辛亥保路紀念碑

辛亥保路紀念碑
辛亥保路紀念碑

辛亥革命の発端となった保路運動の記念碑。1911年5月、清朝政府は川漢(成都~武漢)、 粤漢(広州~武漢)両鉄道の敷設権を市民の手から取り上げ、それをかたに列強から借款を引き出そうとした。 それに憤慨した市民は保路同志会を結成、各地で反対運動を展開した。こうした中、同年9月、 四川総督の趙爾豊がデモ隊に発砲、数十人の死者を出すや抗議行動はいっそう激しさを増し、 頻発するデモやストライキで四川全域は混乱状態となった。この四川における民衆闘争の火は、 やがて隣の湖北へ飛び火、同年10月10日ついに武昌蜂起を引き起こすこととなった。碑には、 機関車・レールなど保路運動を象徴するレリーフが彫られている。四川省成都市内の人民公園にある。

 

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桂園

1945年10月10日、毛沢東と蒋介石が「双十協定」に調印した場所。中山四路にある。周公館の近く。

 
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歌楽山烈士陵園(白公館)

1942年、アメリカの援助を受けて国民党が開設した中美(米の意味)特殊技術合作所の跡地。 ここは特務機関員を訓練する養成機関であるとともに共産党員など国民党に敵対する人間を収容する 牢獄でもあった。内部には20あまりの牢獄があり、そのうち最大のものが白公館と渣滓洞である。 白公館は、正式には第1看守所と呼ばれ、男性用の監房が20ほどあり、一方、第2看守所であった渣滓洞は、 男性用の監房が16、女性用の監房が2部屋あった。いずれも拷問室があり、大勢の革命家が ここで犠牲となったという。解放戦争末期、ここには300人ほどの政治犯が収容されていたが、 1949年11月、国民党が重慶を逃亡するさい、そのほとんどが殺害されたともいわれる。 張学良ととともに西安事件の際、蒋介石を監禁した楊虎城もここで殺害されたという。現在、特殊技術合作所跡を中心に展示室がもうけられており、当時の遺品や文献などが陳列されている。 また白公館と渣滓洞の両収容所跡には、拷問室や日の射さない陰湿な洞窟跡が残っている。 沙坪覇区の歌楽山のふもとにある。

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周公館

1938年から46年まで、共産党重慶駐在代表の周恩来が使用していた建物。別名、曾家岩50号。 国民党は、その活動を監視するため右隣に藍衣社の首領・戴笠の公館を置き、左隣には国民党系の 警察局派出所を配置した。現在、紅岩革命紀念館分館となっている。嘉陵江大橋の東の中山4路にある。

 
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紅岩革命記念館

ここは支那事変中、重慶におかれた中国共産党の出先機関だった建物で、1階が八路軍弁事所、 2階が中国共産党中央南方局として使われていた。建物の周囲には、国民党の憲兵所や特務機関、 機関銃陣地などが配置され、その活動は常に厳しい監視下にあったという。なお2階の東側奥には、 1945年秋、重慶会談にやってきた毛沢東が泊まった部屋がある。現在、歴史記念館として 一般公開されており、館内には、500点以上の文物や写真が展示されている。場所は、市内西郊の紅岩村。

【関連史跡】共産党重慶駐在代表の周恩来が事務所としてつかっていた周公館が、嘉陵江大橋の東、 中山四路曾家岩50号にあり、現在、紅岩革命紀念館分館となっている。また1945年10月10日、 国共両首脳による会談がおこなわれたさい、毛沢東と蒋介石が「双十協定」に調印した桂園もこの周公館の近くにある。

 
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趙一曼記念館

趙一曼は満州で反日武装闘争に殉じた有名な女性ゲリラ隊長。1905年に生まれ、1927年にモスクワの中山大学に留学するまでの22年間をこの町で過ごした。ソ連留学から帰国後、 しばらく江西や上海などで地下活動に従事していたが、1931年、九・一八事変がおこると 中共中央の指令で「満州」へおもむき、瀋陽やハルピンなどで労働運動の指導にあたった。その後、 反日ゲリラの根拠地、中共珠河道北区(ハルピンと牡丹江を結ぶ鉄道沿線の北側地域) 委員会の書記として武装闘争を指導した。だが、1935年、日本軍と交戦中、負傷してとらわれ、 ハルピン警務庁(現在、烈士記念館となっている)に護送され、そこで処刑された。 ここはその趙一曼の記念館で、彼女に関する多くの資料が展示されている。成都の南方、 宜賓市の郊外翠屏山にある。

 

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長征 松潘

1935年9月、毛沢東率いる長征軍は、四川の北部に横たわる松潘の大湿原地帯にさしかかった。 青草以外に食べるものもなく、しかも雨と風と雪が連日のように荒れ狂い、多くの同志が泥沼のなかに のみ込まれていったという。松潘は、四川北部の大湿原。

 

長征中の紅軍
長征中の紅軍
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大雪山


大雪山に近いアバ・チベット族チャン族自治州汶川県を表示しています。

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1935年6月、万年雪をいただくチェン峡山脈にさしかかった長征軍は、中国史上誰も試みたことのないといわれた大部隊による大雪山越えを行った。最大の難所は、海抜4000メートル級の夾金山。紅軍は、ほとんど防寒装備を持たず、 大勢の兵士が凍死した。「大雪山越えは長征の大きな試練であった。風雨や氷やひょうが耐えず、 紅軍を襲った。数百の同志が倒れて2度と起き上がらなかった。しかし、 紅軍はその屍を越えて前進した!(毛沢東)」。チェン峡山脈は、四川成都の西方に南北に横たわっている。

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濾定橋

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安順場での渡河に失敗した紅軍は、ここで再び渡河に挑戦した。だが、紅軍の前に横たわっていたのは、 踏み板をはずされた16本の鎖からなる朽ちかけた吊り橋ひとつであった。それでも紅軍は22人の兵士を募り、 決死の渡河を試みた。銃弾が雨あられと降り注ぐなか、決死隊はひとりまたひとりと怒濤逆巻く急流のなかへ 消えていった。しかし、運良く向こう岸へ近づいた兵士のひとりが手りゅう弾を敵のトーチカに 投げこむと敵は総崩れとなり敗走。紅軍主力は、踏み板を渡した橋の上をゆうゆうと渡ること ができた。なおこの大渡河は、かつて太平天国の石達開が渡ろうとして渡れず、全滅した河でもある。 濾定県城西方の大渡河に架かる橋。橋のたもとに四川大渡河瀘定橋陳列館がある。

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紅軍強渡大渡河遺址

金沙江を渡った紅軍は1935年5月、大渡河の南側安順場に到達した。向こう岸へ渡ろうとした紅軍は、 まず南岸にもやってあった船に先鋒隊を乗せ、対岸へと送り込んだ。先鋒隊は、激烈な戦闘ののち対岸の渡し場を占領。 早速、船を回して主力部隊の輸送にとりかかったが、困ったことに渡し船は3隻しかない。渡河に手間取っているすきに、 蒋介石の空軍が激しい爆撃を加えてきた。やむをえず紅軍は、すでに向こう岸へ渡った部隊 とともに河岸を並行してさかのぼり、濾定橋まで移動することにした。四川省石棉県西部の安順郷にある。

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