人民解放戦争史跡

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人民解放戦争関連史跡
北京

中国革命博物館

北京に入城する人民解放軍

中国革命博物館は、隣接する中国歴史博物館とともに中国の歴史をテーマにした歴史博物館。 後者が古代からアヘン戦争前夜までを扱っているのに対し、前者はアヘン戦争以後の近現代史を扱っている。 館内には、各時代ごとの歴史解説とともに、合計1000件にもおよぶ遺品、文献、絵画、模型などの 資料が展示されており、アヘン戦争以来、100年におよぶ列強による半植民地化とそれに対する 民衆の抵抗という苦難に満ちた中国の近現代史が概観できる。以下は、展示品の一例。
「虎門大砲」「上海租界の外国商社の看板、製品、商標」「天王洪秀全の玉璽」「太平天国発行の紙幣」 「戊戌維新中に建てられた京師大学堂の額」「義和団民の武器、旗」「武昌蜂起軍が使用した武器、腕章、宣伝ビラ」 「宣統帝の退位証書」「北京大学演説隊の旗」「陳独秀が発行した『新青年』創刊号」 「四一二反革命クーデターの資金集めに蒋介石が上海銀行公会にあてた借金依頼書簡」 「井崗山根拠地の兵器工場で生産された手りゅう弾」「長征中、赤軍が食べ残した皮ベルト」 「毛沢東が連合抗日について張学良にあてた直筆の手紙」「八路軍、新四軍の証明書」 「国民党特務に殺害された民主人士聞一多の手書き原稿」。天安門広場の東端にある。

天安門

天安門広場

国民党との内戦に勝利し、蒋介石を台湾に駆逐した毛沢東は、1949年10月1日、この楼上に上り、 集まった群衆を前に「中華人民共和国」の建国を宣言した。もとは明代から清代にかけて皇宮であった紫禁城 (故宮)の正門跡で、明の永楽帝が創建し、清の順治帝が現在の形に改装した。清朝崩壊後は、雑草の茂るに まかせたままの状態だったが、新中国成立後、装いも新たに再建された。故宮の正門、長安街をはさんで 天安門広場に面している。現在、中華人民共和国のシンボルとなっている。

天安門

天安門広場

天安門とその前に広がる天安門広場は、中国における近代革命発祥の地であり、 その後もしばしば中国の政局を左右する重要な政治的舞台となってきた。1919年の五四運動では、 北京大学生を中心とする3000人の学生がこの広場に集まってデモ行進を行い、日本政府が突きつけた 21か条要求の廃止を求めた。また1926年3月18日には日本の武力干渉に抗議する学生・市民が段祺瑞政権によって47人が虐殺されるという「三・一八事件」が発生し、1935年12月8日には、内戦停止・一致抗日を叫んだ学生が、厳寒のなか消防車の放水を浴びせられながらデモ行進を行った。そして1949年10月1日には、毛沢東が天安門上で「中華人民共和国建国宣言」を行った。 なお最近では1976年4月に文化大革命に終止符を打つきっかけとなった「第1次天安門事件」が、 1989年6月には民主化を求める市民らのデモを弾圧した「第2次天安門事件」が発生している。 市内の中心にある。

毛主席紀念堂

毛沢東の遺体を納めた記念廟。1976年に死去した 毛沢東の遺体は、旧ソ連におけるレーニン同様、革命の英雄としてここに安置されている。遺体が 安置されているのは、建物の中心をなす瞻仰(仰ぎ見る)ホール。中に入ると2本の通路をはさんだ中央に、 たくさんの花と真紅の五星紅旗に覆われた透明な柩があり、目をこらすとなかに蝋人形のような毛沢東の 遺体が見える。もっとじっくり見てみたいと思うが、残念ながらここではあとから来る参観客の迷惑になるので、 立ち止まって見ることは許されていない。付属の東西ホールには、毛沢東をはじめ周恩来や朱徳ら 著名な指導者たちの革命業績記念室がもうけられているので、こちらのほうをじっくり見学しよう。なお、 館内は写真撮影禁止である。天安門広場の南端にある。

