ドキュメント日中戦争(支那事変)

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日中戦争(支那事変)

盧溝橋事変勃発

「パン、パン、パーン!」

北京郊外、永定河にかかる盧溝橋付近で夜間演習を行っていた日本軍の頭上に突然、数発の銃声が響いた。「すわ、敵の攻撃か!?」 緊張した日本軍は、いったん演習を中止、点呼を行ったところ兵が一人見あたらない。その後、しばらくして行方不明の兵はひょっこり戻ってくるのだが、時すでに遅し。一連の事件を中国側のしわざとみなした日本軍は翌日ただちに近くの龍王廟付近に拠っていた中国軍に対する攻撃を開始した。1937年7月7日夜から8日未明にかけてのことである。

盧溝橋の中国軍
盧溝橋の中国軍

事件発生の報を受けた日本政府は当初、不拡大派の奔走もあっていったん矛をおさめることに合意。ところが北京で停戦協定が結ばれたその同じ日、戦争拡大派に押しきられた日本政府は突如、強硬姿勢へと転換した。「中国の反省を促す」ためと称して三個師団の派遣を決定したのである。

当然ながら中国の世論は激昂した。それまで対日妥協を繰り返してきた蒋介石も、盧山での国防会議の席上、有名な「最後の関頭演説」を行い、「万一盧溝橋事件が平和裡に解決されず最後の関頭に立ち至った場合、われわれはいかなる犠牲を払っても国家としての存続を求める」と日本の満州侵略以来、初めて徹底抗戦の構えを示した。

蒋介石
蒋介石

こうした一触即発の空気に点火したのは、25日から26日にかけて発生した廊坊事件広安門事件である。前者は北京と天津の間にある廊坊という駅で起こった両軍の衝突事件であり、後者は居留民保護の名目で入城しようとした日本軍に北京広安門から中国軍が発砲した事件である。日本軍は一連の事件を口実に中国軍の北京からの撤退を要求。それが容れられないと見るや28日早朝、ついに戦端を開いた。

広安門
広安門

満州、朝鮮からの増援部隊に力を得た日本軍は、圧倒的な兵力でもって中国軍を撃退、わずか数日のうちに北京と天津を中心とする地域を手中におさめてしまった。さらに日本軍は攻撃の手を休めることなく、そのまま察哈爾省や河南、山西、山東へと侵入。大同、石家荘、太原、済南など各主要都市を占領するとともにそれらを結ぶ鉄道沿線を支配下に置くことに成功した。わずか一か月ほど前、盧溝橋での数発の銃声に始まった日中間の小ぜり合いは、こうして華北の広大な地域を舞台とした大規模な戦争へと発展したのである。

察哈爾作戦での東條英機兵団長
察哈爾作戦での東條英機兵団長

第二次上海事変と南京陥落

華北で燃え上がった戦火は、やがて中国最大の都市上海へと飛び火した。きっかけとなったのは、海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が8月9日、中国保安隊によって射殺された事件である。当初、日本側はこれを外交交渉で解決しようとしたが、今度は大前憲兵軍曹が中国保安隊に拉致される事件が発生するにおよんで日本政府は、松井石根大将を司令官とする二個師団の上海派遣を決定。続く15日には「支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省を促す」という声明を発表、事実上の宣戦布告を行った。

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大山勇夫中尉殺害事件
大山勇夫中尉殺害事件

一方、蒋介石側も14日に「抗日自衛宣言」を発表、日本に対し全面対決の姿勢をあらためて鮮明にした。さらに同月22日には、紅軍の一部を国民革命軍第八路軍に改編することを公布。ここに2年前の「八・一宣言」以来、中国共産党および中国国民の宿願であった統一戦線の結成ーー第二次国共合作は実を結んだのであった。

当初、松井大将を司令官とする上海派遣軍の目的は「上海付近ノ敵ヲ掃滅」することとされ、その作戦地域もせいぜい蘇州、嘉興あたりまでと限定されていた。ところが、日本軍はこの中央命令を無視し、敗走する中国軍を追って北上、中華民国の首都南京へと向かった。満州事変以来、日本軍の「伝統」となった「現地軍の暴走」である。

