周恩来故居

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周恩来の生家。1898年に生まれた周恩来は、天津の南開中学を卒業後、日本留学をへて1919年、 学生団体覚悟社を結成。天津における学生運動のリーダー的存在となった。翌年、フランスへとわたり、中国共産党に入党、 欧州支部の責任者となった。帰国後は、黄埔軍官学校の政治部主任を皮切りに中国共産党の最高幹部のひとりとして 活躍した。故居には、少年時代に使った部屋をはじめ両親の部屋、養母や乳母の部屋などが残っている。また 内部には当時のポートレイト写真をはじめ、自ら編集長をつとめた「淮安日報」や直筆の手紙など、 多くの遺品が展示されている。市内の中心となる鎮淮楼から見て西北の付馬巷。曲巷と紅光西巷の交差点 にある。また市内東北の桃花垠には「周総理記念館」がある。

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李大釗故居

李大釗
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中国共産党創設者の一人、李大釗の生家。李大釗は1889年の生まれ。1913年、 天津の北洋法政専門学校卒業後、日本に留学。早稲田大学政治本科で学んだ。日本留学中、マルクスレーニン主義に触れ、 帰国後『庶民の勝利』『ボルシェビズムの勝利』などの論文を執筆し、共産主義の中国への普及につとめた。1918年、 北京大学の経済学教授兼図書館主任に就任。当時、北京大学の図書館員として働いていた毛沢東にも思想的な影響を 与えたといわれる。1920年4月、コミンテルンのヴォイチンスキーの奨めにより、上海の陳独秀とともに中国共産党を 結成。以後、中国共産党の最高幹部のひとりとして、また中国におけるマルクス主義の第一人者として北方区での工作を 担当した。だが、1927年4月、全国的な「赤狩り」の嵐が吹き荒れるなか、張作霖政府によって処刑さ れた。故居は河北省楽亭県の県城東南の大黒村にあり、河北東部の典型的な民家のつくり。記念館が併設され、 写真や遺稿、遺品などが展示されている。

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華北軍区烈士陵園

支那事変から解放戦争にかけて、華北地区で犠牲になった革命戦士の墓がある。中国革命を支援した外国人として有名なベチューンとコトニスの墓もここにある。 ベチューンは、カナダ共産党から解放区へ派遣されたカナダ人医師で、 1938年から紅軍とともに前線で負傷兵の治療にあたっていたが、伝染病に感染して翌年、殉職。一方、コトニスは、赤十字国際委員会から派遣された中国支援医療団のインド人隊長で、 42年、解放区で死去した。それぞれの墓の前に生前の姿をかたどった記念像が置かれている。また園内には革命烈士記念館と白求恩(ベチューン)展覧館が併設されている。 河北省石家荘市内。石家荘駅の西側、中山中路にある。

 
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河北省に立つベチューン像
河北省に立つベチューン像
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西柏坡村中国共産党政府跡

1948年5月、毛沢東ら共産党指導部は解放戦争の進展にともない、延安から河北平山県の西柏坡に移ってきた。同年秋に発動された遼瀋・淮海・平津の3大戦役は、ここで立案、指揮された。なお、 旧址は解放後ダム工事で水没することとなったため、当所に移築したもので、現在、毛沢東や朱徳、劉少奇、周恩来らの旧居が復元されている。河北省平山県、石家荘から西北へ約70キロ。 太行山東麓の西柏坡村の虎沱河の北岸にある。

 
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冉荘地下道戦遺址

支那事変中につくられたゲリラ戦用の地下道跡。当時、中国の農民は共産党軍の指導に よって秘密の地下道を掘り、ゲリラ戦をおし進めた。こうした地下道は、今も各地に残っているが、 ここもそのひとつ。地下道は、村内を中心に4本の幹線と26本の支線が縦横に張り巡らされ、 長さは合計15キロにもおよぶ。ところどころに落し穴がもうけられており、出入口は祠や塀、 台所などで巧妙にカモフラージュされていた。現在、冉荘地下道戦記念館が建てられており、 当時の熾烈なゲリラ戦の様子を伝えている。保定市の南、清苑県の南方約15キロの冉荘村にある。

