延安関連史跡

延安の毛沢東
延安の毛沢東

大長征を終えた紅軍は最初、保安(現在の志丹)に入った。だが、黄土台地にある保安は侵食が 激しく道も狭かったため、1937年1月延安に進駐し、ここを新たな根拠地とした。以来10年以上にわたって、 中国共産党はここを「赤い首都」として支那事変、解放戦争を戦い抜いた。西安の北方、 約250キロの黄土高原の山中にある。「中国革命の聖地」として多くの史跡が残っている。

 
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延安宝塔

延安のシンボル宝塔
延安のシンボル宝塔

革命の聖地延安のシンボル。明代の創建になる九層八角形の塔。市街の東、宝塔山の山頂に建つ。

清涼山革命旧址

当時、この山の中腹に新華社や解放日報社、中央印刷工場などが設けられていた。 唐代から宋代にかけて掘られた石窟寺院の万仏洞もある。延河をへだてた東北方。

鳳凰山麓革命旧址

毛沢東の住居跡
毛沢東の住居跡

毛沢東ら共産党幹部の最初の住居跡。この地方独特の窰洞(ヤオトン)形式で、山の斜面に掘られた洞窟を そのまま利用している。毛沢東は、ここで「実践論」「矛盾論」「持久戦論」など数多くの論文を執筆した。 またカナダ人医師ノーマン・ベチューンと会見した場所でもある。現在、毛沢東と朱徳の旧居が残っている。 市内中央、鳳凰山の麓。現在の延安賓館の近く。

【関連史跡】鳳凰山の南麓には、陝甘寧辺区政府参議会旧址がある。

楊家嶺革命旧址

延安時代、共産党幹部の住居は戦況を反映して何度か移転しているが、この楊家嶺は、 鳳凰山麓についで2番目の引っ越し先となった場所。並木道を通って旧址内に入るとすぐ目の前に中央大講堂があり、 その背後、山の斜面にはりつくように幹部の旧居が残っている。いずれもこの地方独特の窰洞である。 毛沢東は、ここで「新民主主義論」を執筆した。市内西北の楊家嶺にある。

棗園革命旧址

中共幹部の住居跡
中共幹部の住居跡

毛沢東ら中共幹部の3番目の住居が置かれた場所。毛沢東らは、1940年から47年までの間に 2度にわたってここに住んだ。棗や杏などが生い茂る美しい林の中にあり、敷地内には小講堂をはじめ、 作戦研究室などの建物が残っている。裏山にはやはり窰洞形式の住居が残っており、ふもとにあるのが劉少奇、 彭徳懐の旧居、山上にあるのが毛沢東、朱徳、周恩来の旧居である。市内西北。延安大学の近くにある。

王家坪革命旧址

中国共産党大会堂跡
中国共産党大会堂跡

中国共産党の中央革命軍事委員会と八路軍総部の所在地。毛沢東、朱徳、葉剣英らの旧居がある。 市の西北、王家坪村にある。

南泥湾

大生産運動
大生産運動

1941年、日本軍と国民党軍による封鎖によって打撃を受けた共産党支配地区では、局面打開のため、 中共中央の指導で大生産運動が展開された。そのモデル地区となったのがここ南泥湾。八路軍は、 もともと荒れ地だったこの土地を開墾し、肥沃な農地に生まれ変わらせた。延安の南東90キロ。

日本人工農学校宿舎跡

延安工農学校の日本人
延安工農学校の日本人

支那事変中、八路軍の捕虜となった日本兵の多くは前線から延安まで移送されたのち、 ここで共産主義による再教育を施された。教育にあたったのは日本共産党の野坂参三らである。 宝塔山の麓にある。

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延安革命記念館


延安時代の革命資料を展示した歴史記念館。館内には、支那事変中、日本軍からろ獲した武器をはじめ、 長征中の食料となった野草、大生産運動の際に使われた農具や紡車など、苦難の時代をしのばせる数多くの 遺品が展示されている。また西側ホールには、1947年3月、侵攻してきた国民党軍をかくらんするため、 中国共産党中央が延安を撤収してから翌年4月延安にもどるまでの転戦経過を、ランプと音声で詳しく 説明してくれる戦場模型がある。戦地医療に挺身したカナダ人医師ノーマン・ベチューンや、「中国の赤い星」を 著わしたジャーナリスト、エドガー・スノーら、革命を支援した外国人に関する資料も豊富に展示されている。 市内西北、清涼山の西の王家坪にある。

【関連史跡】記念館の東隣は、中央軍事委員会および八路軍総司令部の旧址。毛沢東や朱徳、彭徳懐の 葉剣英らの旧居も残っている。

 
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延安の毛沢東
延安の毛沢東
延安の紅軍
延安の紅軍
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天長節事件跡

天長節事件の現場跡。1932年4月29日、天長節(天皇誕生日)を祝って日本軍による大観兵式が 虹口公園で催された。この際、祝賀会の式台に突然、爆弾が投げつけられ、壇上に並んでいた 白川義則大将はこの時の傷がもとでのちに死亡、重光葵公使は右足切断の重傷を負った。爆弾は水筒に擬装されていたという。犯人は朝鮮独立党の志士尹奉吉。朝鮮独立党は、ソ連および中国共産党との結びつきが指摘されており、また満州事変の解決をめざして交渉中だった上海停戦協定の締結直前に発生した事件でもあり、背後に日中の全面衝突を望む勢力のいたことがうかがえる。場所は虹口公園。

