大通師範学堂

末期の革命結社光復会が設立した軍事教練場跡。もとは貢院(官吏登用試験の地方レベルの試験場)として使われていた建物で、 紹興市の市街南部にある。校長となったのは清末の女性革命家・秋瑾で、表向きはたんなる体育学校にすぎなかったが、 真の目的は革命軍士官の養成にあった。1907年、安徽で徐錫麟による蜂起が失敗すると共同謀議のかどで、 秋瑾ら大通学堂の主だった指導者は逮捕・殺害され、同時に大通学堂も閉鎖された 。奥に徐錫麟を記念した徐公祠が設け られている。紹興市勝利西路563号。

秋瑾
秋瑾
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秋瑾故居

清末の女性革命家秋瑾の実家跡。役人であった祖父の任地、福建アモイに生まれた秋瑾は16歳のとき、 家族とともに紹興に帰郷、ここで少女時代をすごした。その後、21歳で結婚、夫にしたがって北京へ出たものの、 1900年に起こった義和団事件を目の当たりにし、革命家となることを決意。夫と子供を置いて日本へ留学した。帰国後は、 再び紹興に舞い戻り、体育学校の校長という身分を隠れ蓑に同志の徐錫麟らとともにひそかに革命運動を推し進めた。だが、 1907年夏、徐錫麟の安慶蜂起が失敗すると、共同謀議のかどで逮捕、処刑された。なお伝えられるところによれば、 処刑の際、「秋雨秋風人を愁殺す」という絶命詞を残したとされる。実家跡は現在、秋瑾故居および秋瑾記念館として 一般公開されている。館内には彼女の書簡や詩文、生前愛用していたショールや日本刀、さらに外出の際、 常に身につけていたという拳銃などが展示されている。市内解放南路を南にくだり、応天塔を右側にはいった 和暢堂22号にある。

 

捕縛された秋瑾
捕縛された秋瑾

 

逮捕時の秋瑾
逮捕時の秋瑾

【関連史跡】なお処刑場となった解放路の軒亭口には現在、秋瑾烈士記念碑がたっている。また府山公園には秋瑾を記念 した東屋、風雨亭がある。

秋瑾紀念碑

1917年7月16日朝、秋瑾はここで処刑された。碑は辛亥革命勝利後に建立されたもので、正面に「秋瑾烈士紀念碑」 の題字が彫ってある。紹興市の解放路のちょうど真ん中 あたりの軒口亭。

 

秋瑾紀念碑
秋瑾紀念碑

 

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浙軍攻克南京陣亡将士墓

南京攻略戦で犠牲になった浙江両省の兵士43名が葬られている。辛亥革命時、革命軍は南京を攻略しようとしたが、 駐屯する清軍が頑強に抵抗したため 一時鎮江に退却して援軍を求めた。これに対し、江蘇・浙江両省の革命派は、 ただちに義勇軍を編成。南京革命軍と合流し、ついに南京を陥落させた。杭州市の西部、南天竺(龍井路)の演福寺にある。

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陶成章墓

清末の革命家・陶成章の墓。光復会の指導者として浙江を拠点に活躍した陶成章は、1907年の挙兵計画発覚後は、 日本へ亡命し、同盟会幹部となった。だが、しだいに孫文と対立するようになり、独自の分派活動を推し進めた。辛亥革命後、 浙江都督に任じられたが、当時滬(上海)軍都督だった陳其美と意見が合わず、1912年1月、蒋介石がさしむけた刺客に よって上海で暗殺された。浙江杭州市の西部、南天竺(龍井路)の演福寺にある。
ストリートビューは紹興市にある生家。

