で使用された旗や腕章をはじめ、中華民国開国記念貨幣、黄埔軍官学校卒業証書、 広州蜂起のスローガンなどが展示されている。なお、ここは清朝末期、広東の地方議会である「諮議局」として 使われた建物で、第1次国共合作の時期には、国民党中央本部として使用された。市内東部、中山三路の広州起義烈士陵園内。

四川

朱徳故居

儀隴県
朱徳

「朱毛」と、毛沢東と並び称される中国共産党の指導者・朱徳の旧居跡。1886年12月1日、馬鞍郷琳琅山麓の 李家湾に生まれた朱徳は、九歳のとき大湾に移った。小学校の体育教師をへて、1909年、雲南陸軍講武学堂に入学。 辛亥革命の際は革命軍の連隊長として参加した。だが、軍閥化していく革命軍に嫌気をさし、高位厚禄を投げうって出奔。 欧州留学へと出発した。やがて、ベルリンで周恩来と知り合い、中国共産党に加入。帰国後は国民革命軍の将校として 軍閥との闘争、北伐などに活躍した。蒋介石の反革命クーデター後は、周恩来らとともに南昌起義を計画。蜂起失敗後、 井崗山にのぼり、以来、毛沢東の終生の同志としてともに中国革命を推し進めた。現在、李家湾の生家と大湾の旧居、 さらに朱徳が通った私塾や高等小学校、両親が住んでいた柏林嘴の家などが朱徳故居として公開されている。なお 大湾の旧居には、少年だった朱徳が、鉄棒遊びをしたといわれる柏の木や、朱徳が掘ったといわれる 井戸が残っている。儀隴県の東方、馬鞍郷。


日中戦争は誰が引き起こしたのか?

中国歴史(近現代史)観光ガイドPAGE TOP