上海郊外の陣地で戦う中国軍
上海郊外の陣地で戦う中国軍

南京への総攻撃が開始されたのは、冬も押し迫った12月10日のことだった。これに対し、首都防衛の任にあたったのは、唐生智将軍率いる約10万の中国兵。かれらは、城外の雨花台や紫禁山に堅固な陣地を築き、果敢に日本軍を迎え撃った。だが、「南京一番乗り」を争う日本軍の士気は高く、中国軍はしだいに守勢一方に立たされる。やがて12日の朝、雨花台と紫禁山が陥落、さらに同日の午後には日本軍の一部隊が中華門西方の城壁を越えて城内へと乱入すると中国軍はたちまち算を乱して壊走。なだれを打つように背後の揚子江へと逃れた。

翌13日、城内に進駐した日本軍は国民政府庁舎に日章旗を掲揚。ここに中華民国の首都南京は、日本軍の占領下に入ったのである。

南京に入城する日本軍
南京に入城する日本軍

この際、いわゆる「南京虐殺」が発生したと中国側は主張しているが、虐殺の定義が曖昧であること、また犠牲者数が過大すぎたり、証言のみで物証がほとんどないこと、さらにそのような「虐殺行為」が果たして本当に日本軍によるものなのか、あるいは中国軍伝統の置き土産である暴行略奪によるものなのか判別しがたいことなどから、その存在をめぐってはいまも議論が続いている。

南京市民と日本軍
南京市民と日本軍

徐州陥落と武漢・広東攻略作戦

だが、日本軍が入城した時にはすでに重要な政府機関は長江上流へ移された後だった。そのため日本軍は、翌年4月再び戦線を拡大する。今度の目標は中国軍主力が集結していた徐州である。それを包囲殱滅させ、華北と華中の占領地域をひとつにつなげようというのが日本軍のねらいであった。4月下旬、日本軍は、北と南から徐州めざして進軍を開始した。「徐州、徐州と人馬は進む…」と軍歌にもうたわれた有名な麦秋の行軍である。

中国軍の激しい抵抗に遭いながら徐州包囲網をしいたのはすでに5月中旬だった。だが、日本軍はここでも肩すかしを食らう。蒋介石は無駄に兵力が失われるのをおそれ、中国軍に撤退を命じたのである。中国軍が機動退却したあとの5月20日、日本軍は徐州を占領した。だが、南北の占領地をつなげることには成功したものの、中国軍主力を殱滅させることは今度もできなかった。

徐州における中国軍の戦略的撤退を「戦意喪失によるもの」とみなした日本軍は、再び戦線を拡大する。今度の目標は、新たな首都と目されていた中原の要衝、武漢とその対外補給ルートとみられた広東であった。

中国軍は黄河の堤防を破壊して逃走した
中国軍は黄河の堤防を破壊して逃走した

8月22日、大本営が「武漢攻略」の大命を下すと総勢30万にのぼる攻略軍は、いよいよ進撃を開始。攻略軍は第11軍と第2軍とに分かれていたが、このうち第11軍はさらにふたつに分かれ、揚子江の南北岸を遡行しつつ、上流の武漢へと迫った。また第2軍は大別山の北側をぐるりと迂回する形で北方から武漢をうかがう姿勢を示した。途中、中国側の激しい抵抗とマラリアという思わぬ伏兵に悩まされ、日本軍は予想以上に大きな損害を被った。だが、9月下旬、第11軍の主力が馬頭鎮、田家鎮といった要衝を制圧すると戦局はしだいに日本側優位に傾いてくる。その後、10月25日、第11軍の一部隊が武漢に到着すると、中国軍は早々と撤退を開始。ここに武漢は事実上、陥落したのである。しかし、占領した武漢は、またもやも抜けのからであった。すでに蒋介石は、武漢陥落直前、さらに奥地の重慶に拠点を移し長期戦の構えを整えていたのだ。

日本軍の武漢作戦
日本軍の武漢作戦

一方、台湾沖の澎湖群島を船で出発した広東攻略軍は、10月12日深夜、月明かりの中をバイアス湾に上陸。めざす広州へ向けて西進を開始した。広東への上陸は中国側にはまったく予想外のことだったらしく、日本軍はこれといった抵抗を受けることもなく破竹の勢いで進撃。武漢陥落に先立つ10月21日に、広州はあっけなく陥落してしまったのである。

