アヘン戦争史跡

トップ > 時代別歴史> 阿片戦争史跡
アヘン戦争関連史跡
北京 天津

円明園遺址

円明園円明園遺址

清代の代表的な名園、円明園の廃虚跡。円明園は康煕・擁正・乾隆の3代にわたって造営された壮大な庭園で、 併設の長春園、万春園とともに別名円明三園ともいう。かつて園内には、 江南の風景を模した数々の美しい小庭園がつくられ、 その豪壮華麗さは遠くヨーロッパにも鳴り響き、当時の人々の間から「万園の園」と賞賛された。だが、1860年の 第2次アヘン戦争と1900年の義和団事件の際、列強の連合軍によって徹底的な破壊と略奪を受け、廃虚と化した。 現在、かつて乾隆帝がベルサイユ宮殿に似せてイタリア人宣教師カスティリョーネにつくらせたという海晏堂(通称西洋楼) の残骸だけが残されており、当時の破壊のすさまじさを伝えている。なお現在、修復作業が始まっている。市内海淀区の東部、 ちょうど北京大学の北側。331路バス終点下車。または365路バスで円明園下車。

 

大沽口砲台

天津
アヘン戦争海戦図

渤海湾に面した砲台跡。もとは明代に和冦に対抗してつくられた海防施設だったが、アヘン戦争後に本格的な要塞として 拡充強化された。第2次アヘン戦争(アロー号事件)のさい、 英仏連合軍によって破壊されたが、その後、再整備され、 河口の南北両岸に5つの大きな砲台が設けられた。しかし1900年、義和団事件の結果、列強との間に辛丑条約が結ばれると、 渤海湾から北京にいたる軍事施設は廃棄されることが取り決められ、その際、この大沽口砲台も破壊・撤去された。現在、 南岸にある1門だけが破壊をまぬがれ、残っている。天津市の南東60キロ、海河が海にそそぐ大沽口の南岸にある。

 

江蘇

鄧廷(貞)墓

南京
アヘン中毒患者

アヘン戦争の際、林則徐とともに主戦論を主張した元両広総督鄧廷(貞)の墓。最初、アヘン緩禁論者だった鄧は、のちに徹底した厳禁論者となり、アヘン戦争勃発後は 浙総督に転じ、1840年7月、軍を率いて、厦門に侵入してきたイギリス艦隊を撃退した。 しかし、当時宮廷内で実権を握っていた対英投降派によって林則徐とともに伊犁(現、新疆自治区伊寧市 )に左遷された。その 後、いったん陜西巡撫に返り咲いたが、1846年、任地の西安で死去した。南京市の仙鶴門外、霊山の麓にある。

 

関天培墓

淮安県

アヘン戦争時、広東防衛の任に当たった広東水師提督関天培の墓。関天培は、虎門海岸でのアヘン焼却に協力するなど、林則徐 のアヘン禁止の主張を積極的に支持した人物。だが、1841年2月、イギリス軍のチャールズ・エリオットが虎門要塞を 攻撃したさい、靖遠砲台で孤軍奮闘、ついに壮烈な最期を遂げた。そのさい、イギリス戦艦ブレンハイム号は弔砲を鳴らして 哀悼の意を表したといわれる。淮安県の県城東方、周家荘の東南にある。

 

焦山抗英砲台遺址

鎮 江

焦山

アヘン戦争のさい、イギリス軍を迎え撃った清軍の砲台跡。1842年7月、南京をめざして長江を遡上したイギリス艦隊 に対し、鎮江を守備していた清軍は決死の抵抗をこころみたが、清軍はほぼ全員が玉砕、城内にいた女性の多くもイギリス兵に よって凌辱され、殺害されたという。この鎮江の戦いは、アヘン戦争史上もっとも凄惨な戦闘といわれる。市内長江に浮かぶ 焦山にある。

 

葛雲飛墓

粛山県

1841年、イギリス軍が再び定海を侵犯したさい、定海鎮総兵の葛雲飛がこれを迎撃。66日間にわたって激しい戦闘を 繰り広げたが、ついに力尽きて戦死、その後、生まれ故郷である当所に葬られた。杭州の東南、粛山県臨浦鎮前王湾村にある。

 

福建

林則徐墓

福州
林則徐

林則徐の墓。アヘン戦争の英雄として有名な林則徐の晩年は、その業績に反して不遇だった。アヘン戦争開戦の責任を問われ、 新疆のイリ(現、新疆自治区の伊寧)に左遷された林則徐は、その後、雲貴(雲南・貴州)総督に返り咲いたが、やがて病を 得て退官。だが、翌年、太平天国の乱が勃発すると再び皇帝の命が下り、その討伐を命じられた。しかし、病をおして現地へ と赴く途中、潮州で死去した。1850年10月19日のことだった。墓には、林則徐夫妻をはじめその父母および弟夫妻が 合葬されている。福州市北郊の馬鞍村、金獅山のふもとにある。

 

 

 

 

林文忠公読書処

福州
林則徐

林則徐の別荘跡。中華民国時代、アヘン戦争の英雄林則徐にちなみ、禁煙亭が併設された(禁煙はアヘン禁止の意)。市内 西北の西湖の荷亭のかたわらにある。

 

 

 

 

 

 

 

陳化成墓

福建省
厦 門

アヘン戦争で戦死した江南提督陳化成の墓。川鼻仮条約に不満をもつイギリスは、1842年、ヘンリー・ポッティンジャーを 全権としてふたたび軍隊を北上させた。途中、上海で清軍と交戦したが、この際、指揮していた江南提督陳化成が敵の挟撃にあい、 部下ととも に戦死した。収容された遺体はその後、生まれ故郷の福建省同安に近い当所に葬られた。市の郊外、 金榜山の麓にある。

