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馬占山と江橋抗戦記念館

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満州事変直後の1931年11月、日本軍は地方軍閥張海鵬を懐柔して北満へ向けて侵攻するようしむけた。 これを迎えうったのが馬賊あがりの馬占山である。馬占山は、嫩江にかかる鉄橋を爆破し、張軍の北上を阻止した。 これに対して日本軍が本格的に出兵、張海鵬軍と合流し、馬占山軍と嫩江をはさんで対峙した。 やがて嫩江をわたった連合軍は、大興付近でついに馬占山軍と衝突した。だが、抗日意識に燃える馬占山軍は ことのほか頑強で、一時は日本側が壊滅寸前にまで陥り、かけつけた増援部隊によってようやく危機を脱した ほどだった。

この大興の戦闘で、日本軍は戦死者46名という事変始まって以来の犠牲者を出し、 馬占山は一躍中国の英雄になった。その後、連合軍は昂昂渓付近に陣地を築いて抵抗していた馬占山軍を 追放することにようやく成功したが、この際の戦闘でも連合軍側は戦死者58名、凍傷者1000名あまり という多大な犠牲を払わなければならなかった。一連の戦闘が行われたのは、チチハル市の南方、 嫩江付近から昂昂渓地区。

 

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馬占山が拠った昂昂渓陣地を占領した日本軍
馬占山が拠った昂昂渓陣地を占領した日本軍

 

昂昂渓

大興の戦闘の後、馬占山軍が拠った場所。馬占山は、1931年11月、ここに陣地を築いて関東軍・張海鵬軍の連合軍を迎え撃った。チチハル市の南、昂昂渓地区。平斉線

破壊された嫩江鉄橋
破壊された嫩江鉄橋

 

嫩江鉄橋

1931年11月、馬占山軍は、この鉄橋を爆破し、張海鵬軍の北上を止めたものの、日本軍の反撃に会い、その先の大興付近で激しい戦闘が行われた。この大興の戦いで日本側は、46人が戦死、負傷者は151人にのぼった。平斉線(斉斉哈爾と四平を結ぶ鉄路)のチチハル寄り、嫩江にかかる橋。大興は次の駅。

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馬占山黒龍江省政府跡

1931年冬、日満連合軍に追われ、チチハルを撤退した馬占山は一時、この街に黒龍江省政府を置いた。 その後、関東軍の板垣征四郎参謀らは、海倫へ直接乗り込み馬占山と会談、満州国への帰順を説得した。 やがて内外の情勢から帰順に傾いた馬占山は、翌年2月、ハルピンで関東軍の多門師団長と会い、 正式に帰順を表明した。場所は、当時「広信当」と呼ばれた大商店。現在は、海倫人民銀行として使われている。

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馬占山
馬占山

【馬占山(1885〜1950)】
吉林省懐徳県の出身。馬賊から身を起こし、のちに黒龍江省長万福麟の配下となる。満州事変が勃発すると、本拠地チチハルを留守にしていた万福麟に代わり、黒龍江省主席代行として、満州北部に侵攻してきた日本軍を迎え撃った。嫩江の戦いや昂渓渓の戦いでは、日本側に大きな犠牲をもたらし、一躍、全中国の英雄となるも関東軍に懐柔され、満州国への参加を決意した。黒龍江省長兼軍政部長に就任したものの、まもなく 離反。省都チチハルを脱出して黒河へ逃走し、再び抗日活動に身を投じた。
満州国を離反したのは、日本が過度に主導権をにぎることに反発したためといわれるが、これとは別に満州国の建国祝宴の席上、自分の名前すらろくに書けない無学文盲ぶりを嘲笑されたことが原因だったという説もある。ともあれ、この馬占山将軍、どじょうひげをはやした愛嬌のあるスタイルのせいか、なぜか日本でも人気者となり、当時、子供たちの間で「馬占山ごっこ」遊びが流行ったり、なかには、盗品を売った金で遊廓に居続けご用となった自称馬占山大尽なども現れたという。

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