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章太炎記念館

清末の革命家・章太炎の記念館。章太炎(章炳麟ともいう)は1869年、浙江余杭の生まれ。1903年、 『蘇報』事件の主犯格として鄒容とともに禁固刑を受け、2年間の獄中生活を過ごした。出獄後は、東京へわたり、 同盟会の機関紙『民報』で、梁啓超らの保皇派と激しい論戦を展開、世論を革命派の優勢に導いた。章太炎は、徹底した 民族主義者として知られ、当時中国人の間で一般的だった長袍は北方異民族の服、日本の呉服こそ本来の漢民族の伝統を 受け継ぐものとしてもっぱら呉服を愛用したという。晩年は日本の中国侵略に反対し、蒋介石の無抵抗主義を きびしく批判した。1936年の死去。館内には、その遺品や著作などが数多く展示されている。杭州市西湖の南岸、 花港観魚に近い南屏山麓にある。また、章太炎の墓は、南天竺(龍井路)の演福寺にある。

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徐錫麟墓

清末の革命家徐錫麟の墓。1907年の安慶起義に失敗して刑死した徐錫麟の遺体は、辛亥革命後、 西湖の孤山に葬られたが、のち当地に改葬された。杭州市の西南郊外、南天竺(龍井路)の演福寺境内。
追記:現在、生家に近い場所に新たに墓園が作られたようである。紹興市越城区北路。下が紹興市のもの。

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秋瑾墓

秋瑾
秋瑾

清末の女性革命家秋瑾の墓。台座には孫文の筆になる「鑒湖女侠千古」の題字がはめ込まれ、その上に左手を 腰に右手に剣を握った白亜の秋瑾像が立っている。前方を凝視した凜とした表情は、女侠の名に ふさわしい気迫が漂っている。秋瑾は生前、この西湖のほとりに埋葬されることを希望 していたが、処刑後は当局の目がきびしく、遺体は同志らの手で転々とした。だが、辛亥革命によって 清朝政府がほろぶと、願いはようやくかなえられ、1913年、孫文立会のもとでここに葬られたと 伝えられる。浙江省杭州市西湖の孤山、西冷橋のたもとにある。

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鄒容墓

四川巴県出身の革命家鄒容の墓。日本留学から帰国した鄒容は、1903年、清朝打倒を 呼びかけるパンフレット『革命軍』を執筆。内外の知識人や青年に大きな影響を与えた。同年6月、 反政府系の新聞記事に皇帝に対する不敬な表現があったとする『蘇報』 事件に連座して逮捕され、 禁固2年の刑を言い渡された。だが、1905年4月、刑期を終える前に獄中で病死した。享年21歳 であった。 上海県華けい鎮の西部にある。

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宋教仁墓

宋教仁墓
宋教仁墓

宋教仁は1882年、湖南桃源県に生まれた。22歳の時、黄興らと革命団体興中会を創立。長沙で 蜂起をはかったが失敗し、日本へと亡命した。日本では法政大学や早稲田大学で学ぶ一方、 中国同盟会の成立にも関わり、1905年、その湖南分会副会長に選ばれた。その後、中国東北地方へわたり、 同盟会遼東支部の設立に尽力。またその間、『間島問題』を著わし、日本の同地域への侵略意図を暴露したこと もある。辛亥革命後は、南京臨時政府の法制院総裁となったが、実権が袁世凱に移るやかつての同盟会を 中心に小政党を糾合し、国民党を創設。1912年に行われた中国初の国会選挙では、圧倒的な議席を獲得 した。だが、1913年3月、袁世凱がさしむけた刺客によって上海駅頭で暗殺された。まだ31歳の若さ だった。墓は円形をなしており、上部には鷲の像が飾られている。市内北部の閘北公園内。

宋教仁暗殺現場
辛亥革命の指導者・宋教仁が暗殺された場所。宋教仁は1913年、上海駅頭で袁世凱がさしむけた刺客によって 暗殺された。今の上海北駅。

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熊成基墓

熊成基
熊成基

熊成基は、揚州出身の革命家で光復会会員。1908年、安慶で蜂起を試みたが失敗。 その後、 1910年にハルピンで海軍大臣載洵の暗殺をはかったが、失敗し、処刑された。江蘇省揚州市痩西湖畔の蜀崗の中峰の万松嶺にある。

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