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対外補給ルートの八割近くを占める広東の陥落は、さすがに蒋介石にとっても大きな打撃であった。だが、同時にそのとき日本の動員力はすでに限界に達しており、内地には近衛師団を残すのみとなっていた。しかも、日本軍が占領したのは、都市とそれを結ぶ交通戦、いわゆる「点と線」だけで、そのまわりに広がる広大な農村地帯はほとんど手がつけられないままだった。

その年の5月、延安にいた毛沢東は、『持久戦論』を発表し、日中戦争の現状と見通しを明らかにした。それによれば、日中戦争は、中国側からみて戦略的防御、戦略的対峙、戦略的反攻の三つの段階に分けられ、戦局はもうすぐ対峙段階へと移行すると主張した。

武漢・広東の陥落は、まさに対峙段階に入ったことを示すものであり、事実、その後の戦局は毛沢東の予言通りに推移したのである。

延安の毛沢東
延安の毛沢東

和平工作とその挫折

現地軍が戦線を拡大するかたわら日本政府部内では、和平工作をめぐってあわただしい動きが続いていた。時の近衛内閣はすでに盧溝橋事件の直後から、宮崎龍介(孫文の盟友宮崎滔天の息子)らを使って和平交渉を試みたが、いずれも失敗に終わっていた。その後、新たな仲介役として和平派の期待を担って登場してきたのが駐華ドイツ大使トラウトマンである。

1937年11月5日、トラウトマンは日本側の停戦条件を蒋介石に伝達、蒋介石はこれを基本的に了承した。ところが、その後、南京が陥落するや日本政府部内には強硬論が続出、それまでの条件は次々と加筆され、最終的には中国をほとんど日本の植民地とみなす内容となってしまった。当然ながら蒋介石はこれを拒否。ここにトラウトマンによる和平交渉も打ち切られてしまった。

和平工作に失敗した日本政府は1938年1月16日、「帝国は爾後国民政府を対手とせず。新興支那政権の成立発展を期待する」という第一次近衛声明を発表。和平交渉の道を閉ざす一方、北京の中華民国臨時政府、南京の維新政府などもっぱら現地軍によって樹立された傀儡政権の強化・育成に力を注いだ。

近衛文麿
近衛文麿

だが、その年の秋、武漢、広州を占領したものの、これ以上の武力解決は不可能とみた日本政府は11月3日、第二次近衛声明を発表して、再び政治解決の道を求める。この声明では、「日本の求めるところは東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設である」と初めて戦争目的を明らかにするとともに「国民政府といえども従来の政策を一掃し、人的構成を改替して更生の実をあげ、新秩序の建設に参加するならこれを拒否しない」と先の「国民政府を対手にせず」とした第一次近衛声明を撤回した。 そのころ、重慶の国民政府部内には抗日政策をめぐってふたつのグループが対立していた。一方は、蒋介石を筆頭とするグループであり、かれらは「焦土抗戦」による戦争継続を主張していた。これに対し、汪兆銘を主班と仰ぐグループは日本軍の進攻とそれに伴う解放区の拡大に危機感を抱き、「このままでは中国は中国共産党に乗っ取られてしまうか、あるいは日本軍に完全に制圧されてしまう」として反共・対日和平を訴えた。

汪兆銘
汪兆銘

両派の対立が決定的となった12月8日、汪兆銘は数名の部下とともに重慶からベトナムのハノイに脱出。日本政府の「東亜新秩序」声明に呼応するように重慶政府に対し、日本との和平を呼びかける電報を打った。汪らの当初の計画によれば、雲南や四川、広西などの西南軍閥がこれに応じて蒋介石からの独立を宣言、その地に汪兆銘を主班といただく新たな国民政府を樹立するつもりであった。しかし、この汪兆銘の「艶電」に応ずるものはほとんどなく、国民党の大物汪兆銘を担ぎ出した和平工作は結局失敗に終わった。