人民英雄紀念碑

人民英雄紀念碑

中国革命勝利を記念して建てられたもので、1958年の竣工。碑の正面には、毛沢東の揮毫による 「人民英雄永垂不朽」の字が刻まれ、台座にはアヘン戦争以来の人民の抵抗運動をテーマにしたレリーフが はめ込まれている。レリーフのテーマは「虎門戦役」「金田蜂起」「武昌蜂起」「五四運動」「五・三〇運動」 「南昌蜂起」「支那事変」「長江渡河」「前線支援」「人民解放軍歓迎」など。 1976年と1989年の天安門事件の舞台となった場所でもある。天安門広場の中央にある。

八宝山革命公墓

中国共産党の指導者

北京西郊の八宝山には、中国革命の功労者たちの遺体をおさめた陵園がある。鬱蒼とした林に 抱かれた陵園内に葬られているのは、朱徳、賀龍、陳毅、董必武、彭徳懐、任弼時ら革命の重鎮たち。 またその他に中国革命を支援した外国人ジャーナリスト、アグネス・スメドレーやルイス・ストロングらの墓もある。 普段は訪れる人も少なく静かだが、清明節(春分の日から数えて15日目)には、故人をしのんで墓参に訪れる人で ごったがえすという。市内石景山区石景山路、八宝山の南麓にある。地下鉄で復興門駅から苹果園駅方面に乗り、 八宝山駅下車。

斯諾墓(スノー墓)

アメリカ人ジャーナリスト、エドガー・スノーの墓。スノーは1936年、陜西省北部の 中国共産党の根拠地を単身訪れ、毛沢東らと会見。その体験をもとに翌年ルポルタージュ 『中国の赤い星』を著した。この作品は、当時、謎に包まれていた中国共産党の実態を明らかにしたばかりでなく、 中国共産党に対する世界的な支援の輪を形成するなど、その後の中国革命の進展にとっても大きな意義を もつものであった。戦後、スノーはアメリカに吹き荒れた赤狩りの嵐のなかで一時不遇に陥っていたが、 晩年には中米国交正常化のパイプ役として活躍。1972年の死去後、その遺言にもとづいて、 遺体の一部がここに埋葬された。なお、スノーは1933年から燕京大学(現在の北京大学) の新聞学部の教授となったが、当時スノーが住んだのも現在の墓の近くだった。市内西北、 海淀区の北京大学の構内、未名湖畔にある。332路のバスで北京大学下車。

宋慶齢故居

孫文の未亡人宋慶齢が晩年をすごした邸宅。 彼女は1963年から死去した1981年までの19年間ここに住んでいた。もとは北府花園と呼ばれ、 清朝最後の皇帝溥儀の父醇親王の屋敷だったところで、ラストエンペラー溥儀の生家でもある。 内部は2つの展示室と主楼からなり、第1展示室には、彼女の青春時代から中華人民共和国成立までの 事跡が展示されており、第2展示室には新中国成立後の平和運動に関する資料が展示されている。 また主楼には、3000冊あまりの本をおさめた書斎をはじめ、愛用のピアノを置いた寝室、 紫檀のテーブルを置いた小食堂などが、生前そのままの状態で展示されている。 市内西城区の什刹後海北沿にある。5路、55路バスで徳勝門下車。

郭沫若故居

人民英雄紀念碑

革命的文学者であり、同時に社会改革者であった郭沫若が、1963年から死去した1978年まで 住んでいた家。故居は伝統的な四合院のつくりで、中庭に郭沫若の座像が置かれている。 室内も書斎や執務室、応接間、寝室など、すべて生前の状態のままに復元されており、歴史、 詩歌、演劇、政治などに関する手稿をはじめ、数多くの資料が保存・陳列されている。なお、 ここは以前、モンゴル大使館としても使われていたところである。市内西城区の前海西街、 什刹前海の西岸にある。13路、42路、118路、111路、107路のバスで東官房下車。