 
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百団大戦跡


山西省陽泉市の百団大戦記念館
何度も和平交渉を持ちかけた日本。その度に邪魔をした中共。和平機運に水を差した百団大戦もまた中共こそが日中戦争の仕掛け人だったことを示す動かぬ証拠である。

1940年8月、国民党内に対日妥協機運が生まれたのにあせった中国共産党は、そうした機運に水をさすべく計115師団、40万の兵力を投入して華北の主要な鉄道にいっせい攻撃を加えた。これが中国共産党が自画自賛する百団大戦なる戦闘である。

これはたしかに支那事変中もっぱら山岳地帯に隠れ潜んでいた中国共産党がその重い腰をあげて立ち上がった数少ない抗日戦闘のひとつである。しかしその実態はといえば、一般人を装ったゲリラや民兵を動員して引き起こした同時多発的なテロ活動にすぎなかった。

とはいうもののその結果、正太線がズタズタに寸断され、また満州鞍山製鉄所の燃料供給源であった井(脛) 炭坑もしばらく採炭不能に陥るなど日本側にもそれなりの被害をもたらし、またこれにより両軍の間にきざしていた停戦機運は雲散霧消し、和平に向けたそれまでの日本側の長年にわたる努力も水の泡となってしまったのも事実である。

正太線は 正定と太原を結ぶ鉄道路線。井(脛) 炭坑は河北省石家荘の西にあった。

(解説)
国民党内に生まれた対日妥協機運というのは、もうこれ以上日本軍と戦うのはやめようということです。要するに停戦です。しかし当初から山岳地帯に隠れ潜み、日本軍との戦闘には消極的だった中国共産党がここへ来てなぜ突然そこまでして停戦に反対したのでしょうか?

その理由は両軍が交戦していた方が中共にとって都合がよかったからです。そのことは戦中、みずからはほとんど日本軍と戦うことのなかった中国共産党が日本軍撤退後、国民党を追い落として政権を奪取した事実からも見て取れるでしょう。実際、中国共産党はその間、日本軍との戦いは国民党軍に任せたまま、自らはその背後で支配地域を着実に拡大していたのです。

そもそも日中戦争自体、中国共産党がしかけたものでした。盧溝橋事件で最初に発砲したのは中国共産党北方局の劉少奇麾下の部隊でしたし、船津和平協定の当日に大山大尉殺害事件を引き起こし、停戦協議を邪魔したのも中共でした。つまり日中戦争そのものが日本軍と国民党軍の共倒れをねらった中共がしかけた一大謀略だったのです。要するに中国共産党は最初から漁父の利を狙っていたのです。

口を開けば平和と戦争反対を訴えていた中国共産党の真の狙いがどこにあったのか、この百団大戦はその本音がポロリと漏れでた事件だといえるでしょう。

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白求恩戦地医院旧址

カナダ共産党から派遣され、八路軍に従軍したカナダ人医師ノーマン・ベチューンがもうけた野戦病院跡。 支那事変当時の1939年、共産党占領区に侵入した日本軍とこれを迎え撃つ賀龍部隊との間で激戦が繰り広げられた。 そのさい賀龍部隊とともに前線におもむいたベチューンは、近くにあった小さな廟のなかに野戦病院をもうけ、日本軍の砲弾が降り注ぐなか傷病兵の治療にあたった。ベチューン手術室記念館が併設されている。 滄州の西、河間県の県城北約30キロの屯荘にある。

 
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ベチューン
ベチューン
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通州事件跡

1937年7月29日、通州の中国人保安隊3000名が、同地に駐屯していた日本軍守備隊および 日本人居留民をいっせいに襲った。日本人200人あまりが犠牲になったこの事件は、その殺害方法があまりにもむごたらしかったこともあり、これをきっかけに「中国討つべし」の声が日本国内に一気に高まることになった。通州は北京東方、 現在の通県。

 
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廊坊事件跡

廊坊事件は、1937年7月25日、軍用電線の修理のため当地に派遣された日本軍部隊が、中国軍に射撃され、 両軍の衝突を引き起こした事件。和平に向けて動き出していた日本側を牽制し、無理矢理戦争に引きずり込もうとした中国側の策謀であったという見方もあり、翌日に発生した広安門事件とともに日中全面衝突を不可避とした一連の挑発事件のひとつ。廊坊は 北京と天津との間にある。

 
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