日中戦争から太平洋戦争への拡大

日中戦争の当初、アメリカは一方で蒋介石政府に同情を示しながら、もう一方では日本へ大量の軍需物資を輸出するなど両国の共倒れを狙った二面政策をとっていた。ところが、中国大陸における日本のプレゼンスが増大するにしたがい、危機感を抱いたアメリカは欧州における国際情勢の変化もあって、しだいに対日強硬姿勢へと転換していく。

強硬姿勢に転じたアメリカが日本に加えた最初の大きな一撃は、1939年7月の日米通商条約の更新拒否通告であった。当時、日本は軍需物資のかなりの部分をアメリカからの輸入に頼っており、それが禁輸されるとなれば戦争遂行上、大きな支障を来たすことは明らかであった。

ルーズベルト
ルーズベルト

日本側はあわてた。しかし、アメリカの姿勢は強硬であり、アメリカからの輸入が期待できないとなると、当然どこか他のところから調達しなければならない。そこで浮上してきたのが南進論である。すなわちインドシナ半島やインドネシアなど、資源の豊富な東南アジアを押さえ、そこを後背地として中国を封鎖すればよいという考え方であった。おりしも欧州では、ナチスドイツの電撃的な勝利によってフランスが降伏、オランダなども窮地に立たされ、その植民地である東南アジアはいわば空白の状態となっていた。こうした中、1940年9月、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結ぶとともに北部仏印へと進駐。さらに翌年7月には欧州における独ソ戦開始と歩調を合わせるように南部仏印への進駐を開始した。

自転車で仏印に進駐する日本軍銀輪部隊
自転車で仏印に進駐する日本軍銀輪部隊

これに対し、アメリカはついに最強硬手段に踏み切る。すなわち在米日本資産の凍結と石油を含む対日全面禁輸を発動したのである。同時にアメリカはイギリス・中国・オランダを誘い、いわゆるABCD包囲陣を結成。日本の南方進出を阻止しようとした。この間、日本はなおも外交交渉によって局面の打開をはかろうとしたが、米国務長官ハルが「中国を満州事変以前の状態に戻すべし」という最後通告(ハルノート)を突きつけると日本政府は交渉による解決の途を断念。もはや開戦あるのみとして12月8日、ついにアメリカ、イギリスに対する宣戦を布告した。

ハル国務長官
ハル国務長官

ハワイの真珠湾を奇襲攻撃した日本軍は、そのまま香港、フィリピン、マレーシア、シンガポール、インドネシアと電撃的に進攻。さらにビルマ(現ミャンマー)とソロモン諸島を陥し、またたくまに太平洋を含む広大な南方諸地域を占領下に置いた。しかし、緒戦の勝利に沸いたのはわずか1年ほどだった。

真珠湾攻撃
真珠湾攻撃

1942年6月、陣容を建て直したアメリカ太平洋艦隊が、ミッドウェー沖で日本の連合艦隊を駆逐。「真珠湾を忘れるな!」を合言葉に太平洋における制海権と制空権の奪回に成功した。さらに翌年2月には、ガタルカナル島上陸作戦を敢行、激戦のすえ同島に拠る日本軍を撤退させた。以後、日本は太平洋上の拠点を次々と失い、44年7月にはサイパン島が陥落。アメリカ軍はそこを基地に連日のように日本本土への空襲を繰り返した。

南方と本土を結ぶ海上ルートが遮断された日本は、北京からハノイを結ぶ陸上輸送路の確保と中国にある連合軍基地を叩くことを目的に1944年5月、大陸打通作戦と呼ばれる最後の大作戦を展開した。これに対し、正面からの衝突を避ける国民党軍が戦うことなく敗走したため、一応輸送路の南北打通には成功したかに見えた。だが太平洋戦線における日本側の劣勢は覆うべくもなかった。大勢はすでに決していたのである。

大陸打通作戦
大陸打通作戦

この時期、軍内の一部にはまだ「本土決戦」「一億玉砕」を唱える強硬派もいたが、8月6日と9日、広島と長崎にアメリカ軍によって原爆が投下され、北方からはソ連軍が満州国境を越えて参戦してきた。そうした中、日本政府は8月15日、ついにポツダム宣言を受諾。連合国に対して無条件降伏を表明した。同時に足かけ9年におよんだ日中戦争もここに終わりを告げたのであった

満州に進軍するソ連軍
満州に進軍するソ連軍
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