毛沢東故居

新中国成立後、毛沢東が住んだ家。もとは清の康煕年間につくられた豊沢園と呼ばれる庭園跡で、 敷地内には頤年堂と菊香書屋のふたつがあり、このうち菊家書屋が毛沢東が使っていた建物。 おもしろいのはその寝室で、ダブルベッドの上に多くの書籍が無造作に積み上げられている。 これは生前の毛沢東が、そのように使っていたのをそのまま再現したものといわれる。 また頤年堂は毛沢東と党の指導者たちが重要な会議を開いた場所といわれる。なお、 堂の東側の小部屋には、西太后の筆になる山水画が飾ってある。市内中心部、 故宮の西側の中南海にある。

茅盾旧居

天安門広場

魯迅らとともに文学革命を推進した作家茅盾が、晩年をすごした家。1974年に引っ越してきてから 1981年になくなるまでここに住んだ。書斎や寝室、応接間などが生前のままに復元されており、 展示資料も豊富。故宮の東北、東城区交道口南大街後円恩寺胡同13号にある。113路バスで兵馬司下車。

老舎旧居

文学者老舎が晩年をすごした家。中庭に一本の柿の木があり、夏は老舎がその下で涼み、 秋にはその実で客をもてなしたといわれる。老舎は新中国成立後、アメリカから帰国、以来、 ここに居を構えたが、文化大革命のさなかの1966年、死去した。王府井を北にのぼった灯子口を 西へ入ったところにある。

双清別墅(毛沢東旧居)

解放戦争末期の1949年3月、北京に入った毛沢東が最初の住居をおいた場所。 双清とは2つの泉を意味し、元のフビライによって発見されたといわれる。現在の建物は 、1917年に河北一帯を襲った大洪水のさい、李大釗らが災害孤児を救うために建てた 「慈幼院」の跡。 香山公園内、香山寺の下にある。動物園より360路バス、頤和園より333路バス、 苹果園より318路バスで、いずれも終点の香山下車。

北京大学

北京大学

中国を代表する最高学府。中国革命に貢献した幾多の人材を輩出した大学として名高い。康有為らが戊戌維新の 一環として設立した京師大学堂が前身。北京大学は、1919年の五四運動をはじめ、日本の侵略と軍閥に反対した 三一八事件、さらに内戦停止と一致抗日を求めた35年の一二九運動の指導的中心となるなど、 中国革命を推し進める上で大きな役割を果たした。 なお現在の北京大学は、義和団事件の賠償金を 元にアメリカがつくった燕京大学跡で、当時の北京大学は故宮の東隣にあった。現在、文科系の校舎だった 紅楼が遺構として残っている。市内西北、海淀区にある。332路バスで中関村または北京大学下車。

故宮博物院

人民英雄紀念碑

明清2代の王朝にわたる宮殿跡で、辛亥革命以前は紫禁城と呼ばれた。明の永楽帝によって創建され、 清朝最後の皇帝溥儀まで、合計24人の皇帝が居住した。外廷と内廷にわかれ、外廷はもっぱら公的な行事に 使用された。また内廷は皇帝とその家族が日常生活を営んだ場所。1911年の清朝滅亡後、 内廷には廃帝溥儀とその家族らが住んでいたが、1924年、馮玉祥によって退去させられた。 主な見どころは次のとおり。

太和殿

外廷の中心にある。皇帝の即位をはじめ国家的な重要儀式を行う場所。1908年、幼い溥儀が皇帝となったの もここである。

坤寧宮

内廷の一番奥にある。明代には皇后の寝室であったが、清代になると神を祭り、皇帝が結婚式を行う場所 となった。現在は、1911年に行われた溥儀の結婚式の時のままに保存されている。