 

三元里人民抗英団闘争紀念館

広 州
平英団本部

アヘン戦争時、イギリス軍に対抗した農民義勇軍、三元里人民抗英団を記念した歴史博物館。1841年5月、¥インド人傭兵を中心とするイギリス軍は広州に乱入、市内各所で暴行・略奪をほしいままにした。これに怒った三元里付近の農民は、『平英団』(英人を平らげる義勇軍の意)を結成。イギリス軍に対する抵抗運動をくりひろげた。 平英団は一時、牛欄崗付近でイギリス部隊を包囲し、全滅寸前まで追い詰めたこともあったが、イギリスの報復を怖れた 清朝政府の圧力によって強制的に解散させられた。この農民蜂起は、民衆による自発的な反帝反封建運動のはじまりとして、 歴史的にも大きな意義をもつものとされている。ここは、その平英団を記念して建造された歴史陳列館。もとは土地の古廟 だったところで、農民たちは決起前夜、ここに集まり、義勇軍の結成を誓ったと伝えられる。広州駅の北、解放北路を のぼった三元里にある。

 

四方炮台遺址

広 州
広州市街

市内越秀山の頂上にある砲台でかつて広州城を見下ろす重要な要塞であった。1841年5月、沙面から広州城に上陸した イギリス軍がここを占拠し、司令部を置いた。また同月30日、『平英団』と称する武装農民がこれを包囲し、兵糧と弾薬の補給を絶った。だが、対英交渉に当たっていた清朝首脳の奕山がイギリス側の抗議に屈し、『平英団』に解散を命じたためかろうじて難を逃れた。

【関連史跡】なお、当時この四方砲台にあったドイツ製の大砲2門は、現在、越秀公園内の鎮海楼の前に展示されている。

 

 

 

 

 

平英団義勇祠

広 州
平英団の旗

アヘン戦争時に活躍した農民義勇軍『平英団』の戦死者をまつった祠跡。1841年5月、イギリスの侵略に抗して立ち上 がった農民義勇軍『平英団』は、牛欄崗で激しい戦闘を繰り広げた。そのさい犠牲になった20人あまりの兵士をしのんで 建てられたのがこの祠で、市の北郊、石井橋の近くにある。なお現在の祠は、太平天国の乱後に建て直されたもの。また近くに 昇平社学跡がある。

 

 

 

沙面

広 州
官許を受けた中国商人

西洋列強の中国侵略の足がかりとなった租界が置かれた場所。沙面は本来、日本の長崎出島同様、海禁政策をとる清朝によって設置された外国商人用の居住区にすぎなかったが、アヘン戦争後は治外法権を持つ独立行政区、すなわち租界として 生まれ変わった。敷地内には当時の外国商館や領事館だった南洋植民地風の重厚な石造建築がそのまま残っており、あたりを 覆ううっそうとしたガジュマルの老木とともにいまも往時の風情がしのばれる。なお当時は西半分がイギリス租界、東半分が フランス租界として使用されていたという。市内の南方、珠江に面している。1、5、6、15路バスで622路あるいは黄沙下車。

 

 

 

 

虎門アヘン戦争博物館

東 莞

アヘン取り締まりの命をうけた林則徐は、広州へ赴くと海のすぐそばに巨大な人工池をふたつ造り、没収したアヘンを大量の石灰と一緒に投入。化学変化を起こさせたうえで海に流した。処分されたアヘンはおよそ1500トンにものぼり、人工池から生ずる白煙はその後、えんえん3週間にわたってたちのぼったという。ここはその当時、アヘンを処分した人工池があったとされる場所で、現在公園として市民の憩いの場となっている。なお園内にはアヘン戦争博物館と林則徐記念館があり、それぞれ当時の文物資料が展示されている。また博物館の前には、当時のアヘン焼却池と同規模の池が再現されている。東莞市 虎門鎮にある。

【関連史跡】近くにはアヘン戦争のさい、広州防衛のために設置された虎門砲台跡も残っている。

 

虎門要塞

東 莞
虎門要塞

南の玄関口広州を防衛するため、珠江沿岸につくられた要塞跡。虎門要塞はもともと康煕帝の時代に築かれたものだったが、アヘン戦争前夜、欽差大臣林則徐と水師提督関天培によって拡充、整備された。当時は沙角砲台、大角砲台、威遠砲台などあわせて11の砲台が設置されていたが、現在は、沙角砲台と威遠砲台のふたつだけが歴史の風雪に耐えて残っている。東莞県 の南方、沙角にある。

【関連史跡】 付近の沙角公園内に、林則徐紀念碑がたっている。

 

アヘン戦争義勇之冢

東 莞

アヘン戦争で犠牲になった関天培将軍以下、その将兵たちをまつった墓の跡。1841年2月6日、チャールズ・エリオット大佐率いるイギリス軍の猛攻によって清国側の将軍関天培将軍をはじめ多くの将兵たちがこの付近で戦死した。本来の義勇之冢は、打ち続く戦乱のため、その後長く打ち捨てて置かれたが、100年以上たった1971年に発見され、虎門人民紀念館の背後の山麓に改葬された。虎門要塞の横當砲台の 近くにある。

 

節兵義墳

東 莞
平英団本部

 

アヘン戦争で犠牲になった75人の兵士を葬った場所。義勇之冢同様、長い間、荒廃して草むらに埋もれていたが、1958年 に発見され、歴史記念物として修復された。虎門の白草山の西麓、沙角砲台の背後にある。

 


日中戦争は誰が引き起こしたのか?

中国歴史(近現代史)観光ガイドPAGE TOP