孫文故居

 

辛亥革命の指導者、孫文の生家。1866年に生まれた孫文は、13歳でハワイへ渡るまでここで過ごした。現在の家屋は、 ハワイからもどった当時26歳の孫文が自ら設計したもので、レンガづくりの2階建て。洋風と中国風をミックスした ユニークなデザインが、ひときわ目を引く。また面白いのは、周辺の家とは異なり西向きに建てられていた点。当時、 西向きの家は家相上よろしくないと誰もが信じ込んでいた時代であり、こうした大胆で型破りな設計のなかにも 伝統や迷信にとらわれない孫文の自由な精神がうかがえる。孫文故居紀念館が併設されており、少年時代の遺品をはじめ 孫文に関する資料が展示されている。また展示資料の中には、孫文を援助した日本人志士、山田義政や宮崎滔天らの名前も 見える。中山市の南郊、翠亨村にある。中山市内から東路線拱北行きのバスで翠亨村下車。

中山紀念堂

孫文の業績を称えて建てられた紀念堂。中山市の孫文中路にある。

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広東近代史陳列館

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アヘン戦争から辛亥革命にいたる広東の近代史を扱った歴史博物館。入口には、アヘン 戦争の際、虎門砲台で 使用された大砲が飾られている。広東博物館内。文明路と越秀 路の交差点にある。

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中山紀念碑

中山紀念碑
中山紀念碑

孫文の業績を称えた記念碑。高さ約40メートルで、花崗岩づくり。正面に孫文の遺言の全文が彫って ある。越秀山の山頂にある。

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中山紀念堂

 

孫文の業績を称えて建造された記念堂。辛亥革命後、広州市民と海外華僑が資金を出し合って造ったもので、 八角形の 屋根を持つ独特な宮殿様式。敷地はもと清朝軍の詰所だった所で、辛亥革命直後は革命軍の司令部が置かれた こともある。支那事変時、日本軍に爆撃され、屋根の一部が破壊されたが、1963年に大規模な修理を施した。 記念堂の前庭に、ステッキをもつ孫文の像が立っており、敷地内には孫文記念館が併設されている。市内越秀山の南麓にある。

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庚戌広州新軍起義烈士墓

広州で蜂起した新軍(革命軍)兵士の墓。1910年2月、同盟会の倪映典は、3000人あまりの新軍を率いて広州で決起。 牛王廟付近(現、先烈路)で清軍と激しい戦いを展開した。その際、戦死した倪映典ら数十人の 革命烈士が葬られている。広東省広州市の北郊外、 先烈路にある。

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黄花崗七二烈士墓


黄花崗蜂起で犠牲となった革命烈士の墓。1911年4月、黄興率いる革命党員は広州で大規模な武装蜂起を行った。だが、 蜂起は結局失敗に終わり、その際の戦闘で革命党員100人あまりが命を失った。その後、同盟会員の潘達微の奔走によって 72人分の遺体だけが回収され、ここに葬られた。広東省広州市の北郊、先烈路。

【関連史跡】黄花崗蜂起の指揮部跡は現在、「三・二九」蜂起指揮部旧跡記念館となっている (黄花崗蜂起は旧暦3月29日に起こったためこう呼ばれることがある)。場所は越華路小営巷。越華路は市政府の東側に伸びる道路。

 

捕らえられた黄花崗蜂起のメンバー
捕らえられた黄花崗蜂起のメンバー
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虎門要塞

威遠砲台

 

南の玄関口広州を防衛するため、珠江沿岸につくられた要塞跡。虎門要塞はもともと康煕帝の時代に築かれたものだったが、アヘン戦争前夜、欽差大臣林則徐と水師提督関天培によって拡充、整備された。当時は沙角砲台、大角砲台、威遠砲台などあわせて11の砲台が設置されていたが、現在は、沙角砲台と威遠砲台のふたつだけが歴史の風雪に耐えて残っている。広東省東莞県の南方、沙角にある。

【関連史跡】 付近の沙角公園内に、林則徐紀念碑がたっている。

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虎門アヘン戦争博物館

 

アヘン取り締まりの命をうけた林則徐は、広州へ赴くと海のすぐそばに巨大な人工池をふたつ造り、没収したアヘンを大量の石灰と一緒に投入。化学変化を起こさせたうえで海に流した。処分されたアヘンはおよそ1500トンにものぼり、人工池から生ずる白煙はその後、えんえん3週間にわたってたちのぼったという。ここはその当時、アヘンを処分した人工池があったとされる場所で、現在公園として市民の憩いの場となっている。なお園内にはアヘン戦争博物館と林則徐記念館があり、それぞれ当時の文物資料が展示されている。また博物館の前には、当時のアヘン焼却池と同規模の池が再現されている。広東省東莞市虎門鎮にある。

【関連史跡】近くにはアヘン戦争のさい、広州防衛のために設置された虎門砲台跡も残っている。

阿片を処分する林則徐
阿片を処分する林則徐
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沙面

 

西洋列強の中国侵略の足がかりとなった租界が置かれた場所。沙面は本来、日本の長崎出島同様、海禁政策をとる清朝によって設置された外国商人用の居住区にすぎなかったが、アヘン戦争後は治外法権を持つ独立行政区、すなわち租界として 生まれ変わった。敷地内には当時の外国商館や領事館だった南洋植民地風の重厚な石造建築がそのまま残っており、あたりを 覆ううっそうとしたガジュマルの老木とともにいまも往時の風情がしのばれる。なお当時は西半分がイギリス租界、東半分が フランス租界として使用されていたという。広東省広州市内の南方、珠江に面している。1、5、6、15路バスで622路あるいは黄沙下車。

官許を受けた中国商人
官許を受けた中国商人
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四方炮台遺址

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市内越秀山の頂上にある砲台でかつて広州城を見下ろす重要な要塞であった。1841年5月、沙面から広州城に上陸した イギリス軍がここを占拠し、司令部を置いた。また同月30日、『平英団』と称する武装農民がこれを包囲し、兵糧と弾薬の補給を絶った。だが、対英交渉に当たっていた清朝首脳の奕山がイギリス側の抗議に屈し、『平英団』に解散を命じたためかろうじて難を逃れた。広東省広州市内。

 

 

当時の広州市街
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