養心殿

乾清宮の西南にある。以前は、皇帝の書斎であったが、雍正帝の時から皇帝の寝室として使われ、 また日常の政務をとるところとなった。清末には、西太后が幼帝の背後にあって政治をとる、 いわゆる「垂簾聴政」を行った部屋でもある。現在、「垂簾聴政」当時の状態が復元展示されている。

西六宮

内廷の西側にある6つの小宮殿で、皇帝の后妃たちが住んでいた。そのひとつ儲秀宮は、 かつて西太后が住んでいたところで、彼女はそのため「西」太后と呼ばれるようになったといわれる。 現在、西太后が50歳の誕生日を迎えた時の様子が再現されている。

珍妃井

1898年の戊戌政変のさい西太后の恨みを買って、幽閉されていた珍妃は、1900年に8ヵ国連合軍が北京に迫ると西安への脱出をはかった西太后の命令で、この井戸に投げ込まれ、溺死させられた。

養性斎

清末、溥儀の英語教師をつとめたスコットランド人で「紫禁城の黄昏」を書いた レジナルド・ジョンストンが住んでいた部屋。

【場所】市内中心部。天安門広場の北。

天津

天津(歴史)博物館

天津の歴史に関する文物資料を集めた博物館。展示コーナーは、「古代史」「近代史」「現代革命史」 の3部門に分けられ、なかでも近代史および現代革命史の部分にかなりのスペースがさかれている。 「近代史」では、アロー号事件のさい、英仏連合軍に抗戦した大砲をはじめ、「天津教案」事件の資料、さらに義和団事件の写真や絵などが展示されている。また「現代革命史」の部分では、李大釗が編集した雑誌 「言治」や周恩来が編集した「天津学生連合界報」などが展示されている。その他、陳潭秋、蔡和森、劉少奇ら初期の共産党員の活動に関する資料もある。市内東南部、河東区光華路。海河と東興路が交わるところにある。2004年に天津芸術博物館と合併され天津博物館となった。天津市河西区友誼路31号。

三条石歴史博物館

19世紀なかばから鋳鉄業が盛んになった天津は、20世紀前後には、すでに華北における鋳鉄業、機械業の中心となっていた。とくに三条石のあたりは、「鉄の街」と呼ばれ、多くの人や貨物が 行きかうにぎやかな場所であった。この三条石歴史博物館は、そんな天津における 近代工業発展の歴史を紹介している。展示は、「近代工業形成史」「鋳鉄工業発展史」 「民族工業の衰退史」「労働運動史」の4部門に分かれ、なかでも「労働運動史」は中国近代史を学ぶ者に とって興味深い。展示品の中には、資本家が労働時間を引きのばすために針を遅らせた「時計」や、 労働者を虐待した凶器などがある。また館内の一角には当時の「福聚興機械工場」跡が残っている。 内部には労働者が寝泊りしていたという小さな部屋や、劣悪な作業環境に置かれた旧式の機械設備などがあり、かつての労働者の苦しい生活ぶりを伝えてくれる。天津市紅橋区河北大街尚都家園14号楼。市内北部、紅橋区博物館街。河北大街から東に入ったところにある。

河北

西柏坡村中国共産党政府跡

平山県
西柏坡での毛沢東と朱徳

1948年5月、毛沢東ら共産党指導部は解放戦争の進展にともない、延安から河北平山県の西柏坡に移ってきた。同年秋に発動された遼瀋・淮海・平津の3大戦役は、ここで立案、指揮された。なお、 旧址は解放後ダム工事で水没することとなったため、当所に移築したもので、現在、毛沢東や朱徳、劉少奇、周恩来らの旧居が復元されている。河北平山県、石家荘から西北へ約70キロ。 太行山東麓の西柏坡村の虎沱河の北岸にある。石家荘からツアーバスが出ている。

