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武漢戦跡

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武漢攻略作戦は1938年8月に開始された。日本軍の編成は、中支那派遣軍司令官畑俊六大将の 指揮下に第2軍(東久邇宮稔彦王中将)と第11軍(岡村寧次中将)からなり、それに航空兵団主力と 海軍が参加した。作戦の概要は、第11軍を長江に沿って武漢へと進撃させ、第2軍を大別山系の 北側から南下させ、第11軍を支援するというものであった。対する中国軍は李宗仁の 第5戦区軍を長江北岸に、陳誠の第9戦区軍を南岸に配置し、その数およそ120万といわれた。 日本軍は途中マラリアと中国軍の激しい抵抗に悩まされたが、10月25日ついに武漢を陥落させる ことに成功した。この戦いで日本軍の損害だけでも戦死者約7000人、戦傷者約25000人という 犠牲を出したが、蒋介石はその直前に政府機関をさらに奥地の重慶へと移転させており、 中国軍の主力を叩くという日本側の意図はまたもや挫折した。ちなみに武漢一番乗りを果たしたのは 第6師団の佐野支隊で、佐野支隊は、戴家山のトーチカ陣地を突破して漢口市内の一角に突入した。 その後、派遣軍総司令官畑俊六大将らを迎えて武漢入城式が11月3日、漢口・江漢関前で挙行された。 武漢攻略作戦の主な戦跡は次のとおり。

 

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安慶

武漢攻略作戦の最初の目標となった都市。6月12日、海軍の揚子江部隊と陸軍の波田 支隊が上陸した。

九江

安慶から遡江した波田支隊を先鋒とする日本軍は途中、中国軍の猛撃に悩まされながらも7月26日、 ついに九江を占領した。この九江攻略作戦は、当時V作戦と呼ばれた。

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星子

九江から南下した101師団と106師団が8月21日に攻略。廬山のあるふもとの村で、 詩人陶淵明の故郷としても有名。

馬頭鎮・田家鎮

長江の南北両岸に位置し、武漢防衛の最大の拠点となった場所。中国軍の抵抗は激しく、 武漢攻略作戦における最大の激戦地となった。馬頭鎮の攻略に当たったのは第9師団と第27師団および波田支隊で、 9月14日に占領に成功。また田家鎮の方は第6師団の今村支隊が当たり、9月14日に占領に成功した。 なおこのあたりは、かつて三国志時代、呉の武将周瑜が両岸にはりめぐらした鉄の鎖によって 魏の曹操率いる大船団を破った「鉄鎖沈江」のエピソードで有名な場所でもある。

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