尹奉吉
尹奉吉

 

事件直前の要人(左から白川、重光、野村)
事件直前の要人(左から白川、重光、野村)

 

事件現場の記念碑
事件現場の記念碑

ここにも中共の影 第一次上海事変も中国共産党の策謀だった可能性が‥

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会寧会師遺址

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毛児蓋で分裂行動をとり、四川西北部へ向かった張国熹の部隊は、あとからやってきた 賀龍ら第2方面軍の説得により、根拠地建設を断念して北上。1936年10月8日、早朝、 迎えに来た旧第1方面軍の部隊と当所で合流した。会寧県の県城にある。

会寧で合流した紅軍
会寧で合流した紅軍
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臘子口戦役遺址

毛沢東の長征軍は、四川の大湿地帯をようやく脱けた1935年9月、 断崖絶壁にはさまれた天険のあい路、臘子口にさしかかった。長征軍は、待ち伏せしていた国民党軍を 激戦のすえ撃破し、次の目的地である六盤山へと向かった。毛沢東は、のちにこのときの勝利を 「更に喜ぶ岷山千里の雪、三軍過ぎてのち尽く(ことごとく)開顔(わらう)」と詩に 詠んでいる。甘粛省蘭州の南、四川に接する迭部県の県城西北約120キロ、岷山山脈に属する迭山山中にある。現在、臘子口戦役記念館が建っている。

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長征 松潘

1935年9月、毛沢東率いる長征軍は、四川の北部に横たわる松潘の大湿原地帯にさしかかった。 青草以外に食べるものもなく、しかも雨と風と雪が連日のように荒れ狂い、多くの同志が泥沼のなかに のみ込まれていったという。松潘は、四川北部の大湿原。

 

長征中の紅軍
長征中の紅軍
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大雪山


大雪山に近いアバ・チベット族チャン族自治州汶川県を表示しています。

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1935年6月、万年雪をいただくチェン峡山脈にさしかかった長征軍は、中国史上誰も試みたことのないといわれた大部隊による大雪山越えを行った。最大の難所は、海抜4000メートル級の夾金山。紅軍は、ほとんど防寒装備を持たず、 大勢の兵士が凍死した。「大雪山越えは長征の大きな試練であった。風雨や氷やひょうが耐えず、 紅軍を襲った。数百の同志が倒れて2度と起き上がらなかった。しかし、 紅軍はその屍を越えて前進した!(毛沢東)」。チェン峡山脈は、四川成都の西方に南北に横たわっている。

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彝海結盟遺址

1935年5月、紅軍がこの地を通過したさい漢民族に敵意を抱く彝(イ)族に包囲された。交渉の任に当たった 総参謀長の劉伯承は、酋長の小葉丹と会談。中国共産党の民族政策を説明し、 紅軍は決して少数民族の敵ではないことを訴えた。彝族の長は納得し、約束の証として鶏の血をすすり合い、 劉伯承と義兄弟の契りを交わした。貴州省免寧県県城から約30キロほど離れた旋烏郷にある。ストリートビューは劉伯承と小葉丹の銅像がある西昌市内の交差点。

 

彝族と契りを結ぶ劉伯承
彝族と契りを結ぶ劉伯承

 

彝族
彝族

 

石林
石林
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濾定橋

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安順場での渡河に失敗した紅軍は、ここで再び渡河に挑戦した。だが、紅軍の前に横たわっていたのは、 踏み板をはずされた16本の鎖からなる朽ちかけた吊り橋ひとつであった。それでも紅軍は22人の兵士を募り、 決死の渡河を試みた。銃弾が雨あられと降り注ぐなか、決死隊はひとりまたひとりと怒濤逆巻く急流のなかへ 消えていった。しかし、運良く向こう岸へ近づいた兵士のひとりが手りゅう弾を敵のトーチカに 投げこむと敵は総崩れとなり敗走。紅軍主力は、踏み板を渡した橋の上をゆうゆうと渡ること ができた。なおこの大渡河は、かつて太平天国の石達開が渡ろうとして渡れず、全滅した河でもある。 濾定県城西方の大渡河に架かる橋。橋のたもとに四川大渡河瀘定橋陳列館がある。

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紅軍強渡大渡河遺址

金沙江を渡った紅軍は1935年5月、大渡河の南側安順場に到達した。向こう岸へ渡ろうとした紅軍は、 まず南岸にもやってあった船に先鋒隊を乗せ、対岸へと送り込んだ。先鋒隊は、激烈な戦闘ののち対岸の渡し場を占領。 早速、船を回して主力部隊の輸送にとりかかったが、困ったことに渡し船は3隻しかない。渡河に手間取っているすきに、 蒋介石の空軍が激しい爆撃を加えてきた。やむをえず紅軍は、すでに向こう岸へ渡った部隊 とともに河岸を並行してさかのぼり、濾定橋まで移動することにした。四川省石棉県西部の安順郷にある。

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