石家荘

華北軍区烈士陵園

石家荘
ノーマン・ベチューン

支那事変から解放戦争にかけて、華北地区で犠牲になった革命戦士の墓がある。中国革命を支援した外国人として有名なベチューンとコトニスの墓もここにある。 ベチューンは、カナダ共産党から解放区へ派遣されたカナダ人医師で、 1938年から紅軍とともに前線で負傷兵の治療にあたっていたが、伝染病に感染して翌年、殉職。一方、コトニスは、赤十字国際委員会から派遣された中国支援医療団のインド人隊長で、 42年、解放区で死去した。それぞれの墓の前に生前の姿をかたどった記念像が置かれている。また園内には革命烈士記念館と白求恩(ベチューン)展覧館が併設されている。 石家荘駅の西側、中山中路にある。

山東

淮海戦役記念館

徐州
解放軍

解放戦争の勝利を決定づけた遼瀋、平津、淮海の3大戦役は、1948年9月に開始された。 そのひとつ淮海戦役は徐州を中心に展開され、その勝利によって長江以北はほぼ共産党の勢力下に入った。 ここは、その淮海戦役を記念してつくられた歴史陳列館。高さ40メートル近い淮海戦役烈士記念塔が立っており、 館内には人民解放軍が使った武器や戦車をはじめ、前線を支援した一般民衆が使った手押し車など、 当時の戦闘の様子を伝える遺品が多数展示されている。市内南部、鳳凰山のふもとにある。

江蘇

南京渡江戦役記念碑

南京
南京に入城する解放軍

解放戦争のクライマックスとなった1949年4月の南京渡江戦役を記念した碑。1979年、 渡江勝利30周年を祝って建造されたもので、高さおよそ23メートル。帆船を模した形で、 人民解放軍が帆に風をうけ、長江を横断、南京を解放する情景を象徴している。船体の部分に彫られた毛沢東の詩 「七律人民解放軍の南京占領」は、当時の戦闘のさまをこううたっている。

鍾山の風雨蒼黄を起し百万の雄師大江を過ぐ 虎踞龍盤今、昔に勝り天は翻り地は覆りて慨にして慷なり 宜しく剰(のこ)る勇(つわもの)を将いて窮冦を追うべし 名を沽(もと)めて覇王を学ぶはよからず 天もし情あらば天もまた老いん人間正道これ滄桑なり

市内の中山碼頭の近く。熱河路広場の中心にある。

梅園新村

南京

支那事変勝利後、中国共産党の代表団事務所が置かれた区域。周恩来・董必武・葉剣英らが駐在し、 蒋介石側と戦後処理について談判・交渉を行った。当時、建物のまわりには国民党から派遣された 多くの特務(密偵)が、代表団の行動を常時監視していたという。地番でいえば17号が代表団本部、 30号が周恩来の事務所兼宿舎、35五号が董必武・葉剣英らの宿舎だった。現在、 革命記念館として一般公開されている。新街口の東。中山東路から中江路に入ったところ。 天王府のとなりにある。5、9、20路バスで大行宮下車。

雨花台

南京

中華門外にある広大な丘陵地帯で、名前は、六朝時代にさる名僧が説法をしたところ、感動した天帝が花を雨のように降らせたという伝説に由来する。しかし、その詩的で美しい響きとは裏腹に、この雨花台は中国近現代史上、おびただしい犠牲者の血が流れた場所として有名だ。太平天国軍は ここで清軍と何度か流血戦を行ったし、辛亥革命のときも清軍との間で激戦が繰り広げられた。 そして1927年4.12クーデター以来、蒋介石の手によって処刑された共産党員や 進歩的人士の数は10万人以上にものぼるという。園内には、『国民党政府在雨花台曽経屠殺了三十万共産党烈士』(30万人が国民党によって殺害された)という毛沢東の揮毫になる記念碑がある。またいわゆる南京虐殺の際は、一般市民を含む30万人以上の人が日本軍によって虐殺されたといわれている。現在、ここは当時、犠牲になった人々の遺体をまつる烈士陵園となっており、中央には死地におもむく烈士をかたどった巨大な「革命烈士犠牲者彫塑群」が建立されている。 併設の烈士記念館には、鄧中夏や琿代英、トウ演達など多くの革命家と烈士たちの事績と遺品が展示されている。 なおここでとれる雨花石は、殺された人々の血によって赤く染まっているのだといわれる。 市の南郊、中華門外の小高い丘陵地帯にある。

