象鼻山

紫荊山
紫荊山
金田村から北上の途についた太平天国軍は1852年4月、当所に砲台を築いて桂林を攻略しよう とした。しかし、 桂林の守りは堅く、結局太平軍は攻略をあきらめ再度北上。全州方面へと向かった。象鼻山は、広西壮族自治区桂林市の南端、桃花江が 漓江に注ぐところにある。

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太平天国開国封王地

金田蜂起後、潯江と黔江の流域を転戦していた太平天国軍は、1851年9月25日、 永安州(現在の蒙山県)を 攻略し、ここに最初の王府を置いた。滞在したのはわずか半年であったが、聖庫制(一種の共産主義制度)を制定し、 東王、南王、北王、西王、 翼王ら5人の王を封じるなど、基本的な国家としての体裁を整えたところとして歴史的にも 重要な場所とされる。王府はもとの役所跡で、1949年の解放後、庭の井戸から処刑された知州の骨や捕虜を縛った 鎖などが発見された。また、太平軍が攻め落とした城壁や清軍を迎え撃った東西の砲台、十里長城、西浮嶺地下洞 など多くの史跡が現存する。近くに記念館がある。広西壮族自治区南寧の東北方、桂平県の北にある。永安州は現在の蒙山県。蒙山県は 金田の北方、柳州の東方。

太平天国の玉璽
太平天国の玉璽
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陳玉成生家


太平天国末期の将軍、英王陳玉成の生家。広西壮族自治区金田村に近い藤県の大黎郷の山中にある。

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大成国王府遺址

太平軍の武器
太平軍の武器
1855年4月、太平天国の戦いに呼応して秘密結社天地会の首領陳開と李文茂が4万 人あまりの民衆を率いて広東で蜂起 した。陳開らは潯江に1000隻あまりの船を浮かべ て広西へ進入。潯州(現桂平県)を占領し、大成国を建国した。だが 61年8月、清 軍によって潯州は奪還され、陳開は処刑された。ここはその大成国の王府跡で、広西壮族自治区桂平県の中心小学にある。

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広西壮族自治区博物館

太平天国時代の髪型
太平天国時代の髪型
「太平天国革命在広西歴史陳列」が常設されている。太平天国軍が金田村で行った武装蜂起とその後の広西における闘争、 石達開の広西への帰還、広西人民の反清朝闘争の歴史などについて展示されている。広西壮族自治区南寧市内71路にある。

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洪秀全生家

太平天国の指導者洪秀全が幼少時代を過ごした旧居。洪秀全は1814年、この近くの福源水村で生まれ、まもなく当所 に移ってきたという。故居は泥づくりの小さな建物で、なかには木製のベッドと机がひとつ置かれているだけの粗末なつくり。洪秀全は少年時代、ここで科挙の勉強にはげんでいたが、病床で見た幻想をきっかけにキリスト教に 入信。29歳の時、拝上帝会を結成し、同郷の馮雲山らとともに広西方面へ布教に出た。そのさい、布教の テキストとした「原道救世歌」「原道覚世訓」などはここで書かれたといわれる。またとなりの建物は 洪一族の祖廟だったところで、現在、洪秀全故居紀念館となっている。広州市の北方、花県官禄坿村の入口にある。 【関連史跡】近くに干王洪仁干の故居がある。

洪秀全教学私塾旧址
洪秀全が村の子弟に学問を教えていた私塾跡。キリスト教信者となった洪秀全は、塾に祀ってあった孔子の位牌を片づけた ことをとがめられ、塾を追放されたと伝えられている。現在は小学校の 校舎となっている。花県新華郷蓮華塘村にある。

太平天国の指導者・洪秀全の子孫と称する日本人の話

1930年代はじめのこと、洪秀全の故郷である広州花県の官禄坿にある日、一人の日本人がひょっこり現れた。

 男は最初、広州の日本領事館に勤務する矢野某と名乗ったのだが、驚いたのはその後だ。「自分は日本に逃げのびた洪秀全一族の後裔だ」と主張したのである。もちろん、村人はそのうさんくさい男の話を誰一人信じようとはしなかった。

ところが、「父の話によると村の塾の前に一対の獅子の石像を埋めておいたそうだ」と男がいうので、半信半疑ながら、ためしに掘ってみたところ、なんと実際にみつかったらしい。そのため、村人はその男を信じるようになったという。

また日中戦争勃発後の1938年、日本軍が広州を占領した際も「洪秀全の後裔」をかたる将校がやってきたことがある。

 男は矢野と一字違いの矢崎と名乗り、「先に皇軍の一部隊が洪秀全一族の宗祠を破壊したことに対して陳謝する。今後、皇軍がこの村に立ち入ることを禁止し、一切の労役や食料の提供を免除する」と村人を集めて布告した後、洪姓の長老たちを広州に招いて酒をふるまい、千元の軍票を与えたという。

これらはおそらく特務工作の一環として日本軍が打った芝居だったのだろう。とくに矢崎のほうは広州を占領した日本軍の宣撫工作のひとつとみてまず間違いあるまい。

 しかし 、もしもだが、本当に洪秀全が生きのびて日本へ渡っていたとしたら…。まずありえない話ではあるが、歴史のロマンを誘うエピソードであることだけはたしかである。

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天心閣

tensinkaku1852年、太平軍が長沙を攻略したさい、西王蕭朝貴が戦死した場所。ちなみに天心閣は辛亥革命前夜、中国同盟会の分会が置かれた場所でもあり、また1930年の共産党による 長沙暴動のさい、彭徳懐が指揮部を設けたところとしても有名。湖南省長沙、旧城の東南隅にある建物で、周囲は天心公園となっている。

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太平天国・捻軍起義旧址

太平軍の兵士
太平軍の兵士
それまで各地でバラバラに活動していた捻軍の指導者数百名が1855年8月、当所に 集まり、大同団結を誓った 場所(雉河会議ともいう)。かれらは張楽行を盟主に推し、「 大漢国」の樹立を宣言。「共に妖韃(清朝)を誅し」「 共に基業を建てる」ことを決定した。旧址 内には捻軍資料陳列室も併設されている。江蘇省渦陽県の県城にある。

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張楽行故居

捻軍の首領張楽行の生家。捻軍は太平天国時代、安徽から河南、山東にかけて蜂起した農民反乱軍で、 のちに太平天国軍と連携しながら反清闘争を展開した。張楽行はその 盟主として「大漢国」の王、「大漢明命王」を 自称した。安徽省亳州市渦陽県の県城西北の老張家村にある。

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績渓県太平天国壁画

洪秀全と太平天国の幹部
洪秀全と太平天国の幹部
太平天国時代に描かれた壁画。「攻城」「進軍」「怪奇小説」「俗謡」「題字」などをテーマ にした7つの壁画で、 なかでも「攻城勝利図」は、1860年に太平 天国軍が旌徳県の県城を攻撃した時の模様を描いたものとされる。芸術的 に素晴しいばかりでなく、きわめて貴重な歴史資料でもある。安徽績渓県の北、旺川村の曹氏の支 祠(九思堂)にある。

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