上海

上海烈士陵園

解放以前、上海で犠牲となった革命烈士の遺体をまつった陵園。広大な園内には、 烈士の姿をかたどった巨大な記念碑がたっており、上海烈士資料陳列館が併設されている。 陳列館には、辛亥革命以来の革命家や烈士、およそ200名あまりの事績が展示されている。 このうち第1展示室には、1925年から27年にかけて中国共産党が上海でくりひろげた 反帝反封建の闘争の歴史が紹介されており、五・三○運動とその指導者顧正紅をはじめとする 上海の労働運動に関する資料が展示されている。第2、第3展示室は、「壁外の桃花、壁内の鮮血」と題され、 国民党の龍華監獄で英雄的な最期をとげた中国共産党初期の農民運動指導者彭湃をはじめ、 左翼作家連盟の柔石や馮鏗ら、多くの烈士たちの事跡が展示されている。また、 龍華監獄で使用された刑具や拷問道具なども陳列されている。また第4、第5展示室は、 それぞれ支那事変と解放戦争時の烈士の事績が紹介してある。市内西南郊外、竜華公園の西、 漕渓北路にある。なお竜華公園は当時の龍華監獄である。

宋慶齢墓

孫文の未亡人宋慶齢の墓。浙江財閥の次女としてうまれた宋慶齢は、1915年に25歳で孫文と結婚。35歳で孫文をうしなってからは、国民党左派として一貫して共産党を支援する側にたち、中華人民共和国建国後は名誉国家主席の称号を与えられた。1981年に北京で死去した後、ここに葬られた。園内に宋慶齢記念館が併設されている。虹口路の万国公墓の宋家の墓地にある。

上海宋慶齢故居

天安門

孫文夫人の宋慶齢が晩年をすごした家。ここはもともと宋慶齢の生家であり、解放以前、宋一族が暮らしていた邸宅である。慶齢は1948年、孫文と一緒に住んでいた香山路の家を記念館として国へあけわたし、かつて少女時代をすごしたこの屋敷に移ってきた。淮海中路1843号。淮海中路と華山路の交差点の東側。 衡山公園の近く。44、48路バスで徐家匯下車。

周公館

周公館

正式には中国共産党代表団駐滬弁事処旧址という。双十協定(1945年10月、国共両党間で結ばれた平和協定)にもとづいて周恩来らは代表団を率いて南京に赴き、交渉にあたったが、そのさい上海にも事務所を開設し、マスコミとの会見など主に対外的な広報活動を行った。思南路73号。豫園の西、復興公園の近く。孫文故居も近い。

安徽

淮海戦役総前委旧址

淮北
淮海戦役の指導者

1948年11月、徐州付近にいた国民党軍の主力約80万を人民解放軍が破った淮海戦役のさい、鄧小平、劉伯承らが作戦司令部を置いた。安徽北部、淮北市灘渓県臨渙集の文昌宮と臨渙集東南の小李家荘にある。

江西

江西革命烈士記念堂

南昌
八一蜂起の舞台となった当時の南昌旅社

江西で犠牲になった革命家の業績をたたえてつくられた記念堂。紅軍とソビエト政権が誕生した江西は、いわば中国革命発祥の地である。堂内には江西で犠牲になった烈士約25万人の名簿をはじめ、多くの資料が展示されている。また、安源労働運動の指導者黄静源、秋収蜂起の総指揮者盧徳銘、福建・浙江・江西境革命根拠地の創始者方志敏らに関しても多くのスペースがさかれている。市内、八一大道沿い。福州路の手前。

重慶

桂園

重慶
重慶会談に臨む機内の毛沢東

1945年10月10日、毛沢東と蒋介石が「双十協定」に調印した場所。中山四路にある。周公館の近く。

解放碑

重慶
人民解放軍の集会

解放戦争勝利を記念して建てられた碑。1950年の第1回国慶節のさい、劉伯承が「重慶人民解放紀念碑」 と題字した。民族路・中華路・公園路・民権路の交差点にある。

四川

郭末若旧居

楽山

革命的文学者郭末若の生家で、少年時代の勉強部屋や先妻張群華と過ごした部屋などが当時のまま保存されている。陳列室の一室には、日本人妻安娜夫人とその子供たちの写真が飾られている。成都の南、峨眉山に近い楽山市の沙湾鎮正街中段。綏山を背後にひかえ、大渡河に面している。

雲南

昆明一二・一運動記念館

昆明

1945年秋、中国では再び内戦の危機が高まった。こうした中、昆明では11月25日、西南連合大学を中心に内戦反対の集会が開かれた。だが、国民党がこれを武力でもって弾圧したため、怒った学生らはさらに12月1日、各大学でいっせいにストライキをおこなった。ところが、国民党側はこれを再び弾圧。軍人や特務機関員を学内に送り込み、4人が殺害され、10余人が負傷するという事件が発生した。記念館では、この「一二・一運動」に関する資料が多数展示されている。 また敷地内にある墓地には、この事件で犠牲になった4人の烈士の墓をはじめ、 翌年国民党によって殺害された民主派人士、聞一多や李公樸の生前の衣服を埋めた衣冠塚がある。 墓地の入口の両側には、たいまつの形をした門が並び、その下に聞一多の「一二・一運動始末記」が彫られている。 雲南師範大学のキャンパス内にある。雲南師範大学はかつての西南連合大学。

遼寧

遼瀋戦役記念館

錦州
解放軍

解放戦争の勝利を決定づけた三大戦役のひとつ、遼瀋戦役の歴史が紹介されている。日本敗退後、 人民解放軍は蒋介石の警告を無視していちはやく東北へ進駐。日本軍の武器をうばい、農村を中心に勢力をのばした。 その後、1948年9月、全面的な反攻が開始されると、林彪ひきいる東北野戦軍は、錦州を占領。 補給をたたれた東北駐屯の国民党軍は、まもなくせん滅された。「満州」の重工業地帯を手中にし、 また人民解放軍の質的および量的な強化をもたらしたこの遼瀋戦役は、のちに人民解放軍が全中国を解放するうえで 大きな意義を持つ戦いであった。館内には、錦州攻撃のジオラマをはじめ、6000点あまりの資料が展示されている。 錦州駅の北側。錦州烈士陵園の奥にある。

台湾

古寧頭戦史館

台湾
金門島
古寧頭戦史館

1949年10月25日、人民解放軍は大陸を逃れた国民党軍を追って福建・アモイ沖2キロに浮かぶ金門島の古寧頭に上陸、一気に占領を試みた。これに対し、国民党軍は人民解放軍全員が上陸するのを待ってから奇襲攻撃を敢行、ほぼ2日間で撃退に成功した。ここはその古寧頭の戦いを記念して建てられた戦史館で、入り口付近には、この戦役に参戦した「金門の熊」ことM5A1型戦車が鎮座している。入館は無料。写真、パネル等が中心で戦利品として奪った武器等も展示されている。金門島北西部、「北山」のバス停より徒歩10分。ちなみにこの古寧頭の戦いには、元日本陸軍中将・根本博氏が深くかかわっているという。


日中戦争は誰が引き